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6-2

心動船――いや、いまとなっては弾き出された『それ』は、意海を浮遊していた。

泰樹に近づくわけにはいかない。だが、根の伸ばせる範囲から離れるわけにもいかなかった。自力の意海移動はできない。

幸いなことに再び弾かれることはなく、つかまることができた。


「――」


視界の先では他の種たちが、根を連結させ一つの巨大な群と化していた。

泰樹より離れた種が根を互いに絡ませ、巨大な編み目を形成した。さながら樹木の表面だけが浮かび上がり、個別の大移動を行おうとしているかのようだ。


種ひとつのみでは曖昧な意識しか持たないが、すべてをネットワークで接続すれば話は異なる。

編み目が移動反応を引き起こす図形を作り出し、肉食獣さながらの鋭さで機動する。不格好な集団だが、接近すれば無数の根槍が敵を貫く。


「ああ――」

 

あれが、本来の姿だ。

人類種の操作から学び取った図形情報を移動手段とし、億を越える種を使って敵を包み、貫き、喰らう。


「なるほど」

 

自分は、あの連結の中に入ることはできない。いままでも、ネットワークからは違和感ばかりを感じていた。

あの連携をこなすことは不可能だ。必ず不協和音を引き起こす。

 

優秀だと信じていたものは、しょせんは『個としての優秀』に過ぎなかった。

全体の一部として役割をまっとうする確かさではなかった。

だが――


「あれでは、勝てない」

 

それもわかった。

人間との契約を打ち切った種たちは、泰樹と違い、完全な『意物』と化している。

 

そして、見るところあの相手は聖女としての力を未だに保持している。

どれほどの巨大であっても意味をなさない。

力の差ではなく、相性の差こそが問題だ。


『網』は大きく横へとスウィングしながら、硬化させた根による数千の刺突を放った。戦車ですらスクラップとする攻撃は――届かなかった。

 

ヒトガタが笑い、指で示す。ただそれだけの動作で数千ばかり槍のみならず種までもが『消えた』。ぽっかりと巨大な穴が開く。情報を消すような気軽さだった。

けらけらと笑いながら動作を続け、取り囲もうとしている『網』を、虫食いの有様で崩れさせた。


ヒトガタは――人の形を取る『聖域』は、種の群と比較すれば、アリとボウリング玉ほどにも違う。

踏みつぶされて終わるはずの格差は、しかし、意海では格差とならない。アリがボウリング玉を喰らう異常が展開されていた。

 

聞こえぬ哄笑をまき散らしながら、その一方的な『遊び』は続けられる。

種製の『網』は、泰樹へ近づかせぬことだけで精一杯だ。それですらも、程なく不可能となる。


「ここで人間を切るべきではなかった」


おそらく泰樹は、機械的に契約違反と判断したのだろう

しかしそれは、この敵を打ち倒してからでもよかったはずだ。

生存を有利にするために人間を抱えておきながら、もっとも必要な場面で失った。


愚かだ、と思う。

だが同時に、わずかな希望も湧いた。


「――」


周囲を、たしかめる。

今の己が役立てることはないか。

ひょっとしたら、手柄を立てれば認めてくれるのではないか。


――情けない。


船体が震えているのを自覚した。

プライドと呼ばれるものを、自らの手で崩そうとしている。

それでも周囲の意海を丹念に調べ上げた。



そうして――破片を見つけた。

遙か下から飛翔した桐タンスの残骸だった。

それが何かを知る立場にはなかったが、異常なほどの力を保持していることはわかる。

 

根を使い、内へと取り込んだ。

栄養として咀嚼し、そして『観た』――



 

 + + +

 ―――――

 + + + 




混者であっても意海の内にいられる時間は少ない。

ただの人であれば即座に死亡する。聖者であれば呼吸ができぬだけだ。混者はその中間に位置する。

ある意味では、もっとも意海へと放り出されてはいけない立場にある。

聖者のように無事とは行かず、苦しまず逝くこともまたできない。

 

触れる全てが針のようだった。

喰われた右腕からは血が流れた。

『箱』へと入る途中に食いちぎられたのだ。隠れている部分は無事だったが、それ以外は意物に奪われた。

 

なによりも、『接続』がとぎれた。

心も体もこれ以上ないほど痛めつけられている、喉からは意志とは無関係に叫びが上がる。

 

――まあ、仕方ないか。

 

だが同時に、そうも思う。

この状況は致し方のないものであると。

 

