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「よ、ほっ」
泰樹の内部はおおよそ三つに区分されている。
住居区や生産区などではなく、聖者区、混者区、純人区の区分だ。
正確にはこれに人間の立ち入りが禁止されている中央区域があるが、ともあれ前より順番に意海から近かった。
さらに言えば、聖者区のすぐ外には枝が茂り、心動船が無数に待機していた。
この配置は、人が聖者をまったく信頼しておらず、また同時にその能力を深く信じていることの表れだ。
万が一聖者が反乱を起こせば混者が鎮圧へ行ける配置であり、同時に意物の襲撃があれば即座に聖者が対処できる配置でもある。
『異なるもの』を便利に使う意志が、如実に示されていた。
そうしたことを、聖女はまったく頓着していない。日光浴ができる。自由に動ける広さがある。この二点があれば十分だ。
ここは泰樹でも珍しい『広場』だ。天井一面は細い枝が編むように組み合わさり、地上の側で得た太陽光を放出している。床は多少の起伏があるものの、おおむね問題のない水平であり、泰樹自らが運んだ芝生がきれいに生え揃っている。
その中で、聖女はひとりリフティングをしていた。慣れた様子で意外なほど器用にサッカーボールを弾ませる。
船はメンテナンスを受けており、船長や魔女も疲弊している。
『界』を破壊した彼らには、しばらくの休息が与えられた。
だから、久しぶりに遊びに来たのだ。
中心部に近い純人区にいる者は、現実世界で遊び場を求める。混者はここに来ることを許されていない。そして、聖者はその言葉の持つイメージ通り、スポーツを行う者が少ない。筋骨隆々の聖者などもってのほかだ。
「とっ――」
だから、たいていここは、聖女ひとりだけのものだった。
一緒に走り回る仲間がいればいいと思うが、同時に怪我をさせるのも怖かった。
ちょっとした怪我で、あっけなく死んでしまった仲間は数え切れない。
楽しみのために誰かを死なせるのであれば、孤独の方がまだよかった。
「お……?」
小鳥の声さえ聞こえない、ボールを蹴る様子しかしない環境に別の音が混じる。聖女はすぐさま大きく蹴り上げ、草を蹴散らし駆け抜けた。途中で振り向きざまにボールを受け止め、一回転しながら再び疾走。速度はまったく落とさない。
「だいじょぶか!」
木陰で休んでいた相手へ叫ぶ。
問われた側は、苦笑を浮かべ、手をひらひらと動かした。
「心配しすぎですよ、もう」
聖女の友達だった。
同じ衣装を着ていたが、印象はまるで違う。
汗だくで、裾を土まみれにした聖女は野生児そのものだ。
対して口元をハンカチで抑え、ちいさく咳をする彼女は令嬢そのものだった。膝上に乗せた本がやけに重そうだ。
「そっか?」
「はい」
そう言って少女は、ゆっくりと本を開く。華奢な腕では、ただそれだけで大変な作業に見えた。
聖女は手をうろうろと動かし、しばらく悩み。
「あ、そうだ、えっと、相談いいか?」
「はい」
言ったものの、少しだけ困惑を表情に浮かべていた。
逡巡――初めて見るそれを前に、横たわる側は寂しそうな顔をした。
「なんかさ、ぼく、大切にされてるみたいなんだ」
「まあ」
「皆みたいに、すぐ殉教できるって思ってたけどさ、なんか時間かかるかも」
「――」
「こんな体、いつ消えてもいいと思うんだ。だけど――」
言葉を途切れさせた聖女は、実に微妙な顔をしていた。心を込めて作られた豪華な料理に、大嫌いなリンゴがふんだんに入っていたと気づいたような表情。嬉しいが、困ってもいた。
「優しい人たち、ということですか」
「んー、そうでもないかも」
「そうなのですか?」
「だって殴られた」
「え」
「あれって、けっこう嬉しいものなんだな!」
「ええ!?」
「でも、最近、ものっすごく怒られた」
「ど、どうしてですか?」
「抱きついたから」
「それだけで、ですか?」
きょとんとした顔。
