第2話 巨艦の沈黙と「生存者」
第2話 巨艦の沈黙と「生存者」
昭和十九年十月二十四日、十九時ちょうど。
フィリピン・シブヤン海の西の空から太陽が完全に姿を消し、濃紺の夜帳が海を包み込みつつあった。
しかし、海面は漆黒には染まっていなかった。
海を覆い尽くした膨大な重油が、不気味な虹色の光を放ちながら波間にうねり、炎上する艦上からの火柱を反射して赤くぬらぬらと光っていた。
世界最強の超弩級戦艦『武蔵』は、左舷に十五度傾斜したまま、断末魔の悲鳴を上げ続けていた。
ギギギギ……ガガッ……!
装甲板が歪み、巨大なリベットが弾け飛ぶ金属音が、艦底の闇から響いてくる。
一番主砲塔の基部からは黒煙が吹き出し、第二艦橋の鉄板は赤く焼けただれて熱気を撒き散らしていた。
「左舷傾斜、一八度に増加! 排水ポンプ、全速稼働中ですが浸水を食い止められません!」
傾いた艦橋で、第一機関科分隊長・小林幸雄大尉は、傾斜計の目盛りを血走った目で見つめていた。
彼の軍服は汗と煤、そして蒸気パイプの破裂によって吹き出したボイラーの油で黒く汚れ切っていた。喉は焼け付くように乾き、呼吸をするたびに焦げた塗料と高熱の重油の臭いが胸の奥を刺した。
「小林大尉……ボイラー室の温度が五〇度を超えました。一番、三番ボイラー、完全冠水です。……もう、保ちません」
報告に訪れた熟練の機関兵曹長・渡辺が、すすけた顔で首を振った。
渡辺は、呉海軍工廠で武蔵の建造段階からボイラーとタービンを組み上げてきた「機械の虫」のような男だ。大和型戦艦の複雑極まる二万馬力の蒸気タービン、何重にも張り巡らされた高圧配管、電動油圧系統の隅々までを、自分の手足のように熟知している。
「渡辺兵曹長……機関科の兵を全員、上甲板へ退避させろ」
「大尉殿は!?」
「私は最後まで排水の指揮を執る。行け! お前たち職人をこんなところで無駄死にさせるわけにはいかん!」
小林は大声を張り上げた。
大和型の機関科兵員は、単なる「兵士」ではない。数千トンの鉄を動かし、精密な油圧と蒸気をコントロールする、日本海軍が誇る最高峰の技術者集団だった。彼らを失うことは、将来のどんな艦船の運用能力をも根こそぎ失うことを意味していた。
「大尉殿を置いていけるかッ! おい、小林大尉を引っ張っていけ!」
渡辺兵曹長は叫び、部下の機関兵たちとともに小林の身体を抱え上げた。
「離せ! まだポンプが動いている!」と暴れる小林を、腕力自慢の機関兵たちが強引に傾いた通路へと引きずり出していく。
◆
十九時十五分。
武蔵の傾斜は二十度を超えた。
一番主砲の天蓋に立ち、艦の最期を見届けようとしていた艦長・猪口敏平少将は、静かに軍帽を正した。
彼の右腕は爆風の破片で傷つき、白い軍服が鮮血で赤く染まっていた。だが、その表情には静謐な諦念と、艦と運命を共にする男の覚悟が宿っていた。
「……総員、上甲板。これより本艦を放棄する」
猪口の声は、艦内スピーカーの多くが破壊されていたため、伝令の手によって肉声で甲板へ伝えられていった。
「総員退去! 海へ飛び込め! 急げっ!」
甲板上にひしめいていた二千人近い将兵たちから、どよめきと叫びが上がった。
負傷して包帯を巻いた兵、熱傷で皮膚がただれた兵、そして手足に油を塗りたくった兵たちが、滑り台のようになった甲板にしがみつきながら海へと身を躍らせていく。
「万歳! 武蔵万歳! 天皇陛下万歳!」
誰かが叫んだ万歳の声が、一瞬にして波の音を打ち消す大合唱となった。
だが、猪口艦長は万歳を唱えなかった。
第一艦橋に戻った彼は懐から手帳を取り出すと、舵輪にその身を括り付け、遺書をポケットにねじ込んだ。そこには、戦艦の防空能力の欠如を激しく批判し、将来の海軍への教訓を綴った熱い手記が残されていた。
「生きろ……」
猪口は沈みゆく甲板から海へ飛び込んでいく若き兵たちの背中に向けて、途切れ途切れの声で呟いた。
「死んで英霊になるな……生きて、この屈辱を返せ……!」
十九時三十五分。
武蔵の艦首が、完全に海面下に没した。
巨大な一番主砲塔が自重に耐えかねてゴトッと外れ、海中へと落ちていく。直後、艦底が空を向き、四本の巨大なプロペラが宵闇の空に虚しく曝された。
ゴォォォォォォン……ッ!!