この事態を引き起こしたのは意物だが、犯人とでもいえる相手は彼女だった。施設で知り合った、幼なじみともいえる少女だ。

 

恨む気には、なれなかった。

狭間を閉じた彼女は、とても真剣だった。おそらく、『自分』を助けるためにこれを行った。実際、あのままでは全滅していた。


最善ではないが、最悪の回避にはなった。彼女は現状に追いやった犯人であると同時に『自分』を助けた恩人でもあった。

それでも欲を言えば――


「もうちっとくらい、優しく切断してほしかった」

 

半端に出ている傷口からは血が流れ続けた。

全身が震えた。

ガチガチと歯の根が合わなくなる。

 

当然だ。この条件下で生き残れると思うほどめでたい頭はしていない。

その恐れの感情は、獲物の位置を意海中に伝えた。

 

『箱』の中より、外の映像は見ることは可能だ。腕を喰らったその意物が、引き返す様子もわかった。

腕を回転させ螺旋状に意海をかき乱しながら、一つ目が笑い、接近する。


現実世界への入り口は塞がれた。ならば、弱った餌の方を喰らっておこうか――

そんな余裕と侮りをありありと示した。


「――はっ」

 

冗談じゃない。

『箱』の強度からして、あの意物の攻撃は防ぐことができるだろう。

助けを待つことも、おそらく可能だ。億が一の、無いと断言できる可能性だが。

 

――それでいいのか?


なにもかもをぶちこわしにしてくれたこの相手に、亀のように身を縮めることが己の最期か?


「俺は、等山ハルト」

 

名乗る。

宣言する。


「テメエ程度にゃ死んでも負けねえッ!」


意海へ身を踊らせた。

全身を苦痛が苛んだ。それでも怒りは体を前進させる。

痛みが倍加するが、喰らい尽くすように雄叫びを上げる。


一本角の意物も吠える。おそらくは、名だ。

互いに名乗る一騎打ち。まるで正々堂々とした果たし合いのようだ。


同速で距離を詰める。

鬼の形をした意物は身をくねらせ進んだ。

意海を住処とするものだと納得させる自然さだ。

 

霞む目を逸らさず、『箱』をハンマーのように持ち上げ、怒りを吐き出す。

あと数分すらもない命につきあう意物に、わずかに感謝の念が生まれた。

すぐに殺意が塗り潰す。


「あぁ嗚呼ッ!」

 

『箱』を振り回し、叩きつけた。

『扉を開いたまま』で。

 

そう、これは実のところ戦いですらなかった。

混者による、意物の捕獲だ。敵は『箱』に触れたとたん、あっけなく吸い込まれた。

二人を一人にするため使っていた手段。だが、だからといって『他のものが入れないわけではない』。

閉じる。


「ワリい」

 

暴れる様子と、拳のつぶれる響き、タンス内より聞こえる凄絶な音を聞きながら宣言する。


「それ、どうやったって内側からは開けられねえんだ」

 

誰かが取っ手を開かなければ、閉じたままだ。

『自分』という相方がいなければ、決してこのような場所には入らなかった。

暴れ続けるそれは、ハルトの言葉がわかったかのように沈み出した。


鬼型の意物、その絶望が重みを増し、沈降する。

浮かび上がることは決してない。


「へっ――」


ざまあみろ。

中指をつきたて、ハルトもまた沈んだ。

死の手触りを、すぐそばに感じた。


――そういや、あの『箱』って、結局なんだったんだろうなぁ……

 

気づけば自分たちの側にあったあれはなにか。

その疑問が、最期の想いとなった――



 

 + + +

 ―――――

 + + + 




ハンマーで殴られたようだった。

心の奥深い部分、魂と呼ばれる部分にそれは叩きつけられた。

形容すべき言葉ない。

表現すべき手段がない。

ただ魂がひび割れた音を聞く。

真っ暗な暗闇。意海よりも更に深いそれ――


「うそだ――」

 

心動船内部に響く言葉は、誰にも伝わらず意味をなさない。


「ちがう、それは、ちがう――」

 

泰樹が、いまだすぐ近くにいるはずの存在が、唐突に消えたと信じた。

心細さの原因は、そのせいに違いない。

今しがた触れた情報、最期に見たものは――


「そんなはずがないんだ!」

 

