第8話 ワシントンのパニックと激変する世論
第8話 ワシントンのパニックと激変する世論
一九四四年十一月一日、未明。
合衆国首都ワシントンD.C.、ペンシルベニア通り1600番地——ホワイトハウス。
ポツポツとガラス窓を叩く冷たい秋雨の音が、重苦しい沈黙が支配する大統領執務室に響いていた。
部屋を満たしていたのは、上質なタバコの灰の匂いと、冷や汗の酸っぱい臭気、そして耐えがたい絶望の気配だった。
車椅子に深く身を沈めた第32代合衆国大統領、フランクリン・D・ルーズヴェルトは、震える手で短くなった吸い殻を灰皿に押し付けた。
その顔色は、かつての力強いリーダーの面影を完全に失い、鉛色に白ばんでいる。深く刻まれた眉間のシワと、落ちくぼんだ目元には、隠しきれない重病の影と困惑が張り付いていた。
「……本当なのか、ジョージ?」
乾いたダミ声でルーズヴェルトが問う。
大統領の正面に直立する陸軍参謀総長、ジョージ・C・マーシャル大将の顔は、まるで大理石で彫られた石像のように硬直していた。その背筋は伸び切っていたが、頬の肉がピクピクと痙攣している。
「本当です、大統領閣下」
マーシャルは絞り出すような声で言った。
「クルーガー中将からの最終打電、並びにハルゼー提督からの緊急報告により確認されました。十月二十八日午前十時……フィリピン・レイテ島に展開していた我が第6軍——司令官ウォルター・クルーガー中将以下、およそ二十万の将兵が、敵水上艦隊の包囲と猛烈な艦砲射撃に屈し……無条件降伏いたしました」
ドスン、と隣で拳を机に叩きつけたのは、海軍作戦部長アーネスト・キング大将だった。
その顔は憤怒で真っ赤に染まり、太い首筋に青筋が浮き出ている。
「バカな! たかが型遅れの戦艦数隻と巡洋艦隊に、二十万の陸軍が投降しただと!? ハルゼーは何をしていた! 第38任務部隊の巨大な空母群はどこで遊んでいたというんだ!」
「ハルゼー提督は小沢艦隊の空母群を追撃するために北上中でした!」
マーシャルが珍しく激昂して言い返す。
「空母の艦載機による支援も試みましたが、陸上陣地と敵艦隊が接近しすぎているため、味方の誤爆が多発して戦闘の維持が不可能となった! 補給船団を全滅させられ、弾薬も食料も水すらもない泥沼の中で、二十万の命を無駄に散らすか、降伏するかの二択しか残されていなかったのだ!」
「静かにしろ……! 二人とも!」
ルーズヴェルトが机を叩いた。しかしその手には力がなく、コトリと鈍い音が響くだけだった。
大統領は胸を押さえ、苦しそうに激しい咳を繰り返した。
二十万。
アメリカ海軍、提督たち、そして合衆国陸軍の歴史において、かつて一度も経験したことのない巨大な敗北。
フィリピンを奪還し、太平洋の制海権を完全に握るはずだった「捷一号作戦(アメリカ名:キング二号作戦)」は、アメリカ合衆国にとって前代未聞の悲劇と恥辱の舞台へと変貌してしまったのだった。
◆
同日午前八時。ワシントンの街頭。
冷たい秋雨が降るコンクリートの歩道を、新聞売りの少年たちの甲高い叫び声が引き裂いた。
「号外! 号外だッ! レイテ島で米軍が大敗! クルーガー将軍以下、二十万人降伏!!」
「マッカーサー将軍、フィリピンから脱出! 第6軍、全滅!!」
雨で湿った紙面には、黒々とした巨大な太字の活字が躍っていた。
『200,000 SURRENDER IN LEYTE!』
(レイテにて二十万が降伏!)