「うん、センチョ、混者だから――」
「なにやってるんですか!」
「え、だめか?」
「駄目に決まってます!」
「でも、すごく嬉しいことあったから、仕方ない、うん」
「それ、スプラッタなことになりませんでしたか」
「なった!」
「自慢げに言わないでください」
「えー」
けらけらと笑う様子、それを見つめる少女は俯き――
「……本当に、仲良くしているのですね」
ちいさく、暗く、聞こえないよう言った。
「ん、なんか言ったか?」
「いいえ、なにも」
「そっか、けどやっぱり外、楽しい! いろんな人がいる」
「そうですか……」
「いつか一緒に船に乗ろうぜ! センチョならきっと許してくれる。二人で敵やっつけるんだ!」
「はい、きっと――」
ほほえみながら横たわる少女は、血の付着したハンカチを仕舞い込んだ。
+ + +
――わたしは、なぜ怒らないのか。
根が千切れ、船体は限界が近く、意志すら明滅する有様。その中で心動船が浮かべたのは、ただひたすらに疑問だった。
ゆるやかに明滅する液体の中で、その傷を癒す。
泰樹中心部に近い治療施設だった。
ここからは見えないが、人類種もこの施設を使っているものがいるはずだ。
切断された根は、気の利く者が回収していた。人間が骨折を直すのに似た姿で固定し、再接合を行っていた。治れば前以上の強度となるはずだ。風景が見えないことは不満だが、船体が徐々に元へと戻ろうとする様は決してイヤな気分ではなかった。
なにせ、最後の大物こそ逃したが、それまでの間だけでも十分すぎるほどのスコアを得た。
なによりも『界』を壊す偉業を、泰樹を救うことを成し遂げたのだ。
間違いなく、誇っていい成果だ。
――ああ、しかし……
それでも、壊滅寸前まで陥ったことは事実だ。
このような状況へと追いやったものたち――あの動物たちをすり潰さなければならない。
偉大なる次代の泰樹が傷つけられたのだ、体液を啜られ、千切られるのが当然だ。
そのはずだというのに……復讐心が湧いてこなかった。
不思議なほど安堵している自分がいる。
彼らが無事でよかったと、ほっとしている。
異常事態だった。
このような心の動きがあっていいはずがない。
泰樹の種であるこの体は、あの動物百匹よりも重い。ごく自然の摂理が、なぜ崩されなければならないのか。
船長の能力。
『接続』――
あれが原因ではないかと思えた。他に心当たりとなるものはない。
どのように考え、激怒しているかを、まるで当人であるかのように受け取ってしまった。
厄介な能力だった。
彼の考えを、まるで己が感じているかのように錯覚する。
たとえば、そう、船長が己は意物ではないかと疑う根深さを、心動船は知っていた。
+ + +
船長は手を開き、閉じた。
ベッドの上で寝そべり行うその動作は、なにも起こさない。『交代』を行うための動作が効力を発揮したことは、「一人」となってから一度もない。
だが、もう癖だった。今更直すこともできない。
苦笑する。
船長は、『界』破壊の報酬としての休息。現実的には心動船修復までの待機時間を、いったいどう過ごせばいいのかわからなかった。
聖女とは区画が違うため、簡単に会うことはできない。
魔女については悩んだが、会えば気詰まりになることが目に見えていた。理由はわからないが、船長の過去を見て尋常ではない落ち込み方をした。
猫と船は論外だ。
そして、彼ら以外に進んで会いたいと思える相手は、この泰樹内にはいなかった。
「まったく、なぁ」
こうしていると、要らぬことばかりを考え悩んでしまう。
解決に至らない袋小路の迷路。だが、それでも、思考はそこへと進む。
今ここにいる自分は、果たして本当に人間か?
彼が混者となったのは、生まれつきではない。
『分身』はいつの間にか増えていた。
これが混者そのままの現象――概念の混入による増加であればいい。子供一人が意海の影響により二人となっただけだ。
だが、本当にそうなのか?