金切り声。

根を伸ばし、泰樹へ近づく。

嘘だと証明しなければならない義務感だけがあった。ネットワークに連結し、再び会い、そして――


「あ」


泰樹との会話が再生された。

もう、すでに、回答は示されていた。


「嗚呼ぁ――」


泰樹は、たしかに自分のことを『混種』と表現した。


「――アアアアアアアアアアア――――!」

 

機械の赤ん坊がいるとすれば上げるだろう泣き声。植物であっては一度も発さないはずの音。

空洞の内側に否定だけが渦巻いた。

心の奥底がねじれて曲がる。

嘘だと否定する言葉は、倍の否定となって返った。

意志と理性があることが、心底恨めしかった。

逃げ道など、どこにもない、ただ悲鳴だけが満ちる。


「たすけて」

 

応えるように、泰樹の壁面が内側から砕けた。

放出した白光の中には聖女がいた。


「え」


叫び声は止まる。

聖女はまっすぐに見つめて笑い、そして、跳んだ。


「――は? な!」

 

事態は、もちろん理解できない。

飛翔した先には、自分しかいない。その先にあるのは無限ともいえる暗黒の広がりだ。

聖女の行いは、自殺行為以外のなにものでもない。

先ほど感じたばかりの、無限とも思える苦痛が思考を過ぎった。


「――!」


気づけば動いていた。

根で受け止め、内部へと招き入れた。


「よっと!」

 

まるで、当たり前のように船内のハンモックに収まった聖女は、にいっこりと笑った。


「この……この……! 聖女の行動はあまりに直線的かつ無謀なものであり、その行いは――!」

「やっぱ、友達だったんだな!」

「は――!?」

「たすけてくれた!」

「いや、それは、ただの成り行きでしかなく……」

「心動船、ってなんか他人行儀だよな! これからはフネちゃんって呼ぶな!」

「はあ!?」

 

らしくない叫び声すら、聖女の行動を止める役には立たない。


「はやく皆と合流しようぜ」

「いや、待ってほしい。わたしは既に――」

 

――心動船ではなくなった。

それを言うことは、躊躇われた。口にしてしまえば、事実だと認めたようで。


「? どうしたんだ?」

「いえ――ん?」

 

船の横部分に熱が籠もった。何度も味わったものが注入される。

現在、船横を泰樹に接触させておりコマンドが描かれたからだと気づいた時には遅かった。


「うし」

 

『扉』を開けた船長が、当たり前のように乗り込んだ。


「これで、全員揃ったな。行くぞ」

 

いつもの調子で、そう言った。




 + + +




「な、なにを――」

「あん?」

 

当たり前のように乗り込み、ごく自然にいつもの座席に座り、当然のように出発前のチェックを始める船長への戸惑いは、時間が経過するほど怒りへと変換された。


「なにを言っているのだセンは――不合理の極みだ! なにゆえわたしに乗り込み、そのような言葉を吐くのか!」

「うるせえぞ、おまえは俺たちの船だ。船なら黙って進め、そのくらいできんだろ」

「嫌だ!」

 

感情により動こうとするのを、根が捉え、係留させる。

あれほどの想いを迸らせたのにまったく動かず、船長の感情であれば簡単に動いてしまう己の体を、心の底から憎み抜く。


「わたしは、わたしは、泰樹になるんだ。センの船などではない、そんなはずがない! だから、これ以上は――!」

「あー」

 

困った顔で、頭を掻きながら。


「なに泣いてんだよ」

「泣いてなどいない!」

「さよか」

 

魔女がとてつもなくおそるおそる入り込む。

ぴりぴりと全身を緊張に漲らせた様子は、いかに泣いていないかを涙声で力説する船とどこか似ていた。


現在の船内にあるのは、可能な限り縮こまる魔女と、ハンモック上で右往左往する聖女と、腕を組んで黙って話を聞く船長と、震えを響かせ続ける壁だ。


猫は魔女に近づこうとしては涙目で睨まれ下がる。そして――


「ぃやっかましぃッ!」

 

船長は一喝した。


「聖女が困ってんだ。うだうだ言ってねえで助けろ! てめえもその後で助ける。悪いがこっちが優先だ」

「なにを言うか! わたしは種だ。心動船だ。泰樹となるものだ! 仲間などである、はずが――」

 

休息に語尾が萎んだ。

船長は片眉を上げた。

聖女は両親の口喧嘩を見つめる表情で、両手を上下させた。


「えと、友達で喧嘩は、ダメだ」


涙目の聖女と、「だんごむしになりたい」とつぶやく魔女を無視して、船長は言う。


「その泰樹に、なんか言われたってわけか?」

「――」

「図星か。聖女の突っ走りは相変わらずだが、それを素直におまえが助けたってんで疑問に思ってたんだが、ちっと納得した」

 

