第1話 牙を剥くシブヤン海
第1話 牙を剥くシブヤン海
重油の焦げた匂いと、南国のねっとりとした塩風が、鼻腔の奥にこびりついて離れない。
昭和十九年十月二十二日、黎明。
ボルネオ島北端、ブルネイ泊地。鏡のように静まり返った水面を割り、漆黒の巨大な影群が滑り出した。
捷一号作戦——日本海軍がその最後の血の一滴までを絞り出して立案した、フィリピン防衛のための絶対反撃作戦である。
「面舵一杯。これより第一遊撃部隊、出撃す」
重巡『愛宕』の艦橋で、栗田健男中将は低く呟いた。
その顔には、隠しきれない疲労の影が刻まれていた。連日の徹夜に及ぶ作戦会議、そして何よりも「航空掩護なしで米機動部隊の真っ只中に突入する」という、自殺にも等しい作戦計画への苦い思いが、舌の奥に広がり続けていた。
だが、事態は栗田の胸中の苦悶など待ってはくれない。
出撃の翌二十三日未明、パラワン水道。
暗黒の海から突如として襲いかかった米潜水艦の魚雷によって、栗田が将旗を掲げる旗艦『愛宕』は、わずか二十分で海底へと引きずり込まれた。
「長官! 早く海へ!」
「……ぬぐっ……!」
渦巻く重油の海へ投げ出され、冷たさと硫黄のような臭気に包まれながら、栗田は必死に救助艇にしがみついた。乗組員の怒号、重油を飲んで吐き戻す兵たちの悲鳴、沈みゆく愛宕が発する「ギギギ」という鉄骨の断末魔。
九死に一生を得て、駆逐艦『岸波』経由で超弩級戦艦『大和』へと将旗を移したとき、栗田の精神と体力は削り取られていた。
そして十月二十四日。
運命の朝が、比島中部に位置するシブヤン海の空を、血のような朱色に染め上げていた。
◆
「……暑いな」
『大和』の第一艦橋。
第一戦艦戦隊司令官、宇垣纏中将は、白い軍服の襟元をわずかに寛げながら、眼下に広がる凪いだ海を見つめていた。
汗が額から落ち、目に入ってピリリと痛む。熱帯の烈日が、大和の重厚な装甲を焼き尽くさんばかりに照りつけている。
大和の艦内は、特有の静寂と緊張に満ちていた。
冷房の効いた艦橋内部でさえ、換気扇から送られてくる空気には、缶詰の肉のような生温かい臭いと、機関部から上がってくる機械油の熱気が混ざり合っている。
「宇垣長官。栗田長官の御様子は……」
参謀のひとりが小声で耳打ちする。
宇垣は視線をわずかに横へ滑らせた。艦橋指揮官用に据えられた椅子に深く腰掛け、両手で膝を固く握りしめている栗田健男の姿があった。
愛宕沈没の際、冷たい海に揉まれたせいか、栗田の顔色は青白く、時折、発熱にうなされるかのように薄く目を開けては海を見つめている。
(栗田長官は、心身ともに消耗が限界に達しておられる……)
宇垣は心の中で眉をひそめた。
宇垣自身、陣中日誌『戦藻録』に冷徹な観察を書き連ねる極めて現実主義的な将校であったが、同時にこの作戦に秘められた必死の覚悟を人一倍強く抱いていた。
——この艦隊は、死に場所を探しに行くのではない。レイテに上陸した米軍を叩き潰すために行くのだ。
「電探に感あり! 方位二九〇、距離八〇! 敵機多数、本艦に向かう!」
第一艦橋のスピーカーから、割れた高音の絶叫が響き渡った。
一瞬の静寂。次いで、大和全艦に轟く対空戦闘ラッパの甲高い音が、兵たちの耳腔を突き破った。
『対空戦闘! 対空戦闘! 目標、左三〇度、上空!』
「来たか……!」
宇垣は双眼鏡を手に取り、防空指揮所へと足早に階段を駆け上がった。
鉄の階段を踏む軍靴の音が、甲高い金属音を立てて響く。
シブヤン海の青空の彼方。
そこには、小さな黒い胡麻粒のような影が、無数に湧き出していた。
米第38任務部隊——ハルゼー大将率いる超大型空母群から放たれた、第一波攻撃隊。ヘルキャット戦闘機、ヘルダイバー急降下爆撃機、アベンジャー艦上攻撃機。その数、およそ数十機。
「撃てぇッ!!」
大和の副長、能村次郎大佐の怒号と同時に、世界最大の戦艦がその牙を剥いた。
ズドォォォォンッ!!
