第3話 スリガオ海峡の血煙
第3話 スリガオ海峡の血煙
昭和十九年十月二十四日、夜。
比島東方沖の太平洋上は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
アメリカ海軍第38任務部隊の旗艦、戦艦『ニュージャージー』の艦橋。
“ブル(猛牛)”の異名を持つウイリアム・ハルゼー大将は、怒りで顔を真っ赤に染めながら、手にした電信紙を叩きつけるようにテーブルに置いた。
「見つけたぞ! 日本の空母群だ!」
参謀たちが一斉に海図台へ群がる。
ルソン島北方、エンガノ岬沖。そこに、小沢治三郎中将率いる日本海軍の空母部隊——旗艦『瑞鶴』をはじめとする四隻の空母が出現したのだ。小沢艦隊は、わざと暗号電波を撒き散らし、「ここに空母がいる」と大声で叫ぶかのように北上していた。
「長官、栗田の戦艦部隊はシブヤン海で叩かれ、西へ反転・一時退避しつつあります。レイテ湾に向かう警戒は……」
参謀長のカーニー少将が慎重に言及しようとしたが、ハルゼーは手でそれを激しく遮った。
「栗田の艦隊など、すでに瀕死のトカゲだ! 尻尾を切って逃げ出した奴らなど放っておけ! 真の敵はあの空母群だ。真珠湾の仇であり、日本の機動部隊の残党だ。奴らを一隻残さず海底へ沈めなければ、この戦争は終わらん!」
ハルゼーの目は血走り、獲物を前にした肉食獣のようだった。
彼は即座に全艦隊へ命令を発した。
「第34任務部隊(高速戦艦部隊)および第38任務部隊の全空母、ただちに北上! 小沢の空母群を全滅させる!」
この瞬間、ハルゼーは最大の罠に飛び込んでいた。
日本海軍が最も望んでいた「囮作戦」が、完全に成功したのだ。
レイテ湾の北の入口であるサンベルナルジノ海峡を守るべき、世界最強の米高速戦艦群と大型空母群が、がら空きの海峡を残して遠く北方へと走り去っていったのである。
◆
同日、深夜二十二時。
レイテ島の南に位置するスリガオ海峡。
月もない暗黒の海面を、熱帯特有のねっとりとした湿気を含んだ風が吹き抜けていく。
潮の満ち引きが激しい海峡の水面は、まるで黒い生き物のようにうねり、船体にぶつかっては「ゴソゴソ」と不気味な水音を立てていた。
「風向、北北東。視界、極めて不良」
第三部隊——通称「西村艦隊」の旗艦、戦艦『山城』の艦橋。
司令官・西村祥治中将は、微動だにせず闇の海を見つめていた。
西村の顔は、削ぎ落とされたように鋭く、無骨だった。
彼の率いる艦隊は、戦艦『山城』『扶桑』、重巡『最上』、顔ぶれ豊かな駆逐艦四隻(時雨、満潮、朝雲、山雲)の計七隻。
栗田本隊の突入に歩調を合わせ、南のルートからレイテ湾を目指す手はずであったが、西村はすでに自らの役割が「囮」であり、生存の可能性が極めて低いことを悟っていた。
(栗田長官はシブヤン海で足止めを食っている……。だが、我らが止まるわけにはいかん)
西村は口の中に溜まった苦い唾を飲み込んだ。
西村艦隊の前方からは、すでに米軍のPTボート(魚雷艇)が蚊のように群がり、ロケット弾や機銃を撃ち込んできていた。
パンパンパンッ! バリバリッ!
