第7話 孤立とアメリカ陸軍の降伏
第7話 孤立とアメリカ陸軍の降伏
昭和十九年十月二十八日。
フィリピン・レイテ島、タクロバン海岸。
ぬるい熱帯のスコールが、泥と血に染まった砂浜を叩き続けていた。
空気を満たしているのは、腐敗したガソリンの匂い、焼きちぎれた肉の臭気、そして泥の生臭さだ。かつて米第6軍が壮大な勢いで上陸を果たしたヤシの木の茂る美しい砂浜は、いまや二十万の米兵にとって「屋根のない巨大な屠殺場」と化していた。
◆
「水だ……水をくれ……!」
砂造りの仮設壕の中で、若いアメリカ兵が絶叫していた。
彼の両脚は、数時間前の戦艦『長門』の十六インチ砲弾の爆風によって吹き飛ばされ、泥まみれの包帯からは腐敗臭が漂っていた。しかし、彼を治療するためのモルヒネも、傷口を洗うための清潔な生理食塩水すら、すでに底をついていた。
レイテ湾内の補給船団が日本艦隊によって全滅させられてから、丸三日。
海岸線に揚陸されていた物資は、初日の艦砲射撃による大火災で八割以上が灰燼に帰していた。
米第6軍を率いるウォルター・クルーガー中将の手元に残されたのは、わずか一日分の乾パンと、兵士一人あたり数発の小銃弾のみ。砲弾はすでになく、かろうじて揚陸された戦車の燃料タンクは空だった。
ドサリ、と天幕の入口を押し開けて入ってきたのは、顔面を硝煙で黒く汚した第24歩兵師団長だった。
「将軍……限界です。北部の連隊が、喉の渇きと激しい赤痢、そして日本軍の連続砲撃によってパニックを起こしました。陣地を捨てて海へ飛び込む者が後を絶ちません」
「……航空支援はどうなった?」
クルーガーは干からびた唇を噛み締めながら問うた。
「ダメです。第38任務部隊の艦載機が飛来しましたが……我々の陣地と日本艦隊があまりに近接しすぎている。爆撃隊は味方の誤爆を恐れてまともに爆弾を落とせません。それどころか、先ほど第5連隊の司令部天幕に味方のヘルキャットが誤ってロケット弾を撃ち込み、幕僚たちが全員即死しました……!」
「なんてことだ……」
クルーガーは天を仰いだ。
アメリカの誇る圧倒的な航空優勢も、圧倒的な工業力も、この狭いレイテの海岸線に閉じ込められ、弾薬と食料を全て海に沈められた状態では、何の役にも立たなかった。
二十万の兵士たちが、無防備な裸で過酷なジャングルと日本の艦砲の前に晒されているのだ。
◆
タクロバン沖、わずか数千メートルの浅瀬。
そこに、前代未聞の姿となった巨艦が鎮座していた。
戦艦『大和』。
宇垣纏中将は、米機動部隊との外洋決戦に挑む前段階として、レイテ島に孤立した敵陸軍を短時間で完全に屈服させるべく、極めて冷徹な戦術を選択していた。湾内の激しい干満差と泥浅瀬を利用し、大和の艦首をあえてレイテ湾内の浅礁へ一時的に乗り上げさせたのだ。
次の満潮が訪れるまでのわずかな時間、自ら艦体を固定して「不沈の巨大砲台」と化す。
波揺れがない。照準が一切ブレない。
七万トンの鋼鉄の城塞は、レイテ島の海岸線に展開する米軍陣地に対し、狂いようのない悪魔的な精度で四十六センチ主砲を叩き込み続けていた。陸軍の無力化を確認し次第、満潮の潮位を利用して離礁し、外洋へ躍り出る手はずであった。
ジリジリと灼熱の太陽に温められた大和の主砲身から、ゆらゆらと熱気が立ち昇る。
砲身が冷える「キィン、キィン」という鋭い金属音が、静まり返った湾内に響いていた。
第一艦橋。宇垣中将は、双眼鏡越しにタクロバン海岸を見つめていた。
袖を捲り上げた軍服の胸元から、汗が滴り落ちる。その眼光は、獰猛な猛禽のように冷たく研ぎ澄まされていた。
「宇垣長官、大和・長門ともに主砲の残弾、三割を切りました」
参謀の長島少佐が報告する。
「充分だ」
宇垣は短く答えた。
「敵にはもう、一発の砲弾も残っていない。ご覧になれ、参謀」
宇垣が指し示した先——タクロバン海岸の米軍陣地から、異様な動きが起き始めていた。
◆
午前十時。
泥と煙に煙る海岸線のあちこちから、白い布が掲げられた。
それは、米兵たちの下着であり、衛生兵の包帯であり、破り取られた幕僚天幕の布地だった。
