第9話 帝都の捕虜たちと新たな歴史
第9話 命の盾と果てしなき地平(改訂稿)
昭和十九年十一月中旬。フィリピン・レイテ湾。
熱帯の強い日差しが、青く澄み切った海面を眩しく照り返していた。
かつて血と硝煙で黒く染まっていたレイテ湾の水面には、いまや数十隻におよぶ巨大な灰色の船団が整然と錨を下ろしていた。
米軍がフィリピン上陸のために集結させていた「リバティ船(大型標準型貨物輸送船)」群である。
補給を断たれて降伏した米第6軍が残したこれらの輸送船は、いまや日本海軍の手によって接収され、新たな「使命」のためにその巨大なディーゼルエンジンを重低音で響かせていた。
ガタガタと黒煙を吐き出すリバティ船『サム・ヒューストン』の機関室。
熱気と油臭さが立ち込め、温度計が五十度を指す酷暑の空間で、額の汗を拭いながら巨大なバルブを回す男たちがいた。
彼らは、数日前にシブヤン海で沈没した戦艦『武蔵』の生還者たちであった。
「よし……油圧上昇! 主機、順調に回っておるぞ!」
ボロ布で顔の油汚れを拭ったのは、武蔵の機関科に所属していた佐藤一等機関兵曹だった。
彼の背中には、武蔵沈没の際に負った熱傷の痕が痛々しく残っている。本来なら病院船で療養すべき身でありながら、彼は自ら志願してこの米輸送船の機関員として乗り込んでいた。
「佐藤曹長、アメリカ人の機関兵どもが『こんなボロ船のエンジンを日本の水兵が動かせるはずがない』と青ざめた顔で見てますよ」
若い下士官が苦笑しながら言った。
「ハッ、舐めてもらっちゃ困るな。我々はあの『武蔵』のエンジンを最後まで守り抜いた男たちだ。こんなアメ車のエンジンくらい、構造さえ分かればお手の物よ」
佐藤は機関室の覗き窓から、船の通路を見上げた。
そこには、丸腰で力無く腰を下ろしている多くのアメリカ兵捕虜たちの姿があった。
彼らの瞳には、かつての「アメリカ兵」としての誇りはなく、どこへ連れて行かれるのかという底知れぬ不安と恐怖だけが宿っていた。
「……なぁ、佐藤曹長。俺たちは武蔵を失った。西村艦隊の皆さんも……スリガオ海峡で全滅した。だけどよ……」
若い下士官が声をつまらせた。
「ああ」
佐藤は静かに頷き、胸のポケットに忍ばせた武蔵の遺品——黒焦げになった小旗を強く握りしめた。
「西村長官たちが命を捨てて道を切り拓き、宇垣長官が大和で敵を叩きのめした。そして武蔵の俺たちが、この二十万の捕虜を本土へ運ぶ……。俺たちの戦いは、全部繋がってたんだ」
武蔵の生還者、そして第一遊撃部隊の生き残りたち約三千名が、接収した米リバティ船団の舵輪を握っていた。
二十万のアメリカ兵捕虜を、日本本土——東京、横浜、呉、そして台湾や済州島へ分散して移送する「大移送作戦」が、いま始まろうとしていた。
◆
一九四四年十一月下旬。ルソン海峡沖・太平洋。
黒々とした波がうねる荒涼とした海原を、一隻のアメリカ海軍ガトー級潜水艦『シーデビル』が潜望鏡深度で滑るように潜航していた。
発射室には、息をのむような緊張が走っていた。
「艦長! 敵輸送船団、磁気方位〇四〇! 距離四千! 速度十ノット!」
魚雷発射管の金属音が響き渡る。一番〜四番チューブ装填完了。
太平洋上で数知れぬ日本の輸送船を底へ沈めてきた米潜水艦隊にとって、それはまたとない絶好の獲物であった。
「全管開け。……潜望鏡、上げ!」
艦長のミラー少佐が潜望鏡のグリップを握り、ゆっくりと回転させた。レンズの向こうに、黒煙を吐きながら整然と列をなす灰色の船団——接収されたリバティ船『サム・ヒューストン』をはじめとする巨大な影が浮き上がった。
「よし……敵の哨戒機はいない。全弾ぶち込んで海底へ沈めてやる……」
ミラーが倍率ダイヤルを回し、輸送船の甲板に照準を合わせた瞬間、彼の身体が凍りついた。
潜望鏡の円形の視野の中で、格子状の照準線の向こうに映し出されたのは——無数のカーキ色の軍服を着た男たちの姿だった。
彼らはすし詰め状態で甲板に身を寄せ合い、怯えた瞳で海を見つめていた。その胸元に輝くのは、間違いなく合衆国陸軍の階級章だった。