通勤途中の市民たちが、弾かれたように足を止め、少年たちを取り囲んだ。セント硬貨を放り投げ、奪い取るように号外をむさぼり読む。
紙面をめくった瞬間、悲鳴が上がった。
ある女性は口元を押さえ、その場に膝から崩れ落ちた。雨の水たまりに新聞が落ち、インクが滲んでいく。
「嘘よ……嘘でしょ!? うちのボブは……ボブは第24歩兵師団にいるのよ!」
「二十万……二十万人だって!? 全滅したというのか!?」
「我が国の無敵の軍隊が、あんなジャップの古い戦艦に負けたというのか!?」
街中に広がるのは、驚愕と、困惑と、そして底知れぬ恐怖だった。
それまでラジオや映画館のニュース映画で流れていたのは、常に「勝利する強いアメリカ」だった。ソロモンを制し、マリアナを突破し、ヨーロッパではパリを解放した合衆国。誰もが「戦争はもうすぐ終わる」「我が国の勝利は揺るがない」と信じて疑わなかった。
その絶対の信仰が、たった一枚の号外によって粉々に打ち砕かれたのだ。
ワシントンだけではない。ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ——全米のあらゆる都市が、雷撃を受けたかのように大パニックに陥っていた。
電話回線は愛する息子の安否を確かめようとする家族からの集中で完全にパンクし、陸軍省の受付には怒号を上げる市民たちが押し寄せた。
◆
同日夜。ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデン。
熱気と興奮、そして渦巻く憤怒で満ちあふれた巨大なアリーナの壇上に、一人の男が立っていた。
トーマス・E・デューイ。
ニューヨーク州知事であり、来る十一月七日の大統領選挙における野党・共和党の指名候補である。
眩いばかりのアーク灯の光を浴びながら、デューイは口髭を蓄えた凛々しい顔を上げ、マイクに向かって解き放たれた獅子のように吼えた。
「国民の皆さん! 我々は本日、合衆国の歴史において最も暗く、最も屈辱的な報せを受け取りました!」
大観衆から「そうだ!」「ルーズヴェルトを叩き出せ!」という地鳴りのような歓声と怒号が湧き起こる。
「ワシントンの老朽化した政権は、我々に何を約束していたでしょうか!?『勝利は近い』『若い兵士たちは間もなく家に帰ってくる』と騙し続けてきたのではないですか!?」
デューイは腕を振り上げ、激しい身振りでホワイトハウスの軍事指導部を糾弾した。
「二十万です! 二十万の輝かしいアメリカの若者たちが、無謀で無計画な作戦の犠牲となり、物資も弾薬も補給も与えられぬまま、熱帯の泥の中で日本の巨大戦艦の砲撃に晒されたのです! これは敗北ではない! ルーズヴェルト政権による、我が国の若者に対する無慈悲な大虐殺だ!」
会場のボルテージが最高潮に達しようとしたその時、デューイは静かに自らの演台の下から厚い一冊の極秘ファイルを取り出し、高く掲げて見せた。
「……だが、国民の皆さん! 悲劇はレイテだけではない! 我々は本日、陸軍省および海軍省内部の良識ある告発者たちにより、あまりにも恐ろしい……合衆国史上最大の裏切りの証拠を入手いたしました!」
一瞬、数万の観衆が息を飲んだ。フラッシュの光がバチバチと爆発するように焚かれ、報道陣のカメラが一斉に迫る。
「一九四一年十二月七日! あの『真珠湾攻撃』の日、ルーズヴェルト政権は日本艦隊の暗号打電を事前に完全に解読し、ハワイ襲来の意図と日時を把握していました! にもかかわらず! ホワイトハウスはこの最高機密情報を隠蔽し、ハワイのキンメル提督やショート将軍へ警告を発することなく握り潰したのです!」
アリーナ全体が、まるで巨大な爆弾が落とされたかのような過酷な静寂に包まれた。
「なぜか!? 自らが望む第二次世界大戦への参戦という政治的野望を果たすため! アメリカ国民を戦争に巻き込む『口実』を作るために、真珠湾の兵士三千人を血の生贄として差し出したのです!」
静寂は、すぐさま屋根を吹き飛ばさんばかりの凄まじい地鳴りと、悲鳴、そして絶望的な怒号へと変貌した。
