第6話 湾内の修羅・輸送船団の鴨撃ち
第6話 鉄の暴風、レイテ湾へ
昭和十九年十月二十五日、午前八時四十五分。
フィリピン・レイテ湾。
かつて西太平洋の楽園と呼ばれた穏やかな浅葱色の海は、一瞬にして地獄の煮えたぎる鍋へと変貌を遂げようとしていた。
狭隘な水道を抜け、湾内へとなだれ込んだ日本海軍第一遊撃部隊——戦艦『大和』『長門』『金剛』『榛名』、重巡『羽黒』『鳥海』、そして水雷戦隊の群れ。
その巨大な鋼鉄の城塞群の眼前には、湾内一面を埋め尽くす二百隻以上の米軍輸送船団が浮かんでいた。
アメリカの誇る規格型大型貨物船『リバティ船』、戦車や重装備を直接海岸へ吐き出す『LST(戦車揚陸艦)』、燃料油をなみなみと湛えた大型油槽船、そして膨大な弾薬を積み込んだ補給艦群。
アメリカ太平洋反攻作戦の心臓部であり、マッカーサー将軍率いる第6軍二十万の生命線である「兵站」そのものが、逃げ場のない小袋の中に閉じ込められていた。
◆
「目標、一番右側の輸送船群! 砲身俯角固定……距離、四千!」
大和の第一艦橋。測的長が大声を張り上げる。距離四千メートル——戦艦の主砲射撃においては、文字通りの「零距離」であった。
四十六センチ砲の射程は四十キロを超える。それがわずか四キロ先の、丸丸とした無防備な大型貨物船の横腹を真横から睨みつけているのだ。
大和の第一主砲塔内。
蒸し風呂のような熱気と、油と汗の臭いが充満する密閉空間で、砲員たちが死に物狂いで動いていた。
揚弾機がガチガチと甲高い金属音を立てて昇降し、一・五トンの巨大な三式弾と徹甲弾が各砲身の装填装置へ交互に滑り込む。
「次弾装填完了! いつでも撃てます!」
装填手の若い兵士が、汗で濡れた顔を歪めて叫ぶ。彼の胸の鼓動は早鐘のように打っていた。練習弾ではない。今から撃ち込むのは、目前の海を埋める肉と鉄の群れだ。
第一艦橋。宇垣纏中将は、双眼鏡を固く握りしめたまま、微動だにしなかった。
その口唇が、静かに開く。
「……撃てッ!」
ズガァァァァァァンッッッ!!!!
大和の九門の主砲が、同時に火を噴いた。
衝撃波が海面を叩きつけ、数千トンの海水を真っ白な霧に変えて爆風が吹き荒れる。艦橋の防風ガラスの破片がチリンと音を立てて揺れ、宇垣の顔面に熱い風と焦げた火薬の強烈な硝煙が吹き付けた。鼻腔を突くツンとした酸性臭。口の中に残るざらついた硝煙の味。
弾丸は空を飛ぶのではない。文字通り「海面を這う鋼鉄の猛獣」となって、目の前で逃げ惑う米輸送船『アブラハム・リンカーン』の側腹へ突き刺さった。
ドォォォォォォンッ!
爆発音というよりは、巨大な鋼鉄の風船が破裂したかのような異形の大音響。
一・五トンの巨弾は、薄いリバティ船の鋼板など紙屑のように引き裂き、船体内部で破裂した。
瞬時にして、船体の中央部が内側から膨れ上がり、数千トンの海水と炎、そして船内に積まれていたトラックや食料、兵員の肉体が、巨大な花火のように天高く吹き飛んだ。
「命中! 敵輸送船、一撃で切断! 沈没していきます!」
見張員の叫び声を聞くまでもない。
大和の砲撃だけでない。後方に続く戦艦『金剛』の三十五・六センチ砲、『長門』の四十センチ砲、さらには重巡洋艦の二十センチ砲が、狂乱の合唱を奏で始めていた。
◆
「神よ! 助けてくれ! 主よ!」
米リバティ船『ジョン・ハーヴィー』の甲板上では、地獄の混迷が極まっていた。
船長のアサー・ミラーは、手すりにしがみつきながら、眼前で起きている惨劇に狂叫していた。
隣に並んでいたLSTが、戦艦『金剛』の主砲弾を直接水線下に受け、一瞬にして真っ二つにへし折れた。船底から吐き出されたシャーマン中戦車が、重い鉄の塊となって海の底へと沈んでいく。甲板にひしめいていた米陸軍兵士たちが、全身を炎に包まれながら「マザー!」「マザー!」と絶叫し、炎の海へと飛び込んでいく。
「舵が効かない! 全速後進! とにかくこの湾から出ろ!」
「ダメです船長! 水道は日本の戦艦と巡洋艦で塞がれています! 逃げ道はありません!」
その時、ジョン・ハーヴィーの頭上を、凄まじい「空を切り裂く音」が通過した。
重巡『羽黒』の二十センチ砲弾だ。
ドカァァンッ!
