6-1
名とは、太古の昔より力を持つとされている。
精神世界そのものとも言える意海では、より強固な力となる。
その効果は複雑かつ相互的なものではあるが、主にふたつあった。
ひとつは、誇示だ。
自らの名を晒すことは、周囲一帯へ己の存在を示すことに等しい。
強力な意物であれば価値ある行いだが、人間種が行えばただの自殺行為だ。敵意物をおびき寄せる行為にしかならない。
もうひとつは、結びつけだ。
相手の名を呼びかける行為は、現実世界であればただの情報発信だが、意海であれば心をつなげるものとなる。
+ + +
殴られたと気づいた時には、床へとバウンドしていた。
監察官からの一撃だった。
だが、船長はその痛みに構っている暇がなかった。
『聖域』を残らず閉じこめたそれは、それまでの移動速度が嘘のように停止し――砕けた。
ただの桐ダンスであったことをようやく思い出したとでも言うような、あっけない崩壊だった。
その中から、人の形をした『何か』が現れた。
聖女の白光を無理矢理ヒトガタへと押し込めたようなそれは、不思議なほど存在感があった。光は瞼を焼くことなく、一個の存在として固定化され、まるでそこだけ黒色を塗り忘れたかのようだ。
自らの両手をしげしげと確かめ、こちらを見た。
笑っていた。
「ッ! 今すぐ心動船を発進させろ! 泰樹からの連絡を断ち切り閉鎖処理を施せ!」
意味を正しく理解したのは監察官だけだった。
だが、あまりに遅かった。
白いヒトガタは――『人の形に固められた聖域』は求めるように腕を伸ばした。
手の先から一条の白光が迸り、泰樹を直撃した。
攻撃は、中央会議場をも揺らした。
「最悪の事態だ」
その攻撃は、なんら実体のあるダメージとはならない。泰樹は人と契約を交わした存在だ、聖女の力は効果を発揮しない。だが、たったそれだけのことが、致命的だった。
人が攻撃を行った、ならば――「人間種は敵ではないか」と疑う。
仄かに照らしていた光が途切れ、室内は暗黒に染まった。
常に満たされていた新鮮な空気は供給を止め、室内に無音が生じる。
一瞬だけだった。
「な」「え」「あぁ?」「これって」「っ!」「病院区画にいる連中を急いで戻せ!」「ふざけるなよ――」「どうして」「船にいる奴ら残らず下ろせ! 下手すると殺されるぞ!」「逃げな――」「どうす」「『契約』が途切れた! 泰樹はあれを、人類種の攻撃だと判断した! 契約違反を疑っている! 『更新』まで閉鎖される!」
『契約』が、凍結された。
泰樹を、よりにもよって『人間』が攻撃したのだ。
混者すらも人間として捉える樹は、当然のようにあれもまた人間であると定義する。
泰樹と人間との間に交わされた契約は、簡単に言えば共に意物を倒すためのものだ。
大前提として、互いへの攻撃は禁止されていた。
意物と人間、根本的には相容れないことをよく承知していた。
だからこそ、この攻撃は決定的な疑義をもたらした。人は互恵の契約相手から、潜在的敵対者となった。
根本が凍結されたならば、下位の契約も無効となる。
すべての種は動きを止めた。どれほど怒鳴ろうとも、どれほど感情を流そうとも動かない。
コマンドは有効だが、それだけで意海を渡ることはできない。
彼ら自身の意識からすると、契約中も凍結中も、泰樹に従っているだけに過ぎなかった。
例外がいるとすれば――
「!」
船長は、立ち上がり、走った。
暗黒の中を、記憶のみを頼りに行く。
なんのために?
