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4-1

発見者の栄誉は得た。

異常事態の発生に、大混乱に陥ったが、すぐさま動員可能戦力を振り絞っての攻略が決断された。


その一大作戦に、新人である彼らも参加できた。もとより隠密性の高い『界』だ。案内は必要だった。


ただし、心動船が多数が参加する中の先発隊ではなく、撤退する際の備えとしてある後発隊に配置された。彼ら以外には数隻だけであり、それらは意味もなく上下左右に揺れていた。

安定性の無さは、感情制御の甘さの現れだ。


「まあ、仕方ねえか」


すでに主力は侵入し、後発発進を待っている状態だった。


「話が違う、これでは『界』を倒す栄誉を得る確率はごく低いものにしか……」

「さすがにそこまで甘い話はねえな」

「なーなー、外見たい外!」


聖女の両手が上下していた。


「……たしかコマンドにそんなのがあったか?」

「指摘するが『界』を移動中に透明化コマンドを打ち込むことは自殺行為だ」

「だめかー!」

「まだ時間あんだろ」

「お、おお……」


期待するような目が、ハンモック上から降り注いでいた。

やる気なく針を準備する船長の前方では、ページをめくる音がしていた。


「何度読んでもこの作品は泣けるでぇ」

「おい魔女、今から沈むな!」

「感情選択してないから大丈夫! ストックしてるだけですぜ?」

「ならいいか……」


心動船の根が、一斉に持ち上がった。

注目を促す動作であり、やる気の表れでもあった。


「そろそろ指摘された時刻のようだ」

「行くか」

「えぇ、外ぉ……」

 

聖女の哀願をふりほどきながら前へと進む。

行く先は、元の百倍ほどもあるマンホールだ。



 + + +


 