ジョン・ハーヴィーの第一ハッチに砲弾が直撃した。
不幸にも、そのハッチの下には、陸軍用の高熱用燃料ドラム缶と、十万発に及ぶ小銃・機関銃弾薬がぎっしりと詰め込まれていた。
チュドォォォォォォォォンッ!!!!
破滅的な誘爆が起きた。
ジョン・ハーヴィーの船体そのものが巨大な爆薬と化し、真っ白な閃光が視界を塗りつぶす。
周囲数百メートルにわたって熱波が広がった。船長ミラーの視界は、自分の皮膚が焼けて焦げる臭いと、白熱する爆炎の光だけで満たされた。
誘爆の衝撃波は、隣接する三隻の輸送船をも巻き込み、甲板上の木箱や物資をことごとく薙ぎ払った。
海面には数千トンもの重油が流出し、そこに火が燃え移って、レイテ湾の一部がそのまま「底なしの火の海」へと変貌していった。
◆
海岸線に設けられた、米第6軍の仮設司令部幕僚天幕。
ダグラス・マッカーサー大将は、手にしていたパイプを地面に落とした。
彼の顔からは、普段の自信に満ちあふれた不敵な笑みが完全に消え去り、白蝋のように青ざめていた。
双眼鏡のレンズ越しに見えるのは、自分が「アイ・シャル・リターン」の誓いとともに降り立ったレイテ湾の、目も当てられない惨状だった。
「そんな……バカな……。ハルゼーはどこへ行った!? 第7艦隊の水上部隊は何をしている!?」
マッカーサーの声が震えていた。
目の前で、自分がフィリピン奪還のために集め尽くした「命綱」が消えていく。
上陸を果たした二十万の米陸軍兵士たちに届くはずだった、明日からの食料、弾薬、医療品、ガソリン、戦車、重砲——そのすべてを積んだ輸送船が、日本の戦艦群によって「鴨撃ち」のように一方的に撃沈されているのだ。
「将軍! 第4輸送船団、壊滅! 第7弾薬補給船団、全滅です!」
通信参謀が悲鳴を上げて駆け込んでくる。
「海岸の砂浜に揚げた物資だけでは、我が軍の弾薬はあと二日分しかもちません! これ以上の輸送船の損害は、レイテ島上陸部隊全体の孤立と全滅を意味します!」
「……退避させろ。残った船を湾外へ逃がすんだ!」
マッカーサーは叫んだが、それは実現不可能な命令であった。
レイテ湾の出口は、宇垣率いる日本艦隊によって完全に封鎖されていた。
逃げ場を失った大型輸送船たちは、パニックに陥って互いに衝突し合い、座礁し、そこに容赦なく日本艦の砲弾が降り注いだ。
◆
大和の第一艦橋。
砲撃の振動が止むことはなかった。
四十六センチ砲、副砲、高角砲、機銃に至るまで、大和の持つあらゆる火器が火を噴き続けている。
艦橋内に立つ宇垣纏の軍服は、汗と飛び散った煤煙で黒く汚れていた。
彼はじっと、眼前で燃え上がる巨大な火柱を見つめていた。
その耳に、見張員の報告が届く。
「敵輸送船、沈没数三十を超えました! なおも多数が炎上・座礁中!」
参謀たちが「やったぞ!」「大戦果だ!」と歓声を上げる。
しかし、宇垣の心には、狂喜のような昂ぶりと同時に、冷ややかで底知れない「修羅」の感覚が広がっていた。
戦艦という「対艦戦闘」のために作られた最強の兵器が、反撃の術を持たない泥臭い輸送船を至近距離から潰していく。