海水がボイラー室に一気に流れ込み、超高熱の金属と接触して凄まじい水蒸気爆発を起こした。
海面が山のように盛り上がり、数百メートルの水柱と火柱が夜空を突き破る。
七万三千トンの鉄の塊が、海底四千メートルの闇へと急速に滑り落ちていった。
武蔵の沈没によって生じた巨大な渦が、海面の兵たちを呑み込んでいく。
「うあぁぁぁっ!」
「引きずり込まれる! 泳げ! 離れろ!」
小林大尉と渡辺兵曹長もまた、猛烈な引き波に揉まれていた。
耳の中に重油と海水が容赦なく流れ込み、鼻を突く強烈な重油の臭いに息が詰まる。目が猛烈に痛み、視界が真っ暗になった。
(ここまでか……俺も、武蔵とともに……)
小林の意識が薄れかけたその時、強力な腕が彼の襟首を掴んだ。
「諦めるな大尉殿ッ! 息を吸え!」
渡辺兵曹長だった。重油で真っ黒になった顔から、白い歯だけを剥き出しにして、渡辺は濁流の中で小林の頭を海面の上に押し上げ続けた。
「俺たちは……機関科だぞ! 船を動かすのが仕事だ! 海の中で死んでたまるかッ!」
◆
二十時二十分。
シブヤン海の闇の中に、すうっと静かに滑り込んできた影があった。
第七駆逐隊・駆逐艦『浜風』と『清霜』である。
両艦は栗田長官の命を受け、敵機の再来恐れある危険な海域に踏みとどまり、武蔵の生存者救助に全力を注いでいた。
「カッター出せ! 竹竿と縄梯子を垂らせ!」
浜風の艦長・前田一中佐の怒号が甲板に響く。
浜風の舷側から探照灯の白光が放たれ、重油の海を照らし出した。
そこに浮いていたのは、地獄絵図だった。
数千人の男たちが、重油にまみれて真っ黒になり、海面を漂っている。探照灯の光に照らされると、誰が士官で誰が下士官かも分からない。ただ目と口だけを白く光らせ、必死に手を振っている。
「救命具を投げろ! 一人でも多く引き揚げろ!」
浜風の乗組員たちが、舷側から麻縄や梯子を垂らした。
「おい! しっかりしろ! 手を掴め!」
「うう……ありがと……ございます……」
引き揚げられる武蔵の生存者たちは、ぬるぬると滑る重油のせいで、なかなか縄を掴むことができない。駆逐艦の水兵たちが自分の身を乗り出し、服を掴み、腕を痛めるほど強く引っ張り上げた。
甲板に引き揚げられた兵たちは、次々と重油を吐き戻した。
ガボッ、ゲーッという苦しげな吐息と、胃液と重油が混ざった吐瀉物の臭いが、浜風の鉄甲板の上に広がっていく。
「洗油(重油を落とすための油)を持ってこい! 目を洗え! 固パンと温かい茶を配れ!」
衛生兵たちが駆け回り、真っ黒になった生存者たちの顔を綿で拭っていった。
小林大尉と渡辺兵曹長も、浜風の第二甲板へと引き揚げられた。
甲板に横たわり、激しく咳き込む小林の傍らで、渡辺は洗油で目をゴシゴシと擦りながら、海を見つめていた。
「艦長……武蔵……」
隣にいた幼い顔立ちの18歳の水兵が、涙をボロボロとこぼしながら声を上げて泣き出した。
「武蔵が沈んじゃった……俺たちの船が……あんなに大きかったのに……!」
その泣き声は、甲板上のあちこちに伝染していった。
世界一の戦艦に乗っているという誇り。自分たちは絶対に負けないという信条。それが一日にして打ち砕かれた無念さと絶望が、男たちの胸を締め付けていた。
だが——。
「泣くなッ!」
怒声が上がった。
顔の半分に包帯を巻き、重油まみれの軍服を着た武蔵の砲術科士官が、立ち上がって若い水兵の肩を掴んだ。
「泣いて何になる! 俺たちは生きているんだぞ! 腕も、脚も、頭も動く! 武蔵の砲を撃ってきた技は、俺たちの体の中に残っているんだ!」