マンホールは密閉されておらず、その空気穴から入ることができた。

すぐに、普段とは違う質感を感じた。

誰よりもそれを体感してるであろう船に、まずは問いかけた。


「見えねえか?」

「――知覚範囲が、やはり狭い」


少しばかり接続してみたが、たしかに感知できるものがほとんどない。せいぜい上のマンホールが固く蓋をしている様子だけだ。


「異変を感知したらすぐに言えよ」

「はっ、言われずともわたしの身を守るために行うとも」


船長は猫を通して下を見る。

そこは、底なしの縦穴だった。

マンホールの直径そのままに、どこまでもどこまでも下へと続く。

さながらマリアナ海溝を覗き見ているようだ。果てのない、脆弱な生き物を拒否する暗黒が濃く蟠る。

現実のそれとの違いは、自由落下一時間では着かないこと、水圧ではなく心圧であることだ。

潜るためには相応の心の重さを必要とする。


「いけるか?」


外部の様子を、猫から船長を経由して渡された魔女は、冷静に首を振った。


「不明。緊急の時には、たぶん、船長を頼らないと」

「……わかった」

「ぶぅ」

「聖女にゃまだ出番はねえ、大人しくしてろ」

「つまんない」

「そんなもんだ」


意物に反発する性質上、彼女に対して情報の直接譲渡ができない。


「もっとさ、こう、がーって行って、バってやって、ばばーんって倒すんでいいじゃん」

「ああ、同感だ」

「センチョ、なんか冷たい」

「そうは見えねえだろうが、いまかなり忙しいんだ、悪いな」


魔女に情報を渡した後は、目を閉じ、リラックスした体勢で座った。

ひょうたん型の船、その前部に魔女が座り、間の中空に聖女がハンモックに揺れ、後部に出来た段差に船長が腰掛ける。三者はそれぞれ手を伸ばせば届く距離だ。

ひらひらと船長の眼前で手を動かす聖女にも気づかず、意識をただ周囲に向けた。

自由に動き回る猫、その視界を丹念に追い、確かめる。近距離のものは心動船が捉えているはずだ。

いまのところは、順調に沈んでいた。


「ちぇー」


聖女が寝転がり、脚をばたつかせた。

沈降が止まった。

いまだマンホールからいくらも離れていないにも関わらず、完全に停止した。


「……おい?」


フードを深くかぶった魔女が、聖女を見上げていた。

聖女は「うーがー」とうめきながらハンモック上をごろごろ転がる。しっかりと着付けられたはずの和装は緩む。


「……なにやってる」

「鑑賞ちゅう」


ふかく頷き。


「少女のふとももって、素晴らしい――」


感動を潜ませ静かに述べる。「ふヒっ」という笑い声も続いた気がした。


「おいこら、沈まなきゃいけねえ場面で、なに初手から興奮してやがる!」

「あれ? 船長ってこういうの嗜なんだりしない?」

「嗜んでたまるか! てーか、おまえ、能力使ってねえよな?」

「判断基準に基づいた判断、そう、つまり素」

「ドヤ顔でなに言ってやがる! てか素でそれかよ、おい!」


騒がしさに、聖女はわくわく顔で起き上がった。


「ん、なんだ、なにがどうした!」

「まだ出番じゃねえっての!」

「やはり聖女は外へと放り出すべきだ」

「バカ船は黙ってろ!」

「危険物の廃棄にどんな問題が?」


唾棄するように言う台詞に、船長は揶揄するように口を曲げた。


「……おまえ、単に聖女のこと怖がってるだけなんじゃねえか?」

「――なにを愚かなことを、そのような事実がどこにあると。不合理きわまりない指摘であり、誰であっても賛成票を投じることはない意見であり、やはり人間とは非論理的な思考が支配する生き物だと確信を――」

「根、無駄に動いてんぞ」


うねうねと、まるである種の感情をごまかすようにうごめいていた。


「よくわかんないけど、ぼく、脱げばいいのか?」


聖女ははだける。

船は急上昇した。


「んなわけねえ! いますぐちゃんと服を着ろ!」

「ほう……! ほほうっ!」

「魔女は鼻血出すな今すぐ拭け! クソ船もンな血で喜んでんじゃねえよ!」


猫は順調に下降してゆく他の心動船を捉えた。


「思いっきり出遅れてるだろうが! いますぐ沈め!」

「不可能っす! 至福以外の感情が見あたりませんサー!」

「迷いのねえその言葉が納得できるいい笑顔だ! いますぐ葬り去っちまえンな煩悩!」

「なー、センチョ、よくわかんないんだけど、ホントにぼく、なにすればいいんだ」

「大人しく、座ってろ!」

「えー」

「秘密兵器の出番はまだ先だ」

「ぼく、待つ」

 

キリッとしていた。


「ああ……」


正座でたたずむ様子に、魔女のテンションが下がる。

船もまた沈む。

しかし、なにかを期待するように見上げたまま待機する。


「……実は俺たちとの相性最悪の『界』じゃねえか、ここ……?」

 

いまさらだった。




 + + +



 

当然のことながら、下降するためには沈まなければならない。

そして、沈むためには気持ちを暗くしなければならない。

意海内に於いて距離は必ずしも当てになるものではないが現実の距離単位を目安として採用していた。

すでに、五キロは沈降した。周囲の暗黒は心なしか粘度を増し、沈む速度も減じる。

しかし、暇だった。


「なー、しりとりしようぜ!」


耐えかねたように聖女が言った。

かれこれ一時間は状況に変化がない。さすがの秘密兵器も限界だった。


「ちっとは緊張感保てよ」

「だって、ホンキでなんにも起きてないじゃないか。退屈だー」

「たしかにそうだけどな、ここで油断して、ばっくり横から食われでもしてみろ、いい笑いもんだろうが」

「あー、それは、たしかにまずい?」

「マズい」


真顔で頷くが、そうした想定外は起きないと考えてもいた。

多数の心動船が先行している。異変があれば彼らが先に出会う。

密閉された環境で戦闘が起これば上方まで乱流は伝わる。撃破・被撃破のどちらであっても察知可能だ。

油断していい場面ではないが、不必要に緊張する場面でもなかった。


だが、船は違う意見だった。


「センの提案を却下。聖女のしりとり案に賛成票を」

「おい?」

「浸食は最低限に抑えるべきだ。沈む以外にも感情を発散することを提案する」


『界』の内部にあっては、すべてがその影響を受ける。

心動船はある程度の防護力はあるが完璧とは言い難い。


「下に行くに従い、浸食の力が増大している。人間はわたしを守るために騒ぐべきだ。感情とやらでわたしを強く鎧うべきだ」

「無茶言ってんじゃねえぞ、おい」


聖女が待ってましたとばかりに手を上げる。


「じゃあ、しりとりぼくから! えーと、えっと、ライ」「ライオンとかってオチは止めろよ?」

「センチョ、エスパーか!」

「似たようなもんだが、今のはちげえ――」


この程度で尊敬のまなざしを受けるのは、むしろ気分が沈んだ。


船はその様子を見て、ふん、と鼻を鳴らす音をわざわざ作りながら言う。


「やはり人間は愚かしい」

「てーか、クソ船は参加しねえつもりか」

「なにゆえに、わたしがそのような児戯につき合わなければならないのか」

「俺と聖女だけでしりとりやんのかよ――」

「なんの問題が?」


ハンモックで揺れながら、聖女の興奮は収まらない。


「じゃあ、次は次は……!」

「いや、あんまりはしゃぐな、もうしりとりは止めな」

「えー」

 