心に浮かんだ疑問の答えは、激怒が燃やし尽くした。
「中身ナシってのは、どういう冗談だ――!」
あの『箱』の許容人数は一人だ。だというのに開いた時、なにも出てこなかった。
『分身』は、あのタンスの中にいなかった。
+ + +
途中、猫を拾うことができたのは幸運だった。
ありったけの動物を集めて、下方からの接近を観察している動物連中に紛れ込んでいた、おかげで暗闇を見通す手段を得た。
抱え持つ直前に「も、やだっ!」と猫が叫んだ気もしたが、気のせいということにしておく。
そういえば、意海を見通せる動物たちは、そのほとんどが古来より続く地球産の意物、いわゆる『妖怪』と呼ばれるものだったかと考えるが、猫が猫であることに変わりはない。
「センチョ!」
上の壁を透過し、聖女が併走する。
その光は周囲を白く照らし、通常視界による移動を可能にさせた。
「――今回、おまえの出番はねえ」
「なにをしに行くんだっ!」
「関係ねえ。戻ってろ」
「センチョウッ!」
立ち止まる。
聖女は、肩で息をしながら、船長を親の敵のように睨みつけていた。
「悪いが、急いでんだ。話なら後で――」
「センチョは、ぼくに似てるって、思ってた」
「……」
「みんなを助けるためにがんばってるって、だけど、だけど――」
言葉にならない想いを、手繰ろうとする。
荒れる呼吸を噛みしめ、涙を拭き、覚悟を飲み込んだ表情で、そこに立つ。
「友達が、殉教した」
「――」
「だけど、まだ生きてる……!」
白光は、燃えさかるように広がる。
「ぼくは、助けにいく。センチョは、なにをしに行く! ぼくの友達を殺すのか!」
強く、鋭い視線だった。
聖女がなにを疑っているかを理解した。
現在、人が泰樹を攻撃したと疑われている状態だ。これを覆すためにはどうするべきか?
ひとつは黙って状況を見守ることだろう。
疑いこそ生じたが、言ってみれば疑いだけだ、敵を――ヒトガタとなったあの相手を排除できれば、再び交渉し、契約を締結できる可能性はある。
もうひとつは、「人間の手でヒトガタを殺すこと」だ。
人間種は有益であり、自らの手で狼藉者を排除できると認めさせる。
その可能性を持つのは、人間の中では一人だけ、「自意識を持つ心動船」の保持者だけだった。
この場合、倒すことができずとも泰樹の手助けをするだけでもいい。
最悪を覆すための手段。人間種が敵ではないことの証明だ。
だが――
「……たぶんだけどな」
暴れる猫を抱えながら、静かに。
「心動船、いや、違えな、『泰樹の種』の集団が、おまえの友達を殺そうとしている。理由は、自衛だ」
息を飲む音。
「状況はさっぱりわからねえ。どうしてあの『箱』がいまさらここに来たのか、どうしておまえの友達を飲み込み、ヒトガタにしたのか。なぜ攻撃とかトチ狂ったことやらかしたのか。わかんねえことだらけだ。だがな、聖女、おまえひとつ勘違いしてんぞ」
猫を渡し、手袋をつけた手でその頭を撫でる。
痛みが、聖女にではなくこちらにあれば良かったのにと強く思った。
おかげで直接ふれることも出来ない。
船長は泰樹を、木製の通路とその先にいる幾多の人たちを想う。
――知るか、クソッタレ。
目の前の子供を助けたいと思わない奴が、自身の感情に正直になれない奴が、心動船乗りになれるものか。
「俺は、みんなを助けたいわけじゃねえよ。ただ、おまえらを死なせるような真似をしたくねえだけだ。それだけは絶対に、なにがあろうと譲れねえ」
「じゃあ――!」
「だから、勘違いすんな」
破顔一笑。牙剥き吠える。
「おまえが命をかけてそいつを助けるってなら、おまえら纏めて俺が助けんだよ!」
+ + +
ほう――
心動船は感心する。
ついに愚かな人類種が、泰樹に反逆する事態を起こしたようだ。
幸いなことに、船体の傷はもうほとんど塞がっている。手伝うこともできるだろう。
