第4話 運命の分水嶺、指揮官の負傷
昭和十九年十月二十五日、午前六時ちょうど。
神奈川県横浜市、慶應義塾大学日吉キャンパスの地下深くに掘られた、海軍連合艦隊司令部地下壕。
湿った土とカビの臭い、そして激しく電波を行き交わせる無線機の真空管が放つ熱気が、地下壕内の重苦しい空気を生温かく煮詰めていた。
「司令長官! スリガオ海峡の第三部隊(西村艦隊)より電報!『われレイテ湾に突入す』を最後に……電信途絶えました!」
通信士官の悲鳴のような叫びが、地下壕のコンクリート壁に虚しく谺した。
海軍連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、腕組みをしたまま微動だにせず、壁に張られた巨大な太平洋作戦海図を見つめていた。その顔は不気味なほど蒼白で、唇は一文字に結ばれている。
「……続いて志摩艦隊より入電!『山城』『扶桑』沈没! 西村司令官戦死!……志摩艦隊は傷ついた『最上』『時雨』を収容しつつ、スリガオ海峡より離脱中!」
暗い壕内に、重い呻き声が広がった。
同じ頃、東京・市ヶ谷の軍令部地下壕でも、総長・及川古志郎大将らが深々とした絶望に打ちひしがれていた。日本海軍が誇る二隻の戦艦と数千の将兵が、たった一夜でスリガオの海に消えたのだ。
「西村は……己を囮にして散ったか」
豊田長官が低く呟いた。その声には、血の混じったような重みがあった。
「栗田は……栗田の中央本隊はどうなっている! サンベルナルジノ海峡を抜けたのか!?」
「……栗田艦隊からの電信は、現在途絶しております! 敵の電波妨害か、あるいは……」
豊田は大槌で海図台を叩きつけた。ズシンと重い音が響く。
「打信!『神助を確信し全軍突入せよ』! 栗田に伝えろ! 西村の死を無駄にするなと!」
◆
同じ頃。比島サマール島沖。
サンベルナルジノ海峡を「奇跡的に敵の影なし」として無傷で通り抜けた栗田艦隊(第一遊撃部隊)は、黎明の太平洋を南下していた。
旗艦『大和』の第一艦橋。
朝日が水平線から昇り、雲を真っ赤に染め上げていく。美しい朝焼けであったが、艦橋内に漂う空気は重く冷たかった。
「西村艦隊……全滅……」
通信参謀から電報を受け取った栗田健男中将の手が、力なく震えた。
シブヤン海での激しい空襲、愛宕の沈没による重油まみれの漂流、そして武蔵の喪失。連日の過酷極まる心身の摩耗に加え、南の西村艦隊が全滅したという報せは、栗田の精神の糸をぷつりと切るのに十分な衝撃だった。
「西村中将まで死んだか……。敵の機動部隊はどこにいる。やはり、我々は囲まれているのではないか?」
栗田の呟きに、参謀長の小柳富次少将もまた顔を伏せた。
艦橋内には、「このまま進めば我々も西村艦隊の二の舞になる」「一度反転して敵機動部隊を叩くべきではないか」という迷いと焦燥が、まるで伝染病のように広がっていた。
ただ一人、第一戦隊司令官・宇垣纏中将だけが、ギラギラとした鋭い眼光で南の海を見つめていた。
宇垣は白い軍服の胸元をはだけさせ、熱帯の風を浴びながら、心の中で血の涙を流していた。
(西村……山城、扶桑の将兵ども……。お前たちは見事に敵を引きつけてくれた。志摩も後方で敵を揺さぶり、生存者を拾って離脱した。小沢の艦隊も北で敵の主力である機動部隊を吊り上げてくれた。……天は我らに、レイテへの道をあけて下さったのだぞ!)