会話が止むと、BGMのように流れ続けていた言葉が聞こえた。

魔女は外界を認識しているのかどうかも怪しい様子で身を縮ませ、ぶつぶつと言葉をつぶやき続けた。

船の外に音は無い。

完全な無音につつまれながら、魔女の声だけが流れる。その大半は、船長を見ながらだった。


「どうして私、いつも失敗するんだろ。なんでなんだろ、どうしてだろ。最後までちゃんと喋れる人ってホントに羨ましい……私は感情選択はできるけど、なにが正解とかだいたいわかんない。ひとつでも選択肢外したらアウトとかなにその無理ゲー。難易度高すぎるよぅ。とてもじゃないけど無理無理っす。なのに船長、聖女としゃべってた。きゃっきゃうふふのお話してた。甲斐性なしの浮気者――」


――ンなもんただの気にしすぎだ! なんだ浮気者ってのは! てーか、好きなだけ失敗しながら話しゃいいだろ、別に笑わねえよ!


そうした言葉、言えない。

いまは魔女に、ただひたすら『沈んで』もらわなければならない。


「そうだよ、私なんか誰からも無視されるんだ。私に価値なんてないんだ、なんでカケラでもそんなこと思ってたんだろ、最低最悪だよね、滅した方がいいよね、誰からも覚えられることなくこのまま去り、意海に溶けてなくなるのが相応だよね。そういえば心動船乗りの死亡率、前に調べたら驚いたなあ――」


そのまま沈黙する。


――いや、そこで黙るなよ! 気になんだろうが!


奥歯からはギリギリと音が鳴り続けている。


「なあなあ、ぼく気になる! それって――」

「聖女、猫に餌やってみねえか!」


させるかとばかりに叫んだ。

魔女の集中を乱してはならない。

ポーチの中から、猫用の餌をいくつか取り出す。

猫は現金なまでの素早さで身を起こし、すさまじい速度でぴくぴく鼻を震わせた。


「お、いいのかセンチョ」

「却下する。わたしの内部を汚す行為は、どのようなものであれ排除されるべきだ」


船の言葉はいつも通り無視して、聖女の手のひらに餌をざらざらと入れた。

猫はいままで寝ていたのが嘘のような素早さでハンモック上へ駆け上った。


「おお、おおお……!」


がつがつと勢いよく食べる。

まるで奇跡であるかのように目を輝かせる。

少ない餌はすぐになくなる。ざらついた舌で残さず舐め取る動きに、聖女は身をよじった。


「くすぐったいって! だめだって!」


船は沈降を止めた。

魔女の鼻息は、この上なく荒かった。


「いや、おまえ、いい加減にしとけよ?」


冷たい視線を向ける先、魔女は自らの口を両手で塞ぎ、興奮をできるだけこぼさないようにした。

特に至福の表情で猫を撫でている聖女を見ぬよう、土下座体勢でこらえる。

それでも船は小刻みに上昇する。


「ったく」


 頬杖とため息をついた。


「おい、聖女――」


どっかの魔女が興奮するから、あんま無防備な姿晒すな――そうした言葉は、途切れた。いや、「割り込まれた」。


 薄緑色の船内の光景が、暗く重い暗黒に。

 皮膚感覚と同等の、視界によらぬ理解を得る。

 流れが静止から乱流へシフトする予兆を察知。

  ――危険――

 言葉よりも先に意味を認識、『自らの根』を振るい、暗闇より迫る敵を突き刺した。貫いたまま毛細根を広げ、より深くダメージを与える。反動により船が揺れるが、反対側の根を可動させることで均衡を――


能力伝達を経由した心動船からの情報だと、ようやく気がついた。敵意物が甲高い悲鳴を上げる。まるで自分自身の手がそれをしているようだった。振り払い引き千切り藻屑とさせる。見えたその姿は――