手首を震わせ、泣き叫びながら、両手を上げて穴ぐらから這い出てくるアメリカ兵たち。
彼らの視線の先にそびえ立っていたのは、海岸のすぐ目と鼻の先に鎮座する巨大な戦艦『大和』の姿だった。
見上げるような二重の城郭艦橋。黒々と太い三基九門の巨大な砲身。その砲口が、じっと自分たちを見下ろしている。
米兵たちにとって、それは人類の技術で作られた兵器などではなく、自分たちの命を呑み込むために現れた「古の悪魔」そのものに見えた。
「オー・マイ・ゴッド……」
「あんなものと……どうやって戦えというんだ……」
膝から崩れ落ち、熱帯の泥の中に顔を埋めてすすり泣く米兵たち。
戦車を捨て、銃を投げ捨て、手持ちの食料すら持たぬ二十万の将兵が、海岸線に打ち上げられたマグロのように力無く打ち伏せられていった。
米第6軍司令官ウォルター・クルーガー中将は、自らのジープのアンテナに白旗を縛り付けると、数人の幕僚とともに、浅瀬に鎮座する大和に向かって小舟を漕ぎ出させた。
アメリカ海軍、そして陸軍の歴史上、これほどの規模の軍団が、敵水上艦隊の前に手も足も出ずに「組織的無条件降伏」を選んだ例は存在しなかった。
◆
同日午後。日本本土・神奈川県日吉。
慶應義塾大学日吉キャンパスの地下壕に設置された、連合艦隊司令部。
薄暗い地下室には、無線機の「トツ・トツ・トツ……」という発信音と、無数の電信員の怒号が渦巻いていた。
湿気と汗の臭いが充満する作戦室で、連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、腕組みをしたまま巨大な地図を見つめていた。
そこへ、通信参謀がなりふり構わず走り込んできた。靴底がコンクリートの床を激しく叩く。
「長官! 大和より打電! 大和より打電であります!」
通信参謀の手は、激しく震えていた。渡された電文を読み上げる声が、裏返る。
「『一〇二八・一〇〇〇。レイテ島上陸米第6軍司令官クルーガー中将、白旗ヲ掲ゲ降伏ヲ申シ出ヅ。我が艦隊ハコレヲ受諾。湾内並ビニ海岸線ノ残敵、全面的ニ戦闘ヲ停止セリ』……ッ!!」
一瞬、静寂が地下壕を支配した。
「……降伏?」
誰かが呟いた。
次の瞬間、地下壕が割れんばかりの歓喜の渦に包まれた。
「勝った……! レイテで勝ったぞ!」
「二十万の米軍が降伏したんだ!」
「大和が……大和艦隊がやったぞッ!」
参謀たちが抱き合い、号泣した。感極まって神棚に向かって万歳を叫ぶ者、床に伏して涙を流す者。
しかし、司令長官の豊田副武だけは、静かに目を閉じ、深く、深く息を吐き出した。
その脳裏に浮かんだのは、奇跡的な勝利の喜びではなく、スリガオ海峡で消えていった西村祥治中将や志摩清英中将、そして無数の水兵たちの顔だった。
「……西村、見事であったぞ。お前たちの流した血が、この不可能を可能にしたのだ」
豊田は静かに呟くと、目を開き、眼前の参謀たちを一喝した。
「静かにせい! まだ戦いは終わっておらん!」
一瞬にして作戦室が静まり返る。
「レイテの米陸軍は叩き潰した。だが、北方に去った米機動部隊、そしてアメリカ本国の怒りは、これから牙を剥いて襲いかかってくる。すぐに大本営へ奏上せよ。『捷一号作戦、第一段階完了』とな!」
◆
東京・三宅坂。陸軍省および軍令部が置かれた大本営。
昭和天皇への朗報の奏上が行われ、宮城(皇居)周辺は重苦しい戦時下の空気から一転、歓喜の狂乱へと叩き込まれた。
街頭のラジオからは、興奮したアナウンサーの叫び声が流れていた。
『大本営発表! 帝国海軍第一遊撃部隊は、レイテ湾内において敵主力輸送船団を全滅せしめ、さらにレイテ島上陸の米第6軍二十万を完全に孤立せしむ! 本日午前十時、敵司令官クルーガー中将以下、降伏せり! 繰り返す、米陸軍二十万、降伏せり!』
提灯行列が街を練り歩き、人々は涙を流して「万歳」を叫んだ。
しかし、大本営の地下深く、冷徹な軍略家たちの顔に浮かんでいたのは、楽観ではなかった。
「……マッカーサーを捕虜にしたか、あるいは逃げられたか」