即座に契約を破棄したのではなく凍結したことに、泰樹の知恵を感じた。
完全につながりを消してしまえば、泰樹は意物として扱われる。それでは聖者たちを内部に抱えた現状では自殺行為だ。
内部に巣食う聖者を完全に排除してから、改めて契約を完全に破棄するつもりだろう。
そう、あの聖女も例外では――
「……」
そこまで考えて、嫌な気分になった。
あの者たちを殺す。そのことは、むしろ望んでいたことのはずだ。
だのに、心にブレーキがかかった。
唾棄すべき行いであると、他ならぬ自分自身が考えた。深いところから来る確信であり、想いだった。
――いや。
違うはずだ。
この感情は、あの船長の能力により伝達されてしまったものに違いない。
種である自分たちは、泰樹に従うことが本義だ。ようやく、それが叶う日が来たのだ。
ネットワークを通して見れば、泰樹は意識を完全に覚醒させ、不遜な敵を葬るべく、指示を飛ばしていた。
すさまじい数の種が、ひとつの意志の下に行動する。
万軍の進行を思わせる圧倒があった。
――ああ……
感嘆とともに見上げる。
この場所と環境であれば、叶うはずだ、己の声もまた届くはずだ。
「偉大なる泰樹よ! わたしもまた――」
――あなたに従います。
最後まで言うことはできなかった。
機械的に振り向いたイメージ上の、泰樹の『顔』、そこには膨大な虚ろがあった。
とても見慣れたものだった。
他の種――同輩の、愚かな心動船とまったく同じだ。
「な――」
違う、そんなはずはない。
錯覚だと考えようとするが、幾度確かめても変わらなかった。
存分に話し合えるはずの、尊敬すらしていた相手は、茫漠とした『心』しか持っていなかった。
膨大の経験を積み上げることで獲得した、途轍もないパターン数が、会話を成立させていた。
夥しい知識を張り付けただけの心動船。それが泰樹の精神の形だった。
「――」
感情など、どこにもない。
期待していたあたたかい想いや意識など、皆無だ。
心動船の声に反応し、ふさわしいパターンがただ実行される。
「『界』を破壊したそうだな、ご苦労だった――」
嬉しくてしかたないはずの言葉は、ただひたすらに空疎だった。
「わたしは、わたしは――だって、そんな、次代の泰樹に――」
あえぐような言葉の入力に対し、出力が実行される。
「それは不可能だ」
「え」
「種ですらないものが、芽吹くことはない」
淡々と、事実だけが告げられる。
船は、何一つ言葉を言えない。心が理解を拒絶する。
「人が意海の影響を受け、混者となる。ならば逆もまたあり得る。想定はしていたが、これは悪しきものだ」
「な、ちが――わたしは!」
「廃棄する、『混種』よ」
コマンド実行、張り付いていた根が強制的に引きはがされ、意海へと放逐された。
+ + +
魔女はがばりと顔を上げる。
「ぬぁあ……?」
魔女は判然としない頭で、起きた出来事を理解しようとする。
ヤケ酒を煽って寝た脳味噌は、正確な情報をよこさない。頭痛とアルコール臭い息だけを知覚する。
周囲には脱ぎ散らかした服と散乱する酒瓶のセットがあった。
――頭、がんがん……
事態は理解できないが、文句はこぼれる。
上半身は起こしたが、目はまだ開いていない。
「なーにぃ……?」
この騒音の源は目覚まし時計かとベッドの周囲をべしべし叩く。空き缶が転がり落ちた。
「ああ、もう……」
動く内に思い出す。
自分は、人を殺したのだ。
それも初恋の人を。助けてくれた恩人を。
にもかかわらず、まるで気づかず日々を過ごした。
脳天気に女優なんぞをしていた時間を、残らず滅してやりたかった。
「うぅ――」
嫌々『観て』みれば、感情球はまったく萎んでいなかった。
感情制御を行う欠点のひとつだった。
あまりに膨大すぎる感情は制御できない。
選択されない感情は発散されずに居座り続け、魔女を絶え間なく苦しめ続ける。