「ネズミ……?」


心動船と同等の大きさを持つ意物だった。

敵は一体だけではなく、無数に、あらゆる箇所から突進した。

下方からも、似たような騒ぎが伝わる。


言葉で言う暇はない。魔女に触れ、情報を送る。より暗く青い色彩を選択した気配が即座に返った。感情選択による急速潜行。敵の突進を間一髪で回避。すぐ真上で、布を引き裂いたような叫びが通過した。


「敵か! ぼくが――」

「黙ってろッ!」


根と機動で対処可能。奥の手を使用することは論外だ。

猫に接続し、状況を確かめる。視界が回る。縦穴の壁面すべてから、にじみ出るように現れていた。この『界』に生息する意物。人が泰樹を守り助けているように、『界』を守護する防衛者たち。


それらは壁面を足場に、全身のバネを使い突進した。心動船の速度に迫るそれが狂ったドラムのリズムで連続する。移動の反作用が円柱内に乱流を作る。


敵は意海中での方向転換はできないようだった。だが、その数と速度は決して侮れない。平穏だった潜行作業は、今や無数の直線が迫り来る戦場と化していた。


「誘い込みかよ!」


敵を逃げられぬ地点までおびき寄せ、これを滅ぼす。

ここまですでに一時間かけて潜っている、昇るにも同程度の時間が必要だ。


猫は野生動物の炯眼で海流と敵の動作を見る。

真下からは、暴発する花火のように戦いの余波が湧き上がった。


「わたし、もう、生きてここ出られないんだ、ここで死ぬんだここで死ぬんだここで死ぬんだここで死ぬんだ――」


魔女は生真面目なまでの必死さで落ち込んだ。その分、下降速度は速くなる。


「な、体液がないと――!?」


心動船は刺し殺した相手が、味わいのない餌である事実に驚愕した。


「『界』が狩りを覚えたってか? ふざけてんじゃねえぞ……!」


船長は船員の情報を連結し、それぞれに返しながら叫ぶ。

三次元的な動きが、直線しか行わない敵の突進を的確に避ける。だが――


「クソ、挙動が遅くなってやがる」


限界が近かった。

ネズミたちが起こす乱流以外にも、根の動きに『重み』が加わったためだ。それだけの心圧が掛かっている。


「センチョ、やっぱ、ぼくが出る!」

「まだだ! ここで無駄に消費すんな!」

「でも――」

「でももクソもあるか、てめえの仕事を考えろ! ここで耐えるのが、いまのおまえの役割だ!」


船長は視線鋭く船体後方の壁を睨みつける。


「アホ船もよけいなこと考えんじゃねえぞ。ここで聖女消耗させてみろ、中心核が破壊できなくなる!」


返事はなかった。


「船長、提案」

「なんだ魔女!」

「『沈み』ましょう」

「あ――?」


心沈めた状態特有の丁寧さで魔女は述べる。


「下方では他の心動船が戦闘している。そう、これは『敵の多くを引きつけている』状況だとも言えます」

「……いまなら沈降速度さえありゃ、先発隊も通り抜けられる、そう言いてえのか?」

「はい」


仮定と楽観の多い案だった。

敵が主力をいまここで出していると仮定し、核周辺に心動船一隻で対処できるだけの戦力しか残していないと楽観する。

味方を囮にしての、単騎突入。


「ここで、補給の効かない切り札を晒すか――」


悩み苦悩する様子は一瞬、すぐさま破顔し、


「いい考えだ、やるぞ」


その手をつかんだ。

魔女もまた握り返す。


「まあ、それほど大したもんじゃねえが――」


意識を凝らし。


「俺の後悔だ」


船長自身の過去を開いた。


 

 + + +

 ―――――

 + + +



昔、自分は一人ではなく二人だった――

そう言って信じてくれる者はなかなかいない。しかし、それは紛れもない事実だった。


  