泰樹と人類種の契約が凍結された時点で、本来は『敵』だ。

だというのに、その命を助けた。


「なんでおまえ、反撃しねえんだ?」

「え」

「よくわかんねえが、泰樹にふざけたこと言われたんだろ。そういう奴は、殴りゃあいい」

「え、え――」

「てめえ一人じゃ無理だってんなら、俺が手伝ってやる」

 

心のままに行動する姿。非難すべき姿、そのはずだ。

なのに、目が離せない。

あらゆる感覚がその姿を捉え続ける。


「だが、いまは協力しろ。おまえの力が必要だ。クソ船――いや……」

 

首を振り。


「相棒。俺たちを助けろ。おまえが必要だ」

「うん……」

 

気づいたら、そう言っていた。

ねじれたような暗さは、不思議と薄くなっていた。




 + + +




「センチョ、どうするつもりだ」

「まずは呼びかけろ!」

 

船は前進する。

すでに根に係留されてはいない。

泰樹から、一個の船が勢いよく進む。


「え」

「あいつ友達なんだろ、だったら呼びかけてこっちに引き寄せろ! 名乗ってつながりを作れ!」

 

泰樹は敵となり、人間が動かせる船は一つのみ。

バックアップは期待できず、あらゆる戦闘力はこの船にあるものだけだ。

これだけで、事態すべてを解決しなければならない。


意海の暗さは変わらず。『聖域』が一方的に攻撃する様子もまた変化していない。膨大数の種は順調に減っている。


猫を通して見るその景色は、宇宙空間の戦闘のように非現実だ。

暗黒の中に光が奔り、巨大浮遊物が破壊される。


「それって――」

「まずは泰樹から引き剥がす、そうじゃなけりゃなにもできねえ!」

 

ハンモック上の聖女は、唾をひとつ飲み込み、深く一つ呼吸する。

見えぬまま、聞こえぬまま、友達へ向けて囁いた。


「フユちゃん、ぼくは、ここだ」


それは聖女が彼女につけた名前だった。

意海に溶け込んだ後も、決して離れることがないよう、対となる名を贈った。


「ぼくは――ナツは、ここだ」

 

ちいさな声を、友だけに届けるように。



種集団と戯れていた『それ』の反応は、素早かった。

はじかれたように顔を上げ、笑み以外の感情を初めて浮かべた。


哀切と不安を混ぜ合わせたそれは、すぐに決意に変わる。

あらゆる制止を振り切り向かった。口からは音にならぬ音を出す。名と名が結びつき、縁が張られる。

意海の中で、それは輝く一本の線だった。決して途切れないつながりだ。


それを確かめたのち、船は回頭し別方向へ向かった。泰樹と決別した以上、種の群はこの心動船をも襲う。ラインがつながった以上、邪魔の入らない場所へ行かなければならなかった。


事態は望む通りに進んでいる。

だが――船長は顔を険しくしながら叫んだ。


「魔女! 沈みすぎだ!」


魔女は涙目で首を振った。無理っす、不可能っす、だってこの世は暗闇だからと動作が語る。


「よくわかんねえけど気にしすぎだ! 別に貧相な体じゃなかったろうが!」

 

一段と沈降した。

心動船の壁はあきれたような声を出した。


「センの言動は、破滅的だと指摘する……」

「クソ、わけわかんねえ!」

「センチョ、あんまり沈むのダメだ! フユちゃん、ちょっと苦しそう!」

 

聖女は名のつながりを通してそれを知る。


「ああ、くっそ、どうすりゃ……!」

 

怒りは速度を生むが上昇にはつながらない。

そして船長は、魔女にかけるべき言葉を持たない。女心ほど理解から遠いものはない。


悩む男を横目に船は、キーパーソンである魔女を見た。

裾を合わせるようにしながら、可能な限りちいさく縮まり、「いやー……もうなにもかもがいややー……」と嘆いた。

 