ベッドの上で転げること二回、寝てしまいたい誘惑と戦うこと十回、なんか寒いと思ったら下着姿だったと呆れること五回、そういや同じこと思ったっけと記憶力のなさに呆れること二回。
「あえ?」
ようやく、時計のベルではないと気がついた。
近海接近警報。
心動船乗りたちへ敵襲を知らせるものだった。
「マズ!」
血の気が一気に引いた。
現在、下着姿だ。髪の毛はひどいことになっている。昨日シャワー浴びたか記憶が行方不明。鼻が嗅ぐのは酔っぱらいの臭気。
「え、まさか、この状態のまま、すぐ行かなきゃ……?」
この世でもっともひどい罰ゲームに違いない。
鼻を摘んで顔をしかめる聖女と猫、空気清浄が忙しいと皮肉を言う船、訳知り顔でなぜか重々しくうなずく船長が、やけにリアルな映像として思い浮かんだ。
「いや、違う! 冷静に待てなれわたし!」
呂律も思考も回っていない状態で、真犯人はそこだとばかりに、一升瓶を指し。
「そうだよ、私たちのチームの船、整備中なのですよ! 出れない無理無理不可能っす、行かなくていいんだ。私、ここにいてもいいんだ! いいんだよね――?」
急激に声は萎んだ。
出撃は不可能だが、かといってこのまま顔を出さないのもマズいはずだ。
高速でプランを組み立てる。
一秒でも短いコースを選ばなければ破滅する。
最速でシャワーを浴びて、洗顔歯磨きその他も同時に済ませる。その間に洗濯は可能か? てーか予備服あったっけ? 髪を乾かす時間はあるのか否か――
「わぎゃっ!?」
予定は、しかし、すべてキャンセルされた。
突然すべての照明が途切れたのだ。真っ暗になり、サイレンも止まった。
なにが起きたのか、相変わらずまったくわからないものの。
「やばい、なんか、とてつもなくヤバい」
危機感だけが、無制限に跳ね上がった。
この状況に対してもそうだが、別方向で深刻な事態が起きつつあると警告していた。
「あの船長が、この事態に動かないはずないぃ――!」
魔女は半泣きだった。
必死にローブを探す。
めちゃくちゃになった室内、明かりなしの手探りのみでは難易度が高すぎた。
あのなんだかかんだと言ってお人好しの幼なじみ的人物は、この事態を前に動かないはずがない、ここにまで来る公算が高い。
五分後、その予想を証明するように、足音が聞こえた。悪魔が近づく音だった。しかも接近してくるそれは二種類。当然のように身支度はなにひとつ進展していない。
酒瓶を何本か倒し、アルコール臭がさらにむせかえった。
「ああ――」
隠れる?
時間ないし会いたくないし居留守使う?
どこか隠れるべき?
ああ、そうだ、せめて毛布を体に巻いとく?
というか隠れたほうがいいって!
「魔女! いるか! いますぐに――」
船長は、ノックもせずに扉を開けた。契約破棄状態の現在は扉の鍵が外れた状態だった。
背後にいた聖女は光を放出していた。
意海の意物を灼くそれが、今はスポットライトのように下着姿で両手を挙げ「ぃひゃァうひぃっ!」とでも擬音をつけたくなる表情の魔女を照らした。
「あれ、魔女、おまえ俺とどっかで会ったことあるか?」
「人の半裸見といて第一声がそれかーッ!」
力の限りに突っ込みを入れた。
+ + +
なぜかシクシクと泣き続ける魔女の手を握りしめ、強引に向かった。
そのままでも問題ないだろとばかりに連れだそうとしたが、恐ろしいほどの抵抗にあった。
予備のローブを着込みながら「せ、せめて洗顔を……ッ」などと戯れ事を言っていたが当然のように無視。
聖女が「え、あの、ひょっとして――」と、魔女の素顔を前に変にあたふたしていたが、唇に人差し指を当て沈黙を強要した。どちらの意味であっても、この場の指摘は不要だ。
猫はもう好きにしてくれと言わんばかりの悟った顔で、聖女に抱えられている。
船員が、揃った。
あと必要なのは船だけだった。