その言葉に、甲板の静寂が破られた。
小林大尉も、震える手で甲板の鉄板を強く叩いた。
冷たい鉄の感触。重油の滑り。だが、その下にあるのは間違いなく「船」の力強い骨組みだった。
「そうだ……」
小林は掠れた声で呟いた。
「渡辺……俺たちの手は、まだ動くか?」
渡辺兵曹長は、重油で黒く染まった自分の太い両手を見つめた。爪の間にまで重油がこびりつき、真っ黒になっている。だが、その指先は確かに生き物のように脈打っていた。
「動きますとも、大尉殿。蒸気機関だろうが、ディーゼルだろうが、ガソリンエンジンだろうが……俺に触らせてもらえりゃ、どんな船だって動かしてみせます」
「そうだ」
小林の目に、鋭い光が戻っていた。
「武蔵という『鉄』は沈んだ。だが、武蔵を動かしていた『人』は死んでいない。……俺たちが生き残ったことには、絶対に意味があるはずだ」
◆
救助作業は深夜まで続けられた。
駆逐艦『浜風』『清霜』、そして合流した『岸波』などによって、海から引き揚げられた武蔵の生存者は、千三百七十六名に達した。
それは、単なる「敗残兵」の群れではなかった。
千三百を超えるその人員の中には、
・世界最大口径の四十六センチ砲を操作していた熟練の砲術要員
・大容量の発電機と複雑な油圧系統を管理していた電気・工作要員
・巨大なボイラーと高圧タービンを極限状態で回し続けた高度な機関科要員
・大艦隊の複雑な航路を弾き出してきた航海科・通信科のエリートたち
日本海軍が長年かけて育成し、武蔵という最高の戦艦に集めていた「最高峰の船乗り・海軍技術者」が、奇跡的に丸ごと命を取り留めた瞬間だった。
浜風の狭い士官室に集められた武蔵の生存士官たちを前に、浜風艦長・前田中佐は静かに言った。
「長官からの命令だ。貴官らはこれより、マニラへ回航、あるいは第一遊撃部隊の補給拠点へと移動してもらうことになる。……栗田長官の大和は、今この瞬間もサンベルナルジノ海峡を目指して前進中だ」
士官室の空気がピンと張り詰めた。
「大和は……まだ戦っているのか」
小林大尉が尋ねる。
「そうだ。西村艦隊も南からレイテへ向かっている。……お前たちの戦いも、まだ終わってはいない」
前田の言葉に、小林は深く頷いた。
彼の脳裏には、あるビジョンが浮かんでいた。
もし、第一遊撃部隊がレイテ湾に突入し、そこに停泊しているであろう大量のアメリカ軍輸送船——敵の物量を支える「戦時急造輸送船(リバティ船)」や大型揚陸艦を奪い取るような事態になったらどうなるか。
アメリカの船は、日本の船とは構造が違う。操作方法も、機械の規格も異なる。
だが、自分たち武蔵の機関科・工作科の精鋭がいればどうだ?
渡辺兵曹長のような熟練の職人たちが揃っていれば、敵の輸送船であっても数時間で機械構造を解明し、エンジンをかけ、自自自在に操縦して見せることができる。
(そうだ……俺たちは、ただ救われたのではない)
小林は拳を強く握りしめた。
(奪った敵船を動かし、敵の兵を運ぶ『回航要員』として……俺たちは生き残らされたのだ!)
無念の涙を流していた若き兵たちも、固パンを噛み締め、お茶を飲み干しながら、静かに立ち上がり始めていた。
重油の臭いが立ち込める駆逐艦の狭い甲板上で、千三百人の「生存者」たちの胸の中に、絶望を吹き飛ばす新たな「殺意と執念」が静かに芽生えていた。
武蔵の沈没は、日本海軍の終わりの始まりではなかった。
それは、アメリカ軍が想像もし得なかった「非対称の反撃」への、最初のピースが揃った瞬間だったのである。
(第2話 完)