「我々は騙されていた!『リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)』とは、この男が自らの裏切りを隠し、国民を欺くために作った血塗られた詐欺の合言葉だったのだ! 騙されて開戦に担ぎ出され、最後はレイテの泥沼で二十万の息子たちが捨て駒にされた! ホワイトハウスに座るあの老人は、自らの虚栄心と権力のために、我が国の若者の血を売ったのだ!!」
会場を埋め尽くした聴衆が一斉に立ち上がり、拳を振り上げて叫んだ。
「ノー・モア・ルーズヴェルト(ルーズヴェルトはもういらない)!」
「真珠湾のペテン師を引きずり降ろせ!」
「我々の息子を返せ!」
「十一月七日に、ホワイトハウスに審判を下せ!」
大統領選挙まで、あとわずか六日。
「真珠湾の騙し討ち」という開戦の聖域が崩壊し、それまで優勢と伝えられていたルーズヴェルト民主党政権の足元が、真珠湾とレイテという二重の激震によって跡形もなく壊滅しようとしていた。
◆
十一月三日。ワシントンD.C.。
ホワイトハウスを囲む鉄柵の外側は、地獄のような惨状を呈していた。
冷たい雨が降りしきる中、数千、数万の群衆がホワイトハウスを取り囲んでいた。
彼らが掲げているのは、怒りと絶望に満ちたプラカードだった。
『Bring Our Boys Home!(私たちの息子を家に帰せ!)』
『真珠湾で騙し、レイテで見殺しにした男!』
『ルーズヴェルト、真珠湾の嘘を答えろ!』
『これ以上の血を流すな! 日本と即刻和解せよ!』
群衆の中に、黒い喪服を着た中年女性の姿があった。
彼女は雨に濡れて顔にへばりついた髪も気にせず、鉄柵を掴んで、爪が割れて血が滲むほど強く握りしめながら、ホワイトハウスの窓に向かって狂おしく叫んでいた。
「返して……! 私のジョニーを返してよッ! 真珠湾からずっと私たちを騙していたのね! 人殺し! ルーズヴェルト、あんたの息子をあそこに送ってみなさいよ!!」
彼女の悲痛な叫びに同調するように、周囲の母親たち、父親たちが一斉に大声を上げた。
「真珠湾の兵士たちを罠にかけた悪魔め!」
「日本軍の捕虜になった息子たちはどうなるんだ!?」
「もう戦争は嫌だ! 太平洋の島なんてどうでもいい!」
反戦と憤怒の巨大なエネルギーが、全米を飲み込む嵐となって吹き荒れていた。
開戦以来、パールハーバーの悲劇と復讐心によって一致団結していたアメリカ国民の連帯は、「真珠湾隠蔽」という致命的な暴露と、「二十万の捕虜」という衝撃によって完全な自己崩壊を起こしていた。
鉄柵の内側で銃を構えるシークレットサービスや合衆国陸軍の憲兵たちも、その顔は蒼白だった。彼ら自身、真珠湾で同僚を失い、レイテに親族がいる者ばかりだったからだ。怒号を上げる群衆を追い散らす警棒の手が、微かに震えていた。
◆
同日夜。ホワイトハウス、大統領執務室。
室内には、重苦しい紫煙と、酸素の薄いどんよりとした空気が充満していた。
窓の外から微かに届く群衆の怒号と警察の笛の音が、室内にある者の神経をガリガリと削り取っていく。
大統領執務デスクを囲んでいるのは、ルーズヴェルト大統領、陸軍長官ヘンリー・スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタル、そしてマーシャルとキングだった。
テーブルの上に広げられているのは、全米主要紙の世論調査の結果と、同盟通信社経由で世界中に流された日本政府の公式通達であった。
「……シカゴ・トリビューン、ワシントン・ポスト、ギャラップ調査……どれも壊滅的です」
フォレスタル海軍長官が、力なく眼鏡を外しながら言った。
「デューイの支持率が異常な跳ね上がりを見せています。真珠湾の暗号解読記録の漏洩により……我が党の基盤は崩壊しました。国民の怒りは日本ではなく、完全に我々——ホワイトハウスへと向けられています」
ルーズヴェルトは目を閉じ、深く落ちくぼんだ目元を手で覆った。
彼の身体は限界に達していた。高血圧と心臓疾患による激しい動悸が胸を打ち、額からは冷や汗が絶え間なく吹き出している。