暗闇の中で、曳光弾の赤い軌跡が夜空を交差する。
山城の副砲や高角砲がそれに応戦し、耳をつんざく砲声が海峡に響き渡る。一瞬、オレンジ色の閃光が西村の険しい顔立ちと、艦橋内の将兵たちの青白い顔を照らし出した。
「長官、敵魚雷艇を撃退。されど、この先海峡内に多数の電探影あり。……米艦隊の本隊です」
参謀長が低い声で報告する。
「うむ」
西村は短く答えただけで、顔色ひとつ変えなかった。
彼は伝令に向かって、静かに、だが鋼のように固い声で命じた。
「打信。『われレイテ湾に突入す』。……全艦、単縦陣。我に続け」
七隻の艦艇は、漆黒の海峡を一直線に、地獄の釜の底へと進んで行った。
◆
西村艦隊を待ち受けていたのは、アメリカ海軍第7艦隊の凄絶なる「完全包囲網」であった。
指揮官オルデンドルフ少将は、スリガオ海峡の出口付近に、最先端のレーダーを備えた旧式戦艦六隻(ウェストバージニア、メリーランド、テネシー、カリフォルニア、ペンシルベニア、ミシシッピ)を横一列に並べさせていた。さらにその手前には、重巡洋艦・軽巡洋艦八隻、そして三十隻近くの駆逐艦が待ち構えていた。
軍事ドクトリンにおける理想の形——「T字陣形」。
縦一列で突入してくる西村艦隊に対し、米艦隊は横一列で全主砲を向け、完全に交差する形で迎え撃つ体制を整えていたのだ。
二十五日、午前三時ちょうど。
米駆逐艦隊が暗闇から忍び寄り、一斉に魚雷を挟み撃ちで投下した。
海面を奔る数十本の白い泡沫の筋。
ズズズズズンッ!!
「山雲、被雷! 爆発します!」
「朝雲、艦首切断! 航行不能!」
暗闇の中で、日本の駆逐艦たちが一瞬にして火柱に包まれた。
山雲は瞬時に二つに折れて海底へ消え、朝雲と満潮も激しい炎を上げて洋上に立ち往生した。
さらに、山城の直後を航行していた戦艦『扶桑』の腹底に、二本の魚雷が突き刺さった。
ゴォォォォォォッ!!
扶桑の艦中央に搭載されていた高射砲弾薬庫に引火し、空前絶後の大爆発が巻き起こった。
高さ数百メートルの巨大な火柱が夜空を焦がし、七万馬力のタービンと二万トンの鉄の船体が、真ん中から真っ二つに叩き折れた。
「扶桑が……! 扶桑が折れたぞッ!」
海に放り出された扶桑の乗組員たちが、燃え盛る重油の海で叫んだ。
真っ二つになった扶桑の前半身と後半身は、それぞれ炎を吹き出しながら、不気味な二つの「燃える島」となって海峡を漂い続けた。
だが、旗艦『山城』は足を止めなかった。
「前進! 速力十八ノット! 敵主力に向かって突入せよ!」
西村祥治の叫びは、もはや怒号を超えた魂の咆哮だった。
左右で味方艦が次々と爆発し、海が炎で埋め尽くされていく中、山城はただ一隻、敵の巨大な砲撃陣地に向かって突進していった。
◆
午前三時五十分。
スリガオ海峡の北の出口で、オルデンドルフの米戦艦群のレーダー画面に、単身突き進んでくる『山城』の光点がはっきりと浮かび上がった。
「全艦、砲撃開始(Open Fire)!」
次の瞬間、スリガオ海峡の夜空が昼間のように明るくなった。
ドガガガガガガガガガガガガンッッ!!
米戦艦六隻の16インチ(40センチ)砲および14インチ砲、そして巡洋艦群の6インチ砲が一斉に火を噴いた。
その数は、わずか二十分の間に16インチ徹甲弾が約三百発、14インチ弾が千発以上、巡洋艦の砲弾に至っては四千発を超えるという、近代海戦史上例を見ない密度の「鉄の豪雨」であった。
山城の艦上に、重砲弾が次々と直撃した。
ドカンッ! チュドォンッ! ドバババババッ!