先ほどから臭気を伝えぬように、魔女の一帯にのみ空気排出量を上げているが気づいてないようだ。

そして、魔女の顔には、見覚えがあった。あの吸収した欠片を通して知った顔だ。


記憶しているそれは幼かったが、間違いないだろう。

嘆きの理由は、性行予定である相手、この場合はセンに嫌われるからか? ならば――


「センに提言」

「なんだ!」

「魔女を抱きしめ、愛していると囁くべきだ」

「ブぁッ!?」


魔女は船壁に勢いよく頭をぶつけた。

そのままバンバンと壁を叩くが、その抗議行動は通じない。


「あ? そんなことしてどうすんだ」

「女性体とは、嫌いな相手でなければ、愛を囁かれることを喜ぶとの情報がある。いまは一刻も早い浮上が必要だ」

「そうか……?」

「ちょ、ちょあ――っ!?」


魔女の口からは、意味のある反論が出ていかなかった。

聖女は真面目な生徒のような顔で頷いた。


「ぼく、初めて知った」

「よくわかんねえが、やってみるか」

「ま、待った、待とうよ、なんかそれはダメっす、だめだめっす! 堪忍、平にご容赦を! てかせめて塗れタオルを所望!」

「俺相手じゃ、やっぱ嫌か?」

「ちがっ……!」

「ツンデレという行動パターンは、言葉ではなく表情を見るべきだと指摘」

 

魔女は大半の顔を隠しているが、真っ赤になった様子は見て取れた。

あわあわとした口元は、それが怒りではないことを伝えた。


「問題ねえ、ってことか?」

「のう! 断じてノーっ!」

 

立ち上がり叫ぶが、誰も聞いていない。

観客である聖女は手に汗握る。

煽り役である船と、魔女の盾となって抱えられている猫。外にいるヒトガタですらも固唾を飲んでいた。

魔女が障壁としていた猫を、観客である聖女がひょいとつまみ上げ。煽り役が「ノープロブレム。センは実行すべきだ」と冷静に告げた。


「それ返して! あと、おフネさんはもう黙っててよぅ!」

「その呼び名は感心できない。前々から思っていたが、魔女にはあだ名をつけるセンスが皆無だ」


根すべてを使って体勢を崩した。三十度の傾斜にハンモックは揺れ、魔女は足を滑らせる。

船長が受け止めた。


「うあ」

 

しっかと抱きしめていた。

その耳に、船長は眉間をしかめた顔のまま。


「あー、あいしてる、ぞ?」

 

どれほどの大根役者であっても、まだマシな演技をする。


「――!」


だが、船は跳ね返るように浮上した。

ばくばくと脈打つ心臓の音を誰もが聞いた。

完全停止する魔女の背後で、船が聖女に囁きかける。


「んん?」

 

船長は鼻を動かした。

上昇は停止した。

魔女は巨大岩石でも落ちてきたかのように縮こまる。反発のバネを存分に効かせて、私の臭気を嗅ぐなの一撃を船長へたたき込むより先に――


「なんかおまえ、いい匂いするな?」

 

――まさかのニオイフェチだった!

 

よくわからない大逆転ホームランを打った音が、魔女の脳内高くに鳴り響いた。当然のように船も同じ速度で上昇した。

実際には、ローブにしみこんだ、とんでもなく高い酒が原因だった。


「おぉ」

 

船外状況を把握できない聖女にもわかるほど、ぐいんと現金な速度で上昇する。

だが、それはまだ遅く、どこか遠慮がちだ。


葛藤がすべて解消されたわけではない。

船長は、他ならぬ魔女が『片方』を奪ってしまった相手だ。無邪気に喜ぶには、根深い罪があった。ここで「そう? じゃあ今日から恋人だね! もう逃がさないから☆」と言えるほどの傲岸さはない。

 

そもそも、同一人物とはいえ、恋した当の相手は別人なのでは?


「あうあぁ……」

 

興奮を司る赤と、鎮静を司る青。

魔女の感情がそれぞれ、すさまじい速度で膨張した。

 

ここで赤を選んでいいのか?

仮に選択すれば、いまのこの葛藤はなくなることだろう。青に属するものを気にすることなく、それに酔うことができる。感情選択はそれを可能にさせる。

 

だが、ただ嬉しさに身を任せることを、許すのか? 許していいのか?


両手はふらふらと迷う、つかもうとしては思いとどまる。

いつまでも止まることのない葛藤と相克は――


「はい、これ」


聖女が渡したもので解消された。

迷う手へと乗せられたそれは――赤い帯だった。


「じゃーん!」

 

船にそそのかされた聖女がバンザイと両手を上げた。

まったくわかっていない顔だった。

和装はほどかれ、その間からまっしろな素肌を晒した。

ハテナマークを浮かべた笑みが罪深い。


「おぉ――」

 

――ち っ ぱ い ぃ ッ !