『二人』のどちらかは片方、意物が変じたものだったのではないか。
精巧に人を模倣する意物と、意識を繋げたのではないのか。
もちろん、船長は自分が人間であると思っている、意物であった記憶などない。
それでも――接続によるつながりはとても強かった。どちらか片方だけが思ったことなど一つもなかった。
片方の脳味噌が考えた事柄は、そのままもう片方へも伝達され、『自分が思ったこと』となる。
そして、情報の一部は上書きが行なわれる。
「意識を失った状態で、聖女に触れた――」
言い訳のようにつぶやいてみる。
聖女には説教をしたが、ある意味ではひとつの証明ともなった。
意識のない状態であっても、船長は意物ではなく混者として扱われた。
「だが――」
それですらも、完全とはいえない。
聖者の持つ力には謎が多い。意物を一方的に祓い、混者からは一方的にダメージを負う。なぜそのようになっているのか、誰も説明ができない。
もし仮に、人間そっくりの――ありとあらゆる手段をもってしても判別できぬ意物がいれば、混者と同じ反応となるのではないか――
「――」
船長は、天井を見上げる。
己がニセモノであるかもしれない、それは必然、もう一人の『自分』のことを連想させた。
奪われてしまった、意物に喰われてしまった『自分』。だが、その全身が喰われたわけではない。
あの箱にはおかしなほどの強度があった。意物の攻撃などものともしないはずだ。箱の中にいる限り時間経過の影響を受けず、餓死などの危険もない。
無事でいる可能性があった。
接続は断ち切られ、長い時が過ぎている。だがそれでも、生きているのではないか。
心軍に入った理由のひとつが、それだ。ほかならぬ『自分』を助けるためだった。
だからこそ、魔女が「生きているはずが無い」とこぼした時、激怒した。
「だが、助けて、いいのか……?」
船長の葛藤の源は、そこだ。
自分か向こう、どちらかが意物だ。
それは戯れ事と切って捨てられるほど低い確率ではなかった。
自分が意物であるかもしれない。そして、そうでなかったとすれば、意物を助けようとしている――
「どっちも最悪だってえの……」
特に、後者であればいいと望んでいる、己の心根が。
腕で目を覆い、息を吐き出した。
緊急事態を知らせるサイレンが泰樹を揺らすまで、それは続いた。
「――っ!」
耳で聞き取った音、その意味を数瞬遅れで理解し、飛び起きる。
近海接近警報。
泰樹への直接攻撃が、二十四時間以内に起こる場合のみ鳴らされるものだ。
「『界』壊したってのに、もう次のピンチかよ!」
だが、ぐだぐだ悩むよりはマシに違いない。
放置していた上着を羽織り、牙剥くように笑い――すぐにげっそりとした表情となった。
「クソ船、まだメンテ中じゃねえか……ッ!」
+ + +
「なにが起きている!」
「ただいま確認中です!」
「短信部より連絡! 上昇してきます!」
「帰還か?」
「違います!」
「『視界』を回せ、ありったけだ!」
だが、だからといってなにもせずに自室で待機しているわけにもいかない。
船長は中央管制室へと向かった。
普段はひっそりとしている場所は、戦場となっていた。
動物たちの視界を受け取り、映像として出力する。
壁にはさまざまな意海内の光景が展示されるが、どれも『異常がない』。
泰樹自身が明確に危機を感じ取り、近海接近警報を発動したにも関わらず、その源を見いだすことができずにいた。
隣には、厳しい顔で映像を見る監察官がいた。
船長は左右を見渡し、事態を確認しながら尋ねる。
「なにか、手伝えることは?」
「ない」
「それでは他に――」
「戻れ」
にべもないとはこのことだった。
だが、たしかに目を凝らす以外にやるべき事柄などない。
「来ます!」
観察者が悲鳴のように叫んだ。
それは、黒色をしていた。
固体化した意海を纏わせ上昇していた。まるで黒曜石の矢が飛んでいるようだった。
『視界』の認識範囲を振り払い、すぐさま消えた。高射砲の発射から着弾まで追いかけることができる追跡能力を振り切ったのだ。
「……心動船の出撃が、間に合うことはない」
監督官は冷静だった。
「泰樹ですら、あの速度に対応することは難しい。いや――」
冷静に、最悪を告げる。
「どれほどの準備があったとしても、あの攻撃を防ぐことはできない」
奇しくも、船長たちと同様の攻撃手段だった。
圧倒的速度による突進。シンプルだからこそ対処が難しく、取れる手段は限られる。
「いつもの対処法だ」
吐き捨てるように監察官は言う。
「『聖域』が――殉教者が必要だ」
+ + +