「な……なんだと……!?」
ミラーの顔から一瞬で血の気が引いた。
「艦長! 発射準備完了です! いつでも撃てます!」
副長が叫ぶ。だが、ミラーは喉を引き裂くような声で叫び返した。
「発射中止! 発射中止だッ!! 全管閉鎖!!」
狭い発射室に激震が走った。
「何言ってるんですか艦長!? 敵の大型船団ですよ! 撃たなければ敵を逃がすことになります!」
「攻撃命令を出してください! 命令違反なら軍法会議ものですよ!」
乗組員たちがパニックを起こし、興奮して詰め寄ってくる。目の前の敵船団を前にして攻撃を止めるなど、戦時下の海軍ではあり得ない事態だった。
「黙れ! レンズを覗いてみろ!」
ミラーは副長を強引に潜望鏡の前に引っ張った。副長が恐る恐る覗き込み、次の瞬間、息を呑んで絶句した。
「あ……あ……ボブ……? いや……嘘だろ……!? 我が軍の……アメリカ兵じゃないか!?」
「日本側の発表は……本当だったんだ。二十万の捕虜を輸送船に乗せて移送している……!」
ミラーは冷や汗で濡れた手で顔を覆った。
魚雷を撃てば、九割の確率で船は一撃で沈没する。そこに閉じ込められている数百、数千のアメリカ兵捕虜たちが、冷たい海の中で自分たちの魚雷によって殺されるのだ。
「ど……どうすればいいんだ……!? 撃てば味方の大量虐殺だ……! だが撃たなければ敵を逃がした罪で軍法会議だぞ!?」
「そんなの選べるかッ! 撃てるわけがないだろ!」
発射室は、息もできないほどの地獄の葛藤と怒号、そしてパニックに包まれた。自国の兵士を殺すか、軍規を破るかという究極の選択が、乗組員たちの精神をガリガリと削っていく。
その時、暗号通信士が潜水艦の狭い通路を脱兎のごとく駆け込んできた。その手には、受信したばかりの優先電文が握られていた。
「艦長! 太平洋艦隊司令部(ニミッツ提督)より緊急暗号電です!!」
電文を奪い取ったミラーは、声の限り読み上げた。
『全太平洋潜水艦部隊へ通達。太平洋全域における無制限潜水艦戦を直ちに全面停止せよ。目視にて自国兵の不在が百パーセント確認できない限り、敵輸送船に対するいかなる攻撃も厳禁とする。繰り返す、直ちに攻撃を中止せよ』
部屋の中の狂乱が、ピタリと止まった。
次の瞬間、ミラー艦長は力無く膝を突き、手すりに額を押し当てた。乗組員たちもまた、壁に背を預け、荒い息を吐き出した。
「……助かった」
副長が掠れた声で呟き、目元をぬぐった。
「俺たちは……自分たちの手で仲間を殺さずに済んだんだ……」
潜望鏡の向こうで、アメリカ兵捕虜を乗せた日本の船団は、何事もなかったかのように静かに北の空の下へと去っていった。
太平洋を覆っていた無慈悲な撃沈作戦が、この瞬間、完全に牙を抜かれたのだった。
◆
一九四四年十一月九日。アメリカ合衆国・ワシントンD.C.。
大統領選挙の投開票から二日後。
ホワイトハウスの大統領執務室は、まるで葬儀場のような冷たく重苦しい空気に包まれていた。
全米の新聞が一斉に報じた選挙結果は、現職のフランクリン・D・ルーズヴェルトの落選、そして共和党候補トーマス・E・デューイの「歴史的大勝利」であった。
レイテ島における二十万の将兵の降伏という前代未聞の惨敗。
そして全米で巻き起こった「息子の命を返せ」「無謀な戦争を今すぐやめろ」という狂乱的な反戦世論。それらは、十二年間にわたって合衆国に君臨してきたルーズヴェルト政権を、一夜にして崩壊せしめたのだった。
車椅子の上で、老いたルーズヴェルトは力無く首を垂れていた。
その隣には、次期大統領に決定したトーマス・デューイが、硬い表情で立っていた。政権引き継ぎのための緊急対談であったが、部屋にあるのは勝利の喜びではなく、国家の破滅を回避するための極限の緊張感だった。
「……デューイ君」
ルーズヴェルトが掠れた声で口を開いた。
「君は……これからどうするつもりだ。日本に対して、核兵器(マンハッタン計画)の開発を加速させて全滅させる気か?」
デューイは冷ややかな眼差しで老前大統領を見つめ、首を横に振った。