14インチ徹甲弾が甲板を撃ち抜き、内部で炸裂するたびに、数十トンの鉄板が紙くずのように引きちぎれ、空中に舞った。
火薬の焦げた臭い、肉が焼ける生臭い臭い、電気系統がショートし樹脂が焦げた煙。艦橋内部は一瞬にして焦熱の地獄と化した。
「第一砲塔、沈黙! 第三砲塔、弾薬庫に火災発生!」
「艦橋に直撃弾! 操舵不能!」
耳を突く金属の悲鳴と、人間の叫び声。
鼓膜が破れ、耳から血を流しながら、見張員が叫ぶ。
「敵……敵の砲弾が……空を埋め尽くしています!」
西村祥治中将は、グラグラと激しく揺れる第一艦橋の支柱に倒れかかりながら、前線を見据えていた。
彼の顔半分は、飛散したガラス片で切り裂かれ、真っ赤な血が顎からボタボタと流れていた。
目を開けているだけで、空中の熱風と硝煙が目を焼き、猛烈な激痛が走る。
だが、西村の視線は死んでいなかった。
「主砲……撃て……! 一発でもいい……敵に……叩き込め……!」
ズドォンッ!
満身創痍の山城から、残された主砲が最後の反撃として火を噴いた。
その砲弾は、米巡洋艦『コロンビア』の至近に飛び込み、巨体をもがきながらも日本海軍の誇りを示した。
だが、それが限界だった。
午前四時十五分。
無数の穴があき、艦全体が真っ赤な松明のようになった山城は、ついに速力が落ち、右舷へと大きく傾斜し始めた。
「長官……もう……」
血みどろになった参謀が、西村の足元に崩れ落ちた。
西村祥治は、静かに血を拭うと、傾いていく艦橋の窓から、燃え盛るスリガオ海峡の海を見つめた。
(栗田……宇垣……。俺たちはここまでだ……。あとは……頼むぞ)
午前四時十九分。
戦艦『山城』は、最後の一瞬まで主砲を敵に向けたまま、艦尾から黒い海中へと没していった。西村祥治中将以下、千名を超える将兵が、山城とともに海底へと消えた。
◆
山城が海底へと没した直後の午前四時三十分。
西村艦隊の後方を追う形でスリガオ海峡へ突入してきたのは、志摩清英中将率いる第二遊撃部隊(通称・志摩艦隊)であった。
重巡『那智』『足柄』、軽巡『阿武隈』、そして駆逐艦群からなる艦隊は、先行する西村艦隊と連携すべく海峡の闇を切り裂いて進んでいた。
「な……何だ、あれは……!?」
旗艦『那智』の第一艦橋で、志摩中将は双眼鏡を構えたまま凍りついた。
彼の眼前で繰り広げられていたのは、海戦ではなく、まさに「地獄の絵図」であった。
真ん中から真っ二つに折れ、なおも爆発を繰り返しながら赤黒い煙を上げる『扶桑』の残骸。海一面に漂う重油に火が燃え移り、長大な「炎の帯」が夜の海峡を焼き尽くしている。その炎の海の底へ、山城が消え去ったばかりであった。
そこへ、濃密な黒煙と炎の奥から、艦首を大破し真っ赤に燃え上がりながら後退してくる巨大な影が突如として現れた。
西村艦隊の生き残り、重巡『最上』であった。
「取り舵いっぱい! 避けろッ!」
志摩の怒号と同時に『那智』の巨体が大きく傾いたが、暗闇と硝煙の立ち込める狭隘な海峡内で、完全にコントロールを失った『最上』を回避しきることは不可能だった。
ガガガガギギギギッッ!!