四十六センチ主砲九門が、対空用散弾『三式弾』を一斉に打ち出した。
衝撃波が防空指揮所を激しく揺さぶり、立っている者の足首をガタガタと震わせる。耳をつんざく爆音とともに、巨大なオレンジ色の火炎が砲口から吹き出し、一瞬にして周囲の酸素が奪われる感覚が喉を襲った。
空中で炸裂した三式弾は、数千個の焼夷弾子を放射状に撒き散らし、青空に巨大な幾何学模様の炎の壁を作り出した。
だが、米軍機はその炎の網をあざ笑うかのように、雲の切れ目から次々と鋭い角度で滑空してきた。
「急降下! 敵、爆撃機突入!」
見張員の悲鳴が上がる。
キーーーーーンという、金属の断末魔のような風切り音が空を切り裂いて降ってくる。米軍機の発達したインターホン越しに聞こえてきそうな、冷徹で組織的なエンジン音。
シュゴオオオッ!
「打ち落とせ! 機銃、休むな!」
甲板上に所狭しと配置された二十五ミリ三連装機銃が一斉に火を噴く。
バリバリバリバリッ! という、耳を連続して叩くような苛烈な射撃音。薬莢が甲板に跳ね飛び、チャリンチャリンと甲高い音を立てて転がる。焼けた塗料と硝煙のツンとする刺激臭が、風に乗って艦橋へ流れ込んできた。
ドォンッ! ドババババッ!
大和のすぐ側で、数十メートルの巨大な水柱が立ち上がった。
「至近弾! 左舷、水柱上がります!」
海水が激しい雨となって防空指揮所に降り注ぐ。しょっぱい塩水が、兵たちの顔の汗と混ざり合い、目を濡らした。
だが、米軍の本当の標的は大和だけではなかった。
「……武蔵だ! 武蔵に敵機が集中しているぞ!」
宇垣は双眼鏡を覗き込み、思わず息をのんだ。
◆
大和の同型艦であり、世界最強の装甲を誇る超弩級戦艦『武蔵』。
その巨体が、今や水柱と火柱の群れの中に完全に覆い隠されていた。
「左舷より雷撃機接近! 本艦に向かいます!」
「面舵ッ! 回避運動!」
武蔵の艦長、猪口敏平少将の叫び声が艦橋に響く。
しかし、米軍の雷撃隊は恐るべき熟練度で、武蔵の左右両側から挟み込むように魚雷を投下していた。海面に白い泡の尾を引いて迫る、数本の「銀の太刀」。
ズゥゥゥン……!
腹底から響くような重苦しい振動が、海を隔てた大和にまで伝わってきた。
水中で炸裂した魚雷の衝撃波。武蔵の左舷中央部から、膨大な海水の噴柱が上がり、重厚な鉄の艦体が大きく右へと傾いた。
「武蔵、被雷一! さらになおも敵機多数突入中!」
空襲は一波では終わらなかった。
第二波、第三波。
空を覆う雲は米軍機の蜂の巣と化し、シブヤン海は爆弾の炸裂音と魚雷の爆破音、そして旋回するエンジンの唸り声で埋め尽くされた。
「クソッ、どこからこんなに出てきやがる!」
大和の機銃手、第一機銃群の若き水兵・加藤は、真っ赤に熱した機銃の引き金をがむしゃらに引き続けていた。
汗と煤で顔は真っ黒になり、目だけがギラギラと光っている。
彼のすぐ隣で、弾倉を交換しようとした同僚の水兵の頭部が、突如として弾け飛んだ。米軍機の十二・七ミリ機銃弾が直撃したのだ。
「うあぁぁっ!?」
肉片と温かい血が、加藤の顔と胸元にべったりと吹きかかった。
生臭い血の臭い。肉が焼けるような嫌な匂い。
「顔を拭くな! 撃て! 撃ち続けろお前らぁぁッ!」
分隊長の怒号に弾かれたように、加藤は倒れた同僚の身体を足で押しのけ、再び空を仰いで引き金を引いた。
狂気と死が、シブヤン海を完全に支配していた。
何十回目かの急降下爆撃が武蔵の甲板を捉えた。
ドカンッ! という腹に響く凄まじい爆発音とともに、武蔵の中央部に巨大な黒煙が上がった。爆弾が一番主砲の脇を撃ち抜き、艦内の通信線や対空指揮所を破壊したのだ。
「武蔵、一番主砲射撃不能! 艦首が沈下しつつあり!」
「バカな……あの武蔵が……!」
大和の艦橋で、参謀たちが悲鳴のような声を上げた。
かつて「不沈艦」とまで謳われた大和型戦艦の二番艦が、今や艦首を深く海に突っ込み、速度を極端に落としている。その姿は、群がるサメに全身を貪り喰われる傷ついた鯨のようだった。
◆
「……長官」
防空指揮所から第一艦橋へ戻ってきた宇垣は、栗田の前に立った。
栗田は椅子から立ち上がっていたが、その手は手すりに強くすがりついていなければ倒れそうなほど震えていた。
「宇垣君……武蔵の損害はどのくらいだ」
「被雷多数、爆弾直撃数本。艦首の浸水が止まらず、速力は二〇ノット以下に低下しております。……直衛の駆逐艦を添え、脱出させるべきかどうかの瀬戸際です」
栗田の口唇が乾いて裂け、薄い血が滲んだ。
「我々は……味方の航空掩護もなしに、このまま進むべきなのか……」
栗田の呟きは、指揮官としての弱音というよりは、あまりにも一方的な屠殺場と化したシブヤン海の惨状に対する、人間としての絶望の吐露であった。
味方の戦闘機は一機も来ない。
我々はただ、敵機の標的としてここに浮いているだけではないのか。
「栗田長官!」
宇垣の強い声が艦橋に響いた。
宇垣の目は、冷たい灼熱の光を放っていた。
「作戦目標はレイテ湾の敵上陸部隊です。我らがここで足を止めれば、すでに南から突入しつつある西村艦隊も、志摩艦隊も、そしてなによりフィリピンで血を流す陸軍の将兵もすべて見殺しになります!」
「しかし宇垣君、艦隊がレイテに届く前に全滅してしまっては……」
「全滅なら全滅で結構!」
宇垣は毅然と言い放った。その声には、自分自身をも死へ追い込むような、恐ろしいまでの決意が宿っていた。
「我々に課された使命は『捷号作戦』の遂行のみ! たとえ大和一隻になろうとも、レイテ湾へ突っ込むのが、我ら連合艦隊の残された唯一の道であります!」
栗田は宇垣の目をじっと見つめ返した。
宇垣の顔には、汗と硝煙の煤がこびりつき、その背後には今なお黒煙を上げて傾斜していく武蔵の姿があった。
「……かわいそうに」
栗田はポツリと呟いた。
それが、武蔵の乗組員に向けられたものなのか、それとも自分を含めた栗田艦隊全体の運命に向けられたものなのかは、誰にも分からなかった。
午後三時。
五波にわたる米機動部隊の空襲がようやくやみ、シブヤン海に束の間の静寂が戻ってきた。
だが、その静寂はあまりにも重く、酷虐であった。
海面には、無数の重油の渦と、破壊された艦載機の残骸、そして漂流する木箱や服の切れ端が浮いている。
『武蔵』は、艦首を海面すれすれまで沈め、満身創痍の姿で必死に洋上に留まっていた。爆弾直撃一九本、魚雷被雷二〇本以上。もはや、艦としての戦闘能力は限界を超えていた。
「栗田長官……武蔵より電信です」
通信士官が、震える手で電文を差し出した。
『主砲および副砲、全滅。艦首浸水止まらず。これより艦の保全に全力をつくす。貴隊の健闘を祈る』
猪口武蔵艦長からの、事実上の遺言であった。
「武蔵を残して、進む……」
栗田は力なく命じた。
駆逐艦『清霜』『浜風』『島風』などが、沈みゆく巨艦の周囲に残り、漂流者の救助作戦を開始する。
大和の艦尾から振り返ると、赤く染まり始めた夕暮れの海に、傾いた武蔵の黒いシルエットがぽつんと取り残されていた。
武蔵の甲板からは、今なお重油の焼ける黒煙が立ち上り、空へとしぶとく伸びている。
(武蔵……お前は、俺たちの身代わりになって倒れてくれたのか……)
大和の防空指揮所で、機銃手の加藤は、同僚の血で汚れた衣服を脱ぎ捨て、新しい軍服に袖を通しながら、消えゆく武蔵を見つめていた。
口の中には、硝煙の苦い味と、噛み切ったくちびるから出た血の味が、いつまでも残っていた。
シブヤン海の地獄は終わった。
だが、それはこれから始まる「本当の地獄」の、ほんの序章に過ぎないことを、大和に乗る誰一人として知る由もなかった。
東の空の暗雲の向こう、スリガオ海峡とサンベルナルジノ海峡の先には、無数の米軍輸送船団と、それを待ち受ける米太平洋艦隊の牙が、静かに研ぎ澄まされていたのである。
「栗田艦隊、進路を一二〇度に変ず。サンベルナルジノ海峡へ向け、夜間突入を開始す!」
大和の巨大なスクリューが再び海を掻き回し、重厚な震動が艦底から湧き上がった。
血の海と化したシブヤン海を背に、残された鋼鉄の城たちは、暗黒の夜の海へと突き進んでいった。
(第1話 完)