「無理ですよ、ルーズヴェルト氏。マンハッタン計画の完成にはまだ莫大な時間と費用がかかる。それ以前に……我が国の世論がそれを許さない」
デューイは胸ポケットから、スイス大使館経由で届いた「日本政府および大本営からの通達文」を取り出し、机の上に叩きつけた。
「日本側は、我が国の二十万人もの捕虜を、すでに日本本土の主要都市——東京、大阪、名古屋、九州の工業地帯へ分散して配置し始めていると通知してきました」
「なんだと……!?」
ルーズヴェルトの目が驚愕に見開かれた。
「つまりこういうことです。我々が今後、日本本土に対してB-29による無差別爆撃を行えば、爆撃機が落とす焼夷弾によって、我が国の二十万人の息子たちが真っ先に焼き殺されることになる」
デューイは深く溜息をつき、両手で顔を覆った。
「日本人は……我々の『民主主義国家の最大の弱点』を完璧に突き破ってきたのだ。自国の兵士二十万を見捨てて日本本土を焦土に変える決断など、合衆国大統領にできるわけがない! もしそんなことをすれば、全米で暴動が起き、政府の職員たちは失職する!」
「……では、どうしろというのだ!? 来年一月の君の就任まで、私に手をこまねいて見ていろというのか!?」
ルーズヴェルトが激昂して叫ぼうとしたが、激しい咳込みに襲われ、言葉が途切れた。
デューイは大統領執務室の窓の外を見つめた。
ホワイトハウスの外には、みぞれが降る中でも松明を掲げ、『即時停戦!』『捕虜を救出せよ!』と叫び続ける数万人の群衆の姿があった。
「就任を待つ猶予などありません」
デューイは毅然とした声で、現職大統領の目を真っ直ぐに見据えた。
「ルーズヴェルト氏。あなたが現職である『今この瞬間』に、全太平洋戦線におけるアメリカ軍の即時攻撃停止命令を発令しなさい。私と共和党も、超党派の重大決断としてそれを全面的に承認・支持する。そして直ちに中立国スイスを通じて日本側と『即時休戦および講和交渉』を開始するのです。これ以外に、我が国が崩壊を免れる道はありません」
ルーズヴェルトは力無く背もたれに倒れ込み、天井を見つめた。
太平洋を渡り、アジアを制圧し、世界秩序を塗り替えるはずだった合衆国の野望は、レイテの泥と二十万の捕虜という現実の前に、完全に打ち砕かれた瞬間だった。
◆
一九四四年十二月初旬。東京湾。
冬のピンと張り詰めた冷たい空気が、海面を滑っていた。
例年であれば、この時期の帝都・東京は、米軍の超大型爆撃機B-29による空襲におびえ、いつ焼夷弾の雨が降るかという死の恐怖に苛まれているはずだった。
しかし、この日、東京の空に響いたのは——空襲警報の禍々しいサイレンではなかった。
ゴォォォォォン……。
重厚で、深く、腹に響くような船の汽笛の音が、静まり返った東京湾の港湾一帯にこだました。
品川沖の埠頭に、一隻の巨大な灰色の輸送船が入港してきた。
接収された米リバティ船『サム・ヒューストン』をはじめとする、第一陣の捕虜移送船団である。
埠頭には、防寒着を着込んだ無数の東京市民、防空頭巾を被った女たち、そして傷痍軍人や陸軍の警備兵たちが押し寄せていた。
「おい……あれを見ろ……!」
民衆の誰かが叫び、指をさした。
ゆっくりと岸壁に横付けされる大型輸送船。その甲板の上に、びっしりと立ち並んでいたのは——アメリカ兵たちだった。
カーキ色の軍服を着た彼らは、寒さに体を震わせ、小さく身を縮めていた。
かつて新聞やポスターで「鬼畜米英」と描かれ、恐ろしい悪魔のように宣伝されていたアメリカ兵たち。
しかし、目の前にいる彼らの顔には、猛悪さなどひとかけらもなかった。あるのは疲弊と、空腹と、見知らぬ異国の地へ連れてこられたことへの怯えだけだった。
「……あれが、アメリカ兵なのか?」
おにぎりを包んだ竹皮を持った幼い少女が、母親のモンペの裾を引っ張りながら尋ねた。
「そうよ……あの人たちも、向こうの国のお母さんの大切な息子さんなのよ……」
母親は静かに涙を浮かべながら呟いた。
甲板の上から、一人の若いアメリカ兵が、日本の民衆を見下ろしていた。
彼はポケットから、クシャクシャになった家族の写真を取り出し、胸に抱きしめながらボロホロと涙を流していた。
死ぬのではないか。拷問されるのではないか。そう怯えていた彼らの前に広がっていたのは、虐殺の刃ではなく、静まり返った帝都の街並みと、自分たちを静かな哀しみと驚きで見つめる日本国民の姿だった。
やがて、タラップが降ろされ、捕虜たちの下船が始まった。
陸軍の兵士たちが隊列を整えさせ、トラックへと誘導していく。
その光景を見つめながら、警備にあたっていた傷兵の一人が、空を見上げて深く息を吐き出した。
その吐息が、白い霧となって冬の空に消えていく。
「……空爆は、もう来ないんだな」
「ああ。この人たちが東京にいる限り、アメリカは爆弾を落とせねえ。……俺たちの街は、助かったんだ」
空を見上げれば、雲の隙間から澄み渡った冬の太陽の光が差し込んでいた。
焦土と化すはずだった東京の街は、いま、命拾いをしたのだ。
◆
同日、フィリピン・レイテ湾。
血のような赤銅色の夕刻の光が、穏やかな海面を染め上げていた。
静まり返ったレイテ湾の中央に、堂々と巨躯を浮かべる戦艦『大和』があった。
一度は浅瀬へ自らを固定し不沈砲台となって米陸軍を屈服させた巨艦は、満潮に乗じて離礁を果たし、いまや湾外の外洋へ向けてその九門の四十六センチ主砲を静かに睨みかざしていた。
第一艦橋の外、羅針艦橋のデッキに、宇垣纏中将は一人立っていた。
潮風が彼の軍服の裾を激しく羽ばたかせる。その肩には、数日間の激戦と緊張を乗り越えた者だけが纏う、重厚な静寂が漂っていた。
手すりに置かれた宇垣の手には、先ほど内地から届いた電信の写しが握られていた。
『米ルーズヴェルト大統領、次期大統領デューイ氏との超党派合意に基づき、全太平洋戦線における米軍の即時戦闘停止を発令。硫黄島、マリアナ、フィリピン各戦線の米軍、陣地を維持し全攻撃を中止。中立国スイスを介し、日本政府へ休戦交渉を正式打電』
「……終わったか」
宇垣は低く呟いた。
それは、日本が勝利したという単純なハッピーエンドではなかった。
国力も、物資も、工業力も、日本はアメリカに遠く及ばなかった。このまま全面戦争を続ければ、いずれ日本は滅び去っていたはずだった。
しかし、レイテという極限の戦場で、日本海軍は見えざる勝利の糸を手繰り寄せた。
スリガオ海峡の暗闇に消えていった西村祥治中将と志摩清英中将の凄絶な囮作戦。
シブヤン海の地獄を生き抜き、捕虜移送という歴史の裏方を支えた武蔵の生還者たち。
そして、計算された判断で自らを浅瀬に固定して二十万の敵陸軍を圧倒し、離礁して外洋へ睨みを効かせた宇垣自身の決断。
点と点として散らばっていた全ての犠牲と執念が、最後の最後で一本の太い線となり、巨大なアメリカという国家の運命を捻じ曲げたのだ。
「長官」
後ろから参謀の長島少佐が歩み寄ってきた。その目には熱いものが溜まっている。
「内地より、全艦隊へ帰還命令が打電されました。……我々は、生きて日本へ帰ることができます」
宇垣は静かに振り返り、長島の肩を強く叩いた。
「長島参謀。我々は生き残ったのではない。生かされたのだ。……散っていった西村たちや、海に沈んだ無数の水兵たちの命によってな」
「ハッ……!」
宇垣は再び海に向き直り、静かに目を閉じた。
夕闇がレイテ湾を包み込んでいく。
大和の巨大な四十六センチ主砲の砲口は、もはや火を吐くことはない。
その黒々とした砲門の向こうには、かつて見たことのない「新たな歴史」の地平線が、どこまでも、どこまでも広がっていた。
(第9話 完、『レイテ』 全話完)
宣伝:マスターのおかげで、わたしは人の気持ちを理解できるようになりました
異世界ファンタジー『真・巻き込まれ召喚。 収納士って最強じゃね!? 』https://ncode.syosetu.com/n1548md/ よろしく。
怪獣は倒した。だが残されたのは、15万トンの死体と莫大な請求書。
パニックSF『壊獣処理年報』(全6話予定)https://ncode.syosetu.com/n2574mu/ よろしく。