「え――」
聖女は、言われたその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
相変わらずの細い手足、令嬢のようなたおやかさ。
病弱そのものの友達は、しかし、必死で走った為、息を乱していた。
荒い呼吸を続ける彼女に向けて、聖女は恐る恐る訊いた。
「な、なんて、言った?」
「殉教することに、なりました」
「い、いつ!」
「今日、いまからです」
ついさっきまで、ぼくと遊んでたじゃないか――
反論にもならない言葉を止める。
行かないでくれと懇願する動作を抑える。
すぐさまあふれようとするそれを、唇を血が滲むほど噛みしめ閉じ込めた。
フラッシュバックするように、過去の、仲間や先輩たちの姿が思い浮かんだ。
彼女はここまで走ってきた。最期に会う相手として、選ばれた。
なら――
聖女は口を曲げ、笑いを作った。
ちゃんと、『笑顔』になっているだろうか。
「よかった。おめでとう」
「はい」
「えっと、あー……」
先輩たちは、いったいなんと言っていただろうか。いや、違う。
「ぼくも、ゼッタイそこへ行く」
必要なのは、自分自身の言葉だ。
「だから、大丈夫」
「あんまり遅れたら、イヤですよ」
「――うん」
聖女のわずかな躊躇に、手は強く握られた。
見れば必死な顔がある。
「お願い、です」
「わかった」
いままでにないくらい、強い力だった。
手はぶるぶると震えている。
ごまかさず、まっすぐにその目を見返した。
「ぼくも、後に続く」
「よかった――」
「場所は?」
「下」
「時間は」
「もう、行かないと」
彼女は皆を守るものとなる。
聖者として生まれたものの本懐。そのはずだ。
しかし、聖女の声は、ふさがれたように出ていかなかった。
彼女はその様子を微笑み見つめ、そして――
「またね」
消えた。
「あ……」
追いかけるべきかを、迷う。
聖者がその気になれば、心動船や泰樹をすり抜けることができる。
その能力を使って今、『下』へ向かった。
追えば間に合うはずだった。言葉だってかけてやれるかもしれない。
「――」
だが、彼女はさよならを告げた。長いつき合いだ、そこに浮かんだ感情を、よく知っている。
あれは、精一杯の虚勢だ。
+ + +
心軍結成初期において、聖者の存在は福音だった。
現実世界においてはただの虚弱者が、実に有効な『兵器』となる。
一人の死により、どれほどの人間が助かるかわからない。
心動船とは元々、彼らをポイントまで運ぶ輸送艦でしかなかった。
意界を白く染め上げる光景が幾度も幾度も繰り返され、意物の『上陸』は激減した。
地上にて跋扈する意物はゆるやかに数を減らし、人類は意界衝突後から初めて人口を増加させることに成功した。
だが、誰かが言った。
地上の、現実世界の安堵とは裏腹の、苦汁に満ちた声で。
――彼ら聖者は、この意界で英雄となれる存在だ。これは、ふさわしい扱いではない。
心動船乗りたちがまっさきに頷き同意した。
――俺たちは、彼らを死なせすぎた。できるなら、救ってやりたい。
泰樹もこれに賛意を示し、専用の住居を作成した。
地上の人々は反対した。
せっかく得られた安全を脅かすようなまねをなぜするのかと、声を極めて罵った。
聖者たちは、その騒動を不思議そうな顔で見守った。
幾度かの議論を経て、ようやく現在の運用へと至った。
しかし、それでも、その使い方の根本は変わっていない。
+ + +
映像に、一人の少女が映った。
白く長い衣服は聖女を思わせる。だが、細かい部分は違う。髪も、あのようにウェーブのかかったものではなかったはずだ。
船長は安堵し、そして同時に、猛烈にその安堵を嫌悪した。
少女は泰樹を蹴り、真下へとまっすぐ落ちた。
身に纏う光は意海からの悪意を遮断するが、同時に善意をも拒絶する。呼吸する手段が塞がれる。
蝶が落ちているようだった。
ひらひらと綺麗に、揺れながら落下する。
無音の時間が流れる。
誰もが見ていた。遙か下から迫る悪意を受け止める者の姿を、全員が見ていることしかできなかった。
苦しみ耐え、哀願のようになにかの言葉を発し、痙攣し、やがて――動きを止めた。
何人かは、目をそらした。
船長は、そらさなかった。
震える拳が、隣と当たった。
殉教が終わった。
白光が消え、ぼう、と仄かな炎が揺らめく。
蝋燭ほどのものが、次の瞬間には燎原の火の如く広がり、意海を灼いた。
少女の体はそれに巻き込まれ、粉雪よりも儚く消える。
『聖域』が展開される。
赤、青、黄色、白、緑、紫――万色が乱舞し、球状に拡大する。
