第19話:安らぎの山寺と、底に潜む恐怖の「要塞」
地獄の十二月を乗り越え、辞令が下ったのは静かな山寺。ついに手に入れた「穏やかな修行生活」……のはずでしたが、そこには本山の鬼和尚よりも恐ろしい「二つの地獄」が待ち構えていました。
十二月の「臘八摂心」と「成道会」という、修行生活最大の節目をなんとか越え、年が明ける直前。私に新たな辞令が下りました。
術後の足の状態を考慮していただいたのか、本山の喧騒を離れ、永平寺の末寺である「吉峰寺」へと転役することになったのです。
吉峰寺は、永平寺から車で二十分ほどの深い山の中にあります。
ここはかつて道元禅師が永平寺を開かれる前に隠棲された由緒ある古刹で、弟子の徹通義介禅師が典座(食事係)として、日に何度も険しい山道を往復して給仕したと伝えられています。
その急峻な山道「徹通坂」は、今も修行僧たちの大切な修行の道でした。
しかし、冬になると話は別です。山へと続く道路は完全に雪で閉ざされ、冬期間は完全封鎖。私たち修行僧は、春まで一歩もお寺から出ることができません。
外界との唯一の連絡手段は、役寮(老師)さん専用の、人間が数人乗れるか乗れないかという小さな「オンボロのケーブルカー」。
スキー場のリフトに屋根をつけたような頼りない鉄のカゴが、物資の補給や急用の際の唯一の命綱でした。
幸い、平成十九年の冬は前年の豪雪とは打って変わり、雪かきが必要な日も月に十日ほどという記録的な暖冬でした。
観光客も来ない静まり返った山寺で、朝の坐禅にお経、当番制の簡単な炊事。
これまでの「戦争のような毎日」が嘘のように、まったりとした穏やかな時間が流れていました。
「足の静養には最高の場所に来られた」と、最初のうちは心から安堵していたのです。
……そう、あの「二つの地獄」を味わうまでは。
一つ目の地獄は、カメムシです。
暖冬のせいもあったのでしょうか、とにかく尋常ではない数が寺の中に潜んでいました。
アットホームなお寺の雰囲気とは裏腹に、そこはカメムシたちの巨大な要塞だったのです。
朝起きてもカメムシ、掃除をしてもカメムシ。畳の隙間や布団の裏から無数に這い出してきては、油断するとあの強烈な臭いを放ちます。
毎日、毎日、毎日、毎日、自分の寝床を守るためだけに、終わりのない防衛戦に明け暮れていました。(二十年経った今でも、あのカメちゃんだけは本気でトラウマです……)
そして、カメムシ以上に私を打ちのめしたのが、自分の浅はかさが招いた二つ目の地獄でした。
大庫院で散々「調子に乗るな」と鼻を折られたはずの私でしたが、吉峰寺ののんびりした空気に触れ、またしても悪い癖が顔を出したのです。
「よし、ここでも自慢の腕を振るって、みんなに美味い精進料理を食べさせてやろう!」張り切って台所に立っていたある日、私は冷蔵庫の奥深くに眠っていた一パックの豆腐を見つけました。
日付の確認もそこそこに、「もったいないから、火を通せば大丈夫だろう」と、手際よく「炒り豆腐」に仕立てて食卓に並べたのです。
ところが、一口食べた仲間たちがピタリと箸を止めました。
「……堅明、これ、なんか味が……美味しくないんじゃ?」
当然です。完全に消費期限をオーバーした傷みかけの豆腐だったのです。
仲間たちが気味悪がって誰も手を付けない皿を前に、私の「料理人の意地」と「もったいない精神」が暴走しました。
「大丈夫だって! ちゃんと強火で炒めたんだから! 残したらバチが当たる!」そう豪語して、私は大皿いっぱいの炒り豆腐を、一人で綺麗に平らげてしまったのです。
結果は――惨憺たるものでした。
数時間後、凄まじい腹痛とともに激しい悪寒が襲いかかってきました。四十度近い高熱、止まらない激痛、そして上からも下からも容赦なく襲い来る嘔吐と下痢の嵐。完全なる食中毒でした。
雪に閉ざされた山寺で、のたうち回る私。もはや寺の手当てでどうにかできるレベルを超えており、急遽、あの「オンボロのケーブルカー」が緊急稼働することになりました。
意識朦朧とするなか