たいていの混者がそうであるように、船長もまた施設にいた。

意物に対処できる者を教育するためであり、同時に「混者は意物を引きつけやすい」との噂があるためだった。

危険な者は、一カ所にまとまってもらわなければ困る。


そこで船長は一人ではなかった。

『分身』、『ダブル』、あるいは『ドッペルゲンガー』、そう呼ばれる概念の混者、それが彼らだった。

生まれた時からそうではなかった。だが、気づくと自分が増えていた。


たとえば朝起きると、もう片方の自分はまだ寝ている。

その場合、起きている自分と寝ている自分、両方の意識があり、そのどちらも『自分』だった。

イルカは右脳と左脳を交互に休ませると言うが、おそらく似たような状態だろう。


よく「どっちも自分だなんて混乱しない?」と質問されるが、彼からすればその問いかけは「左手と右手があって混乱しない?」といわれているようなものだった。体が一つしかないのは不便じゃないのかと逆に問い返し、相手を困らせた。


子供だった彼は、『自分』が二人いる事実をただ喜んだ。

 


 

山の中腹。曲がりくねった細い道を行かなければ到着できない僻地で、一見ただの子供のように、その実、二人分の体を使い、日々を過ごした。

施設ではろくに食べ物が出なかったため、体力維持のためにも、交代で一人だけが表に出るようにした。


彼らだけの秘密の『箱』に、片方が入るのだ。

交代の時間はまちまちで、たいていそのときの気分次第か、もう片方の体の調子が悪くなった時だった。



 

だが、秋の紅葉も深い、十一月。十歳の時。

彼は一人になった。


いつものように交代をする途中、『箱』に片方が入ろうとしている時。不意に空気が凍えた。気温としての寒さではなく、心が感じ取る寒さ――意物の出現前兆であると知ったのは、もっと後になってからだ。


二人で周囲を見渡すが、なんの変化もありはしない。ただ寒さだけが増えた。

いったいどういうことかと戸惑いながらも交代を行おうとした瞬間――


いまも覚えている。

記憶の奥底にへばりついて離れない。


はじめに感じたのは、痛みだった。

体のどこでもない、しかし、確実に大切な部位を力任せにねじ切られた辛さ。


叫び声が二つ上がり、一つが離れた。

壊れた機械のような、異なる世界の音楽のような、筆舌に尽くしがたい音をさせ、彼方からそれが到着していた。


意物だった。

 

一つの巨大な目、一本の角、人のような、それでいて決定的に異なる形。亀裂のような異質な笑みだけが記憶に残る。

ただの気まぐれだったのか、片方を奪い取った後、悪夢のように消え去った。


混者が意物を呼ぶ――その噂が本当だったかどうかはわからない。ただそれは、彼の片方を奪った。

のみならず、二人の間にあったつながりを、力任せに断ち切った。


一人残された彼は、なにもできず、『自分』が奪われた事実を認識できず、ただ座り続けた。

  


 + + +

 ―――――

 + + +



エレベーター特有の縦方向の加速。

その上位版が船内を揺らした。

心動船がうめき声を上げる。感情量の放出に船体がついて行かず、処理する端から次の感情があふれ出す。周囲との心圧格差によりすさまじい速度で船は沈む。


「え、あ、おい?」


船長は『分身』を失ったからこそ、その間にあるつながりを、別の人に向けることができた。

己自身から、別のものへとラインをつなぐ。そうすることで情報の受け渡しを行う。


いま流したのは、船長の過去だ。

船長の『怒りの源泉』だった。必ずしもヘコむだけのものではない。ここまでの速度が出るとは、思ってもみなかった。


「――」


魔女は顔も上げない。

通常、感情は外部へ放出しなければ、それは無いものとして扱われる。よほど心に重さがなければ、この状態にはならない。


「――これは……ありえ、ない」


心動船は苦痛を、いや、恐怖を口にした。

いま伝わっている感情量は、抑えたものでしかないと気がついたのだ。

これを完全に表に出せば、どれほどの速度になることか。


「俺、そこまで鬱ってたか……?」


目を丸くする船長のことなど気にすることもなく、船は行く。


落下。


それも『あふれるほどの感情』を纏いながらの。

直進したネズミを問題にもしない速度と硬度だ。矢のように、槍のように、隕石のように下へと流れる。地上における戦闘方法――感情を直接叩きつける戦い方を、心動船で行った。