卵の中から更に大きな卵が孵る、そのような有様で膨れ上がり、泰樹の真下に巨大な結界が形成された。
意海を拒絶する反応。その真価は死した後にこそ発揮される。
聖者という名の『毒』が、意海を染める。
小型中型を問わず全ての意物が、灼かれて消えた。火に炙られた落ち葉よりもあっけなく。
本能的に、この場の危険を彼らは悟った。
命を懸して作られた反意海空間、これに耐えられる意物など、どこにもいない――
いない、はずだった。
安堵の混じる鎮魂が、再び極度の緊張へと塗り替えられた。
誰もが終わったものとして捉えた攻撃。黒色塊の突入が『聖域』へと入った後も形を残した、のみならず、通過しようとしていた。
すでに半分を越え、さらに向かう。物質化した高圧物が剥がれ、中身を晒す。
桐のタンスだった。
家具売場に置かれていてもおかしくない日常が、高速で飛翔していた。
その光景に、誰もが一瞬、判断をなくした。
「うそだ――」
ただ一人、船長だけが崩れ落ちるように、絶望と共に呻いた。
「どうして、俺が――ハルトがそこにいんだよ――」
監察官が目を剥いた。
意海で名前を呼ぶ、子供でもわかる重大違反を行った愚か者が目の前にいた。舌を湿らせ叱責するより先に、どよめきが耳を打った。
監察官は弾かれたように映像を見る。青ざめる観衆の前で、桐タンスは扉を開け、『聖域』を残らず吸い込んだ。
+ + +
彼女には名前がなかった。
ほぼすべての聖女がそうであるように、新生児に義務づけられた検査に引っかかり、そのまま泰樹へ送り込まれた。
親といういものは、存在だけは知っているが、どのようなものかはわからなかった。
いたのは、仲間だ。
はじめ十人を数えていた彼らは、五歳になるころには四人になっていた。
三人は寿命だった。
もう二人は風邪をこじらせて。
一人は『使われて』。
緊急事態が重なった際、対処できる聖者が他にいなかったのだ。殉教者として、泰樹を守った。
心動船乗りの一人が、自分たちに深く頭を下げていたのが印象に残った。
――うん、そう。
彼女は、『思う』。
先輩たちは、一人、また一人と殉教した。
おかしなくらい、爽やかだった。ピクニックにでも向かうように手を振り、別れた。
――ああ、良かった。
友達たちと手を取り合い、安堵を確かめ合ったのを覚えている。
――殉教って、怖いことじゃないんだ。
いつも元気な友達は、目をきらきらさせていた。
よし、ぼくも――!
そんな風に、憧れてすらいた。
いまなら、わかる。
きっとあれは、年下の者たちを心配させないための配慮だ。
悩んで、苦しんで、呪って、恨んで――
何回も何十回も何千回も何億回も繰り返した末に、一つの嘘が生まれた。聖者たちの間で、それは受け継がれた。
きちんと『聖域』になれば、意海で皆と再会できる。
そんな嘘が。
嘘。
そう、もう嘘だとわかった。
――ひょっとしたらって、ほんの少しだけ思った。
――だけど……
皆の意識は、どこにもなかった。
黒。
冷たい悪意だけがある。
すべてが吸い込まれて消える絶対の広漠。どれほど光と熱を広げたところでまるで足りない。
人の心がいていい場所ではなかった。ここは、あまりにも寒い。
けれど、もう遅い。
知った時には取り返しがつかない。
真実を伝えることはできない。
――ああ……
悔しい。
そう考えることができる事実を、死した後にも意識のある状態を疑いもしないまま、懺悔のように思う。
友達と、別れてしまった。
彼女には最期の時を見られたくなかったからこそ、さよならを伝えた、間近で見送ることのないようにした。だが、これでは伝えられない。
――死ぬの、嫌。
彼女のことを思う。
誰よりも一緒にいた、誰よりもまぶしく、誰よりも元気な。
妬ましさもあった、けれど、その何倍も愛おしかった――
――死にたくない……
聖者には、通常、名前がない。
だが、かなりの割合で、子供の名前は生まれる前から候補を決めておくものだ。
それを知るものも、中にはいる。
「ナツ、会いたいよ」
そう『口でしゃべった』。
殉教した少女の形は残らず消えた。
反意海存在、人の形をした凝固物は、しかし、意物を打ち倒すのではなく、友との再会を選択した。
+ + +
「え――」
その声を、聖女はたしかに聞いた。
呆然とした耳に声は届いた。
あまりにかすかな声が、心の奥底で響く。
聖女は、ゆっくりと、呼吸する。
痛いほどに鼓動が高鳴っているのがわかる。
理由はわからない、原因も不明。
ただ、確信があった。
「行かないと」
気づけば、そう口にしていた。