軍令部総長が冷たく呟く。
「マッカーサーは降伏の直前、魚雷艇でオーストラリアへ逃亡した模様です。『アイ・シャル・リターン』の言葉を残してな」
「愚か者め。だが、これでアメリカ世論は激震するぞ。二十万の将兵が捕虜となったのだ。ワシントンのホワイトハウスは揺れる。ルーズヴェルト大統領の政治的立場は致命的だ」
アメリカという巨大な国家の「心臓」に、日本の鋼鉄の砲弾が突き刺さった瞬間であった。
◆
十月二十八日、夕刻。
レイテ湾、戦艦『大和』の巨大な甲板。
満潮を迎え、浅瀬から滑らかに離礁した大和の巨躯に、夕日が血のように赤い光を投げかけていた。
甲板上には、米第6軍司令官ウォルター・クルーガー中将をはじめとする米軍将校たちが並んでいた。
彼らの服は泥と汗に塗れ、その表情は疲弊と敗北感で打ちひしがれていた。
その前に立つのは、宇垣纏中将。
宇垣は、返り血と硝煙で汚れた軍服のまま、腰の軍刀に手を置き、静かに米軍将校たちを見下ろしていた。
クルーガー中将は、震える手で自らの腰からピストルを抜き取り、両手で宇垣へと差し出した。
「……我が第6軍は、降伏を申し入れます。どうか……我が兵士たちの人道的な処遇を」
クルーガーの声は、蚊の鳴くように細かった。
宇垣は、差し出されたピストルを視線だけで受け取ると、冷ややかに、しかし毅然とした英語で応えた。
「武士道に基づき、不当な虐待はせぬ。……だが覚えておくがいい、将軍。我が日本海軍は、物資の量で敗れることはあっても、魂の格で敗れることはない」
宇垣の言葉に、クルーガーは言葉を失い、ただ深く頭を垂れた。
宇垣は間髪を入れず、傍らの長島参謀に向き直った。
「参謀! 直ちに湾内に留まる手つかずの敵輸送船を接収せよ。船倉に残された食料、清涼飲料水、ならびに医療資材を引き揚げ、我が軍の監視のもと、海岸の米兵捕虜へ無差別に配給させろ」
「はっ……! しかし長官、敵の物資を我らの兵の補給に回さず、捕虜に与えるのですか?」
宇垣はフッと不敵な笑みを浮かべた。
「我が軍の糧食は後方の補給部隊から回せばよい。……見よ、参謀。目の前で飢えと病に打ち震える二十万の捕虜を生かしてこそ、我らの勝利は完成する。自国の船から揚げられた肉やパンを口にした時、奴らは戦意を完全に喪失するのだ」
宇垣の命を受け、第一遊撃部隊の駆逐艦や内火艇が一斉に動き出した。
湾内に座礁・拿捕されたリバティ船の船倉から、大量のCレーション(戦闘給食)の缶詰、乾燥野菜、小麦粉の袋、さらにはモルヒネや血漿、包帯といった貴重な医療物資が次々と引き揚げられ、小舟に積まれてタクロバン海岸へと運ばれていく。
砂浜に打ち伏せられていた米兵たちの前に、日本の水兵の手によって、皮肉にも「自分たちの国が運んできたはずの物資」が積み上げられた。
「食え。日本の将軍からの命令だ」
日本の水兵が投げ渡した缶詰と木箱を、米兵たちは信じられない思いで見つめた。
震える手で缶詰の蓋を開け、スパムの肉塊を口に放り込む若い兵士。喉を鳴らしてオレンジジュースを飲み干す怪我人。衛生兵によって包帯を巻かれ、モルヒネを注射された傷病兵たちは、安堵のあまり泥の中に膝をついて号泣した。
「オー・マイ・ゴッド……毒じゃない……本物のCレーションだ……」
「命が助かった……俺たちは殺されないんだ……!」
自分たちを地獄の底へ叩き落とした悪魔のような日本軍から与えられたのは、虐殺の銃弾ではなく、温かい医療と自国の糧食だった。
満腹感と安堵の中で、二十万のアメリカ兵たちの心からは、もはや日本軍に抗う気概など微塵も残されていなかった。
◆
降り注ぐ赤銅色の夕闇の中。
完全に離礁を果たした大和の四十六センチ砲の砲身が、静かに東の太平洋——米機動部隊が待つであろう深い海の彼方へと向けられていた。
二十万の米陸軍を降伏させ、その命を人質兼「武士道の証」として掌握した第一遊撃部隊。
宇垣纏の目はすでに、次なる戦いのクライマックス——アメリカ海軍最強の機動部隊との「最後の激突」を見据えていた。
(第7話 完)