宇垣には見えていた。
今、自分たちの前方に立ちはだかる主力障害物は何もない。
サンベルナルジノ海峡は無人であり、敵主力である機動部隊は北へ走り、スリガオの米第7艦隊は過剰な砲撃で弾薬を使い果たして青息吐息だ。
今こそ、レイテ湾へ躍り込み、無防備な敵輸送船団の喉元を喰い破る千載一遇の好機なのだ。
だが、栗田長官の顔には「迷い」の二文字しか浮かんでいなかった。
「長官! 全軍速力二十四ノット! このままレイテ湾へ直進すべきです!」
宇垣が迫ったが、栗田は力なく首を振るばかりだった。
「宇垣君……焦るな。敵の機動部隊の位置が掴めん。慎重に……」
◆
午前六時四十五分。
視界の先に、低い雲を突いて飛び出してくる無数の飛行機影が捉えられた。
「敵機影! 方位一二〇、距離二〇! 艦載機群、本艦に向かう!」
見張員の悲鳴のような叫び。
それは、サマール沖で警戒行動をとっていた米第77.4.3任務部隊(通称タフィー3)の護衛空母群から発進した、駆逐艦並みの小さな空母の艦載機たち(カサブランカ級護衛空母のFM-2ワイルドキャット戦闘機やTBMアベンジャー雷撃機)であった。
タフィー3の指揮官クリフトン・スプレイグ少将は、目の前に突如現れた『大和』を筆頭とする日本海軍の巨大戦艦群に肝を冷やし、手持ちの全艦載機をなりふり構わず緊急発進させていたのだ。
「対空戦闘ッ!」
大和の二十五ミリ機銃が一斉に火を噴く。
バリバリバリバリッ! という轟音が大和を揺さぶる。
米軍機は、爆弾や魚雷だけでなく、機銃掃射や噴進弾(ロケット弾)を撒き散らしながら、ハエのように大和の艦橋へ群がってきた。彼らの目的は撃沈ではなく、日本艦隊の指揮系統を破壊し、突入を遅らせることだった。
シュゴオオオッ!
「敵機、何か撃ってきます! 伏せろッ!」
「尾を引く爆弾、来ます! 伏せろッ!」
一機のTBMアベンジャーが、雲を突いて大和の第一艦橋へ向けて超低空で突入してきた。その両翼から解き放たれた数本の噴進弾が、白い煙の尾を引いて艦橋へ迫る。
直後——。
ドカァァァァンッ!!
爆発は大和の厚い第一艦橋の防弾装甲のすぐ外側、測距所の横で巻き起こった。
至近弾が放った凄絶な衝撃波と無数の鉄の破片が、頑丈な防弾ガラスをくもの巣状に粉砕し、窓枠ごと艦橋内部へと吹き飛ばした。
「ぐわぁぁぁッ!?」
ガラスの破片と高熱の爆風、そして千切れた鉄くずが狂風となって艦橋内を駆け抜けた。
通信機が弾け飛び、海図台が吹き飛び、血と塗料の焦げた臭いが一瞬で艦橋を満たす。
「長官ッ! 栗田長官ッ!」
煙が渦巻く艦橋の床で、小柳参謀長が叫んだ。
栗田健男中将は、海図台の脇に倒れていた。
至近弾の激しい衝撃波により、防弾ガラスの破片が彼の額と胸部を深く切り裂き、白い軍服がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。栗田の目はうつろで、唇から血の泡を吐き出しながら、ピクリとも動かなくなっていた。
「重傷だ! 長官が頭部を打たれている! 衛生兵! 軍医を呼べ!」
艦橋内は大混乱に陥った。
指揮官が倒れ、参謀たちが血まみれの栗田を取り囲み、操縦系統の指示が完全に途絶えた。
大和の巨体が、舵を失ったようにわずかに右へと偏向し始める。
「反転だ! 一度退避して体制を整えるんだ!」
パニックを起こした参謀の一人が叫んだ。
その時——。
◆
「黙れえぇぇッ!!!」
雷のような怒号が、混乱する艦橋を切り裂いた。
煙の中から立ち上がったのは、宇垣纏中将だった。