「……それだけではない、大統領閣下」
マーシャル参謀総長が重い口を開いた。その手には、日本の正式な声明文が握られていた。
「日本政府および大本営が、先ほど公式に通達を出しました。彼らは……『捕虜となった二十万のアメリカ兵を、接収された我が国の輸送船団を用いて日本本土および内地主要都市へ順次移送・分散収容する』と発表したのです」
「……何だと!?」
ルーズヴェルトの目が激痛に耐えるように見開かれた。
キング海軍作戦部長が屈辱に顔を歪め、絶望的な面持ちで付け加えた。
「大統領……これにより、我が軍の作戦行動は完全に手足を縛られました。太平洋艦隊は只今をもって、太平洋全域における『無制限潜水艦戦(敵船団に対する無警告の雷撃)』を即時停止せざるを得ません」
「無制限潜水艦戦の……停止だと!?」
「ええ……!」キングは叩きつけるように言った。
「太平洋を航行する日本の輸送船団には、我が国の兵士たちがギッシリと乗せられているのです! 我々の潜水艦が魚雷を撃ち込めば、自分たちの手で二十万の息子たちを海に沈める惨劇になる! 潜水艦部隊には『視認なき攻撃の全面禁止』を通達しました。これで……我が海軍の対日海上封鎖網は崩壊です」
室内を絶望的な静寂が襲う。
追撃の手を緩めない日本の冷徹な戦略は、それだけに留まらなかった。
「さらに……」
スティムソン陸軍長官が力なく首を振った。
「マリアナ諸島から計画されていた、超大型爆撃機B-29による『日本本土主要都市への無差別焼夷弾爆撃計画』……これも作戦の中止を決定いたしました」
「……中止だと? なぜだ」
「日本側は、捕虜たちを東京、大阪、名古屋といった大都市の工業地帯や重要施設に分散して配置すると示唆しています。我々が都市への無差別爆撃を強行すれば、焦土と化す街の中で真っ先に焼き殺されるのは……我が国の兵士たちです。捕虜の生命と待遇を考慮する以上、日本本土の都市部に対する大規模空襲は不可能です」
無制限潜水艦戦の停止。
そして、日本本土への無差別爆撃計画の中止。
アメリカが持ち得る最強の「攻撃の牙」が、二十万の捕虜という見えない盾によって、一本また一本と完全に抜き去られていったのだ。
「手詰まりだ……完全に」
スティムソンが深く溜息をついた。
「世論はすでに狂乱状態です。『真珠湾で自国の兵士を血の生贄にし、レイテでも二十万を捨て駒にした』と信じ切っている国民に対して、潜水艦やB-29の誤爆で捕虜を死亡させるようなことが起これば……政府は即座に民衆の手で解体されるでしょう。国民が求めているのは勝利ではない……『これ以上の戦争を止め、即刻講和して息子たちを生きて連れて帰ること』なのです」
ルーズヴェルトは、じっと自らの麻痺した両脚を見つめていた。
自らが創り上げ、世界最強と信じて疑わなかった「民主主義の陣営」と自らの政治生命が、太平洋の泥沼で足を掬われ、嘘と裏切りの代償として内側から完全に崩壊したのだ。
「日本よ……」
ルーズヴェルトは低く、弱々しい声で呟いた。
「お前たちは……一体何を解き放ってしまったのだ……」
◆
一九四四年十一月六日。大統領選挙投票日の前夜。
ワシントンD.C.を覆う雨は、みぞれへと変わりつつあった。
ホワイトハウスの大統領執務室で、ルーズヴェルトは一人、車椅子の上で暗い窓の外を見つめていた。
外の広場には、吹雪の中でも消えることのない無数の松明の光が見えた。
「真珠湾の嘘」を弾劾し、戦争の即時停止と息子の無事を祈る人々の炎だった。
かつて「恐れるべきは、恐れそのものだ」と叫び、世界恐慌を乗り越えて世界を支配しようとした偉大な指導者の姿は、そこにはなかった。
自ら仕掛けた歴史の罠に囚われ、狂乱する民衆と敗北の淵でただ震える、衰弱した一人の老人の背中があるだけだった。
明日の朝、全米で投票箱が開かれる。
それは単なる一国のリーダーを選ぶ選挙ではなく、太平洋戦争の帰趨を激変させる、未曽有の審判の始まりであった。
(第8話 完)
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