それはいわゆる華々しい海戦などではなく、凄惨極まる「屠殺」であった。
だが——宇垣は歯を喰いしばり、胸の中の情けを叩き潰した。
(甘いことを考えるな。これが戦争だ)
宇垣の脳裏に、ガダルカナルで、インパールで、餓死していった何万もの日本陸軍兵士たちの骨が浮かぶ。
物資がないゆえに、補給がないゆえに、泥を舐め、病に倒れていった英霊たち。
アメリカが圧倒的な物資の力「兵站」をもって日本を押し潰してきた歴史が、今、目の前で逆転しているのだ。
「砲術長! 手を緩めるな!」
宇垣は氷のように冷たい声で命じた。
「燃えている船は捨て置け! まだ浮いている船、海岸へ向かおうとする揚陸艇を優先して叩け! 一粒の米、一発の小銃弾すら、あの島へ上陸させるな!」
「はっ! 全砲塔、目標を左舷の輸送船群へ変更! 主砲・副砲、撃ち込めぇッ!」
◆
正午近く。
レイテ湾は、立ち昇る黒煙によって太陽の光すら遮られ、昼なお暗い異様な空間と化していた。
海面全体を厚い重油の層が覆い、それが激しく燃え滾っている。
あちこちから「ギギギギ……」「バリバリ……」と、鋼鉄が熱で歪み、竜骨が折れる絶望的な音が響く。
水面に浮いているのは、焼けた木箱の破片、潰れたジープのタイヤ、自由を求めて泳ぐ筈だった米兵たちの遺体と、命からがら流木にしがみつく生存者たちだった。
海風が吹くたび、熱気とともに肉の焦げる生臭い臭気と、重油の煙が日本艦隊の艦橋へとなだれ込んでくる。
大和の甲板に立つ見張員の若い水兵は、思わず口元を押さえ、胃液を吐き出しそうになった。
「これが……これがレイテ湾か……」
誰もが絶句していた。
アメリカ海軍が誇った無敵の太平洋反攻作戦。
その要である補給部隊は、わずか三時間の間に、実に百隻以上の大型輸送船・揚陸艦を失い、完全に崩壊した。
水深の浅いレイテ湾の底には、撃沈された数千トンのリバティ船が幾重にも重なって沈み、その煙突やマストが、まるで海底から生えた絶望の墓標のように海面へ突き出ていた。
第一艦橋で、宇垣は静かに手帳を取り出した。
汗と硝煙で汚れた手で、ペンを握る。
彼はそこに、短い言葉を書き留めた。
『十月二十五日。レイテ湾内侵入。敵輸送船団ヲ撃滅ス。湾内ハ悉く火の海トナリ、敵の兵站ハここに途絶セリ。……諸将の霊に捧ぐ』
手帳をポケットに仕舞い込んだ宇垣は、深く息を吸い込み、再び湾外の太平洋へと視線の向きを変えた。
兵站を打ち砕かれた米陸軍二十万は、今やレイテ島という孤島に取り残された「袋の鼠」となった。
しかし、この惨劇を知ったアメリカ軍の機動部隊が、血眼になって戻ってくることは明白だった。
「全艦、砲撃を中止せよ。湾内の残敵掃討は駆逐艦隊に任せ、主力艦隊は陣形を立て直せ」
宇垣の凛とした声が響き渡る。
「第一遊撃部隊、これより湾外へ進出。迎撃に現れるであろう敵の機動部隊を迎え撃つ!」
血と炎で染まったレイテ湾を背に、戦艦『大和』の巨大な艦首が、再び外洋の波を切り裂いて動き始めた。
太平洋戦争の命運を賭けた真の決戦は、なおも終わっていなかった。
(第6話 完)




