第87話 最後にもう一度、貴方に会えてよかった。
唇と唇が触れ合う。
つうっ、と。
喉を撫でられた。
愛惜しむように、慈しむように。
やがて、アリシアの顔が離れる。
俺はもう少しだけ彼女の体温を感じていたかった。
その身体を抱き締めようとして、
「おやめなさい」
やんわりと、窘められる。
「私は死者に過ぎません。あまり情を抱くと、後が辛くなりますよ」
構わない。
たとえこの先にどんな苦難が待ち受けていようと、今は君だけを見て、君だけを感じたい。
心の底から、アリシアのことが愛しいんだ。
「……まったく」
しょうがない男なんだから、と微苦笑するアリシア。
口元はかすかに綻んでいた。
「未練がましいのは、貴方だけじゃないのに」
再び吐息が重なった。
一度目よりも長く、深く。
窒息寸前まで互いのことを求め合って、
それから、
「……貴方は、ここにいるべきではありません」
くるりと、俺に背を向けた。
「帰りましょう。ヨシトを待っている人たちのところへ。――生者は生者のために生きるものですから」
歩き出すアリシア。
その後を追う。
あたりは暗闇に閉ざされていたが、やがて、さあっ、と視界が開けた。
そこは夜の草原だった。
空には黄金色の月が浮かび、ほのかな光で地上を照らしている。
俺たちは細い小道に立っていて、その終わりは見えない。
遠くには雄大な山々が聳え立っていた。
思わず、両拳をかたく握った。
なぜならこの風景は、俺の後悔そのもの。
アリシアを失った苦すぎる夜の再現だった。
――俺はここでもう一度、彼女を死神に奪われてしまうのではないか。
不安に駆られて、手を伸ばす。
自分のそばにアリシアを繋ぎ止めたかった。
でも。
「やはり、邪魔をしますか」
アリシアが立ち止まる。
視線の先。
俺たちの行く手には、漆黒の影が立ちはだかっていた。
それは巨大な獣だった。
肥大化した四肢に、獅子のように獰猛な凶相。
筋骨隆々たる体躯を、さらに、鋼鉄の鎧が覆う。
真紅の双眸は、まっすぐに俺を見詰めていた。
殺意も、敵意も、感じない。
すでに黒獣に取り込まれつつあるからだろうか、目と目が合った瞬間、アイツの考えが何となく伝わってきた。
善意と決意。
もう少し詳しく説明するなら、たとえば、未来の俺――ヨッさんと比較してみよう。
あの人は過去を変えるために色々なことをやってきた。
サポーターを派遣したり、パワーアップアイテムを送ってみたり。
ただ、それらはいずれも補助的というか間接的なものに留まっていた。
黒獣は違う。
直接的な過去干渉。
俺に成り代わり、《泡》やら何やらをすべて自分で倒す気らしい。
――オマエはもう戦わなくていい。
――あとは全部オレに任せて、ここでアリシアたちと幸せに暮らしてくれ。
無言のうちにそんな思惟が伝わってくる。
ありがたい話だ。
ありがたい話なんだが……過保護すぎるだろう、それは。
「引っ込めよ。別ルートにまで出張ってくるな」
これは俺の物語だ。
構える。
黒騎士にも八矢房芳人にも変身しない。
「今」の自分――伊城木芳人のまま相対する。
なんとなく、そうするべきだと感じた。
普段ならここでペラペラと「変身しない理由」を並べるところだが……
もう、賢者のふりはやめにしよう。
愚かでいい。
言語化できない感覚、感情、感性。
異世界で挫折を背負い込む以前、アリシアと出会った当時の俺は、そういう曖昧なものを大切にしていた、ような気がする。玲於奈とか013みたいに。
そのことをやっと思い出し――
「なッ!?」
俺は空高く打ち上げられ――次の瞬間、地面に激突した。
何が起こっているのか理解する前に、再び浮遊感、衝撃、浮遊感、衝撃、浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃浮遊感衝撃……。
認識が追い付いたのは、100回目の墜落。
ごく単純な話だ。
黒獣は俺を殴り飛ばし、空中でそれに追い付いて、もう一撃。
それを超高速で繰り返しただけのこと。
周囲への被害は甚大だった。
大地は裂けて抉れ、のどかな草原風景は消え去った。
今はただ、無残な荒野が広がるばかり。
にもかかわらず。
「……本当に、過保護すぎだろ」
俺の身体は無傷だった。
それどころか、痛みもない。
「――――」
どうにか立ち上がったところで、黒獣と視線がかち合った。
ただそれだけのことで、全身の自由を奪われた。
烈風のごとく吹き付ける神威が俺を押さえつけようとする。
――おまえは弱い。
――だからわざわざ工夫してるんだよ。
――痛くないように、怪我をしないように。
――この程度で動けなくなるようなヤツが、《泡》に勝てるわけがないだろう。
――分かったらもう寝てろ。
――あとは全部オレが片付けてやる。
黒獣の意思は、まるで幼子に言い聞かせるかのように穏やかなものだった。
俺の中で、弱気の声が囁く。
黒獣は強い。
だったら任せてしまえばいいじゃないか。
ガキみたいに意地を張ってどうなる。
それがよりよい結果につながるのか? その保証はあるのか?
大人の判断をしろ、芳人。
心が挫けそうになる。
歯を食いしばり、どうにかこうにか、意地を張り――
「やはり、こうなりましたか」
ふと、抗いがたいほどの重圧が消える。
俺をかばうように、アリシアが立っていた。
「黒獣は絶対に私を傷つけることはできません。彼にとってもアリシア・エル・ハイリアは傷痕であり、消せない起源なのですから。――ヨシト、その隙を衝きなさい」
「……君を、盾にしろと?」
「ええ。ある程度まで力を削ぐことができれば、“ヨッさん”でしたか、あの妙にくたびれた方と私の二人で貴方を黒獣から切り離します。いいですね?」
アリシアがこちらに手を差し伸べてくる。
けれど、なぜか素直に応じる気になれなかった。
「切り離したあと、アリシアはどうなるんだ」
「…………勿論、これからも貴方の傍にいます」
「嘘だ」
思考より先に言葉が出ていた。
そのあとに理解が続く。
ここで再会してからというもの、彼女はやけに感傷的で――それはたぶん、きっと。
「まったく、昔からヨシトは、妙なところで鋭いから困ります」
嘆息するアリシア。
「私はこちらに残ることになるでしょう。黒獣を宥めすかして未来に返すか、あるいは、この時間軸で貴方の代わりに《泡》と戦わせるか――いずれにせよ、手綱を握る者が必要になります。
だから、ここでお別れです。
どうか悲しまないでください。
二度もヨシトのことを救えるのですから、こんなに嬉しいことはありません。
いつまでも、貴方の幸せを願っています」