先遣隊との距離は、あっという間に縮まる。


「セン、他の兄弟に……!」

「わかってる! 猫、頼むから下見てろよ」


身を縮ませる魔女に、元気出せとばかりに猫は体をすり付けた。


「そういう慰めを、いまやるんじゃねえよ!」


記憶している配置を参考に、当たらぬコースを選択。思考すべてを制御に振り分ける。


「よくわかんないけど、こっちな」


聖女がハンモック上に猫を抱え上げる。魔女に触れて煙が上がる気にもしていない。

猫は面倒そうに下を見る。


すぐ真下に、仲間の船がいた。


「クソ――!」

「セン、直撃だ!」


間に合わない距離であり、タイミングだった。

狭い認識範囲を、猛烈な速度が消費。高心圧化における高速衝突、その最悪が顔を覗かせた。


「――ァあッ!」


恐怖を押し殺し、絞り出すように叫んだ。

間に合わないと冷静に指摘する理性ですらも、怒りの根拠とする。

船体のこすれる音が響き、永遠にも思えるコンマ一秒が過ぎ去り――通過した。

わずかな接触だけで済み、致命的なダメージは負わなかったが、操作が崩れそうだった。

上へと遠ざかる心動船は加速していた。激怒のためなのか、接触のためなのかはわからない。


「申し訳ないことを――」


珍しく殊勝な言葉だったが、関わっている暇はなかった。

直下には、雲霞の如くネズミが迫る。

そちらは、何の遠慮も必要のない相手だった。


心動船は青く暗い光を纏い、さらなる攻撃力を発揮し、直進する。

群れる敵を、火矢を前にした紙のように蹴散らした。

だが、一匹が爪を船体上部にひっかける。それを基点にネズミたちが葡萄のように連なる、わずかに沈降速度が落ちるが、静かにキレた心動船の根により粉砕された。


「センチョ、スゴイ後悔してたんだな」

「そこまでのもんじゃねえはずだ!」


ネズミの集団が途切れ、真空のような静寂が続いた。どれほどの速度を出しているのかわからない。

そして、最大級のネズミが現れた。ほとんど円柱一杯にまで広がるほどの巨体。


「魔女!」

「――……」


小声で、呟いた。

誰にも聞こえぬ言葉だが、表に出した感情が、船の沈降速度を加速させる。

ライフル弾と化した速度と感情量を防ぎきれるものはない。先ほどまでの落下は児戯だったとでも言わんばかりに船体が軋みを上げ、心動船もまた悲鳴を上げる。花咲くように巨大ネズミは散った。直線の落下はその軌道をまるで変えなかった。

段階的に加速しながら、船はさらに下へ。


「魔女、もう止めだ!」


やがて、猫が『底』を見た。

魔女はぶつぶつと、なおも呪文のように陰鬱を呟く。

恨み言のようにも、哀切な悲鳴のようにも聞こえた。

よく見れば、その十の爪が己自身を掴み、血をにじませていた。

感情選択を行うほどの理性があるように見えない。


「くそ――」


ふたたび、魔女に触れる。

だが、楽しかった時の記憶など、そうそう思い浮かばない。

せめてそれからの船長の生き方を、断片的に送り込む。この速度で底に行けば全員が死ぬ。




送り込んだのは、簡単な概略だった。

それからの日々、二人だったものが一人になる――『脳の片方が無くなる』ことは、記憶の半分もまた失った事態だった。生きながらに死んだようなものだ。


立ち直れたとは、言えない。

しかしそれでも、この怒りを活用できる今は、決して悪いものではないはずだ。

奪ったものへ復讐できる。

奪われることなく守ることができる。

あるいは、取り返すことも――


「お」

「魔女の急激な感情変化禁止を提言する!」


がくがくと揺れながら、速度が落ちた。

心動船は絶え間なく文句と悲鳴を繰り返し、聖女はトランポリンと化したハンモックを猫と共に喜び、船長は落下速度を確かめる。


魔女はつぶやく。その言葉を耳にしたのは船長だけだった。瞬時に鬼面の表情となり、


「知ってんだよそんなことは!」


魔女へ言葉をたたきつけた。


「だからって諦められるかッ!」


上げたフードの奥底に、光るものがあった。

ある種の、希望も。

最高速度と比べれば、止まってるも同然にまで落ちているが。それでもまだ時速でいえば百キロを越える速度だ。


船長は根すべてを下方へ向けさせる。

着地――落下威力をバネのように吸収。先ほどから無理を重ねた根の一部にヒビが入り、積もりに積もった意物の残骸が煙として巻き上がった。


そして、船体はなおも下へとめり込もうとしていた。

船長は魔女の頭をはたいた。

人形のように「ぷうっ」と声が返り、ようやく沈降は止んだ。

 

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