 

船は音速を越える速度で上昇した。




なんら後ろめたさを感じさせず、萌え上がることのできる対象を前に、魔女のタガは完全に外れた。

萌えちゃダメなんじゃないかな? という理性は完全に置き去りだ。


「待てや!!」

 

肉食獣さながらの動きで飛びかかるのを、抱きしめていた船長が止めた。

魔女の手がゾンビのように獲物を求めてさまう。


「おぉおお、いますぐたっちだうんを!」

「なにトチ狂ってやがる! 俺ら触れたらダメだろうが! 冷静になれボケ!」

「ん、よくわかんないけど、ぼくなら別にいいけど?」

 

獣が覚醒した。


「おまえも煽るようなこと言ってんじゃねえッ!」

 

男女の体格差を熱意が越えた、徐々に船長は後退する。

聖女までの距離はあと数センチ。

抱きしめている理由は、もはや完全にその意味を変えていた。


「ぽらいそじゃあああああ! わしゃかんのんさまにあうんじゃぁあああ!!!」

「テメエどんなヤク決めてきやがった! 素でこの力とか嘘だろオイ!」

「あ、なんかフユちゃんが怒ってる」

 

心動船は最高速を叩き出した。

狂気寸前、あるいは狂喜乱舞の浮かれ具合が原動力だった。また、船長が欲望達成を押しとどめているため、心が満足の弛緩へ至らず、目の前に餌がぶら下がった暴れ馬の有様だ。

 

テンションは天井知らずに上がり続ける。

心動船は、直したばかりの各所が上げる悲鳴と軋みを必死にいなし、猫はもうやってられんとばかりに丸くなり、外のヒトガタは聖女との縁につながれて、強引に上へと引きずり上げられる。


釣られた魚のような有様の、すでに人間であることをやめた姿になりながらも、友の貞操を守ろうと必死に情報を伝える。


「え、ちゃんと服着ろ? なんで? 寝るときいつも裸なんだし――」

「フヒィ!!!!!!!!!」

「やめろ聖女! これ以上魔女に餌を与えてんじゃねえぇえッ!!」

「たったいま、この船内にマイハーレムが建国されたことを宣言しますぅ!」

「わけわかんねえ戯れ言もいい加減にしろ! とっとと目ぇ覚ませ!」

「ヒャッホゥ! ハルちゃんも聖女も私の嫁っ! なにこの夢の王国!」

「あ?」

「あ――」

 

互いに停止し、見つめ合う。

魔女の暴走はフードを取り、その素顔をさらしていた。

そして、『誰にも教えていないはずのあだ名を魔女が言った』。

 

近距離から顔を確かめる。

目ヤニついてんなコイツと思いながら船長は――


「おまえ、ひょっとして」

「いえいえなんのことやら、わたしには関係のないことで――」

 

こそこそと船長から離れ、フードをかぶる。

限界を越えつつあった上昇速度がようやく収まる。


「ごまかすな! おまえ、やっぱり――」

「違いますぅ、人違いですーっ!」

 

互いのことで手一杯であり、周囲のことを気にする余地はなかった。


だから、迫り来る致命的事態に気づいたのは二人だけだ。


「え、あぶない? なんで?」

 

外のヒトガタと。


「セン! もう境界面がすぐそこだ!」

 

ようやく喋れる状態まで復帰した船だった。

真上のそれは現実世界との『境』だ。

法則の異なる二つ能勢界の障は、岩壁さながらの頑丈で聳える。すでに引き返せない距離とタイミングだった。


「――ッ!」

 

船長は手を開き、閉じた。 

何千回も繰り返したその動作に、初めて手応えが返った。決定的な何かを破壊し、過ぎ去った音を聞く。

向かう先、上方に展開される壁に『穴』が開いた。


通り過ぎ飛び上がった船体は、そこを通り過ぎる。

ぞっとするような空虚が船体を包み、重力が捉えて引きずり下ろした。

異形の巨大種が、夕闇の気配を漂わせる茜色の空に放物線を描いた。縁により釣られたヒトガタもその軌跡を追い、線が千切れて放り投げられる。


船長と心動船は、あらゆる操作が効かなくなったことに戦慄する。

踏み出した足先の地面が、とつぜん消失したかのような怖気だ。コントロールの一切が失われた。


そうして、叫び声を上げる三人と一匹と一船と一ヒトガタは、現実世界に落ちた。

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