『那智』の右舷艦首が、『最上』の右舷中央部へと激しく衝突した。
引きちぎれる鉄板の甲高い金属擦過音と、凄まじい衝撃が艦橋を揺らす。
「全艦、交戦状態に入れ! 前方に敵電探影!」
志摩艦隊の駆逐艦群が闇に向かって魚雷を投下したものの、海峡の出口には、西村艦隊を打ち砕いた米第7艦隊の完全なT字陣形が依然として鎮座していた。
志摩清英中将は、血の匂いと焦げた塗料の臭気が満ちる艦橋で、冷酷なまでに研ぎ澄まされた状況判断を下した。
(西村本隊はすでに全滅……。味方の通信は途絶。この狭い海峡で敵の集中砲火の渦へ飛び込めば、我らもまた無意味な標的として全滅するのみ……!)
「長官! 敵巡洋艦群、こちらへ全速で接近中!」
見張員の悲鳴のような報告を背に受けながら、志摩は微動だにせず一瞬で決断した。
「全艦、反転! 煙幕を展開しつつ、ただちに海峡外へ退避せよ! 傷ついた最上と時雨を掩護する!」
無駄死にを断固として拒絶する志摩の冷徹な采配により、志摩艦隊は迅速に180度反転。追撃してくる米艦艇の砲爆撃を掻い潜り、奇跡的に生き残った『最上』と『時雨』を庇うようにして、スリガオ海峡から離脱していった。
この志摩艦隊の鮮やかな反転と撤退は、米軍に「スリガオ海峡から突入を図った日本海軍の南方向の脅威は完全に排除された」という絶対の確信を与えることとなったのである。
◆
海峡に、再び静寂が戻ってきた。
海面には、山城と扶桑から漏れ出た数千トンの重油が広がり、そこに火が燃え移って、夜の海に長大な「炎の帯」を作り出していた。
米戦艦『ウェストバージニア』の艦橋。
オルデンドルフ少将は、双眼鏡を降ろし、深く溜息をついた。
「凄まじいな……。あのような圧倒的な不利と集中砲火の中で、一歩も引かずに突進してくるとは」
オルデンドルフの顔には、勝利の歓喜よりも、恐怖に近い疲労の色が濃かった。
彼の手元には、各艦からの悲鳴のような報告が相次いで届いていた。
「少将、問題が発生しました! 各戦艦および巡洋艦の徹甲弾・重砲弾の消費量が限界に達しています!」
「何だと?」
「戦艦群の16インチ、14インチ徹甲弾は残り二割を切りました。巡洋艦の6インチ弾も底をつきかけています。……これ以上の大規模な水上戦闘は不可能です!」
オルデンドルフは息をのんだ。
西村艦隊という「たった七隻」の死闘、そして志摩艦隊の突入に対処するために、米第7艦隊は持ちうる弾薬の大部分を一夜で使い果たしてしまったのだ。
さらに、激しい夜間戦闘と無数の魚雷・砲撃の交錯により、米艦隊の陣形は乱れ切り、艦艇の燃料も大幅に消費されていた。
「全艦、射撃を停止せよ。警戒を保ちつつ、海峡内で再編を行う」
オルデンドルフは命じた。
彼の頭の中には、「これで南からの敵は完全に排除した」という安堵感しかなかった。
しかし、オルデンドルフも、そして北へ走り去ったハルゼーも、まだ気づいていなかった。
西村艦隊がその身を肉の盾とし、志摩艦隊が敵の戦力を揺さぶったことで、米第7艦隊の弾薬を完全に枯渇させ、関心を南へと引きつけ尽くしたというその真相に——。
そして、ハルゼーが北へ誘い出されて空っぽになったサンベルナルジノ海峡を——。
宇垣纏中将が指揮を握り、復讐の鬼と化した『大和』以下、栗田艦隊の主力が、静かに、だが着実にレイテ湾へと近づいているという事実を。
スリガオ海峡に流された西村艦隊の血と炎は、決して無駄死にではなかった。
それは、歴史の歯車を狂わせる、巨大な「仕掛け」の第1火薬となったのである。
(第3話 完)
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ハードSF短編『誤算あるいはカタストロフィー』(全1話、5000字)https://ncode.syosetu.com/n0327mo/
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