彼の額からもガラス片による血が流れていたが、その顔は鬼神のごとき怒りと鬼気に満ちていた。宇垣は倒れた栗田を見下ろすこともなく、一歩前へ躍り出ると、血みどろの手で第一艦橋の舵輪の前に仁王立ちになった。
「第一戦隊司令官・宇垣纏である! 栗田長官負傷につき、これより本官が第一遊撃部隊の全指揮を執る!」
宇垣の声には、一切の迷いも、怯みもなかった。
その圧倒的な威圧感に、右往左往していた参謀や水兵たちが息をのんで凍りついた。
「宇垣長官……しかし栗田長官の手当てを……」
小柳参謀長が怯みながら言うと、宇垣は小柳の胸ぐらを掴まんばかりに顔を近づけた。
「小柳! 貴様には見えんのか! スリガオで地獄の炎に包まれながら死んでいった西村の顔が! 武蔵とともに海へ沈んだ数千の英霊たちの叫びが!」
宇垣の目から、血と混ざり合った熱い涙が頬を伝って落ちた。
「西村艦隊はな、己の身を擦り減らして米第7艦隊の弾薬を叩き出してくれたんだ! 志摩艦隊も敵を揺さぶって離脱した! 小沢艦隊は命を賭して敵機動部隊を北へ引きずり回してくれたんだ! 今、このサマール沖の前に広がるのは、我らが突入するための『一本の血の道』なんだぞッ!」
宇垣は第一艦橋の破れた窓から、南のレイテ湾の方角を指さした。
「目の前にいる敵は空母の皮を被った雑魚(護衛空母)だ! 敵の正規空母などここにはおらん! 我々の狙いはただ一つ、レイテ湾内に蠢くアメリカの二十万の上陸部隊と、それを支える輸送船団だ!」
宇垣は叩きつけるように全艦に通じるマイクのスイッチを入れた。
『全艦へ告ぐ! 第一戦隊司令官宇垣纏である! 栗田長官の負傷に伴い、これより本官が第一遊撃部隊の指揮を執る』
大和、長門、金剛、榛名——残された栗田艦隊のすべての艦艇のスピーカーに、宇垣の魂の咆哮が響き渡った。
『我らはこれより、障害を破り、レイテ湾へと絶対突入を行う! 西村艦隊の犠牲を無駄にするな! 一艦残らず我に続け! 目標、レイテ湾内敵輸送船団!!』
その声は、絶望に傾きかけていた艦隊全将兵の心に、激しい火をつけた。
「おおおぉぉぉぉッ!」
「突入だ! レイテ湾へ突入だッ!」
各艦の甲板から、雄叫びが上がった。
◆
午前七時ちょうど。
大和の艦橋で、宇垣は操舵士に向かって力強く命じた。
「面舵一杯! 進路一五〇! 全軍、速力二十六ノット!」
ズズズズズズンッ……!
大和の四本の巨大プロペラが爆発的な回転を始め、七万トンの巨体がサマール沖の海を割りながら、凄まじい水柱を上げて加速し始めた。
その背後を、戦艦『長門』『金剛』『榛名』、そして重巡洋艦群が、美しい単縦陣を組んで追従してくる。
逃げ惑う米護衛空母群(タフィー3)が放つ頼りない至近弾や機銃掃射を、大和は鎧に当たる雨粒程度にしか意に介さなかった。
宇垣纏は、破れた防風ガラスから吹き込む南国の風を全身に浴びながら、不敵な笑みを浮かべた。
その視線の先——サマール島を越えた目と鼻の先には、無防備な輸送船団がひしめくレイテ湾の青い海が、はっきりと開けていた。
「西村……見ていろ」
宇垣は低く呟いた。
「お前が命と引き換えにこじ開けた扉を、俺たちが今からぶち破ってやる」
指揮官の交代という運命の気まぐれにより、歴史の歯車は「突入中止」という現実の軌道から完全に脱落し、未曾有の大殺戮と世界の激変へ向かって、爆走を始めたのである。
(第4話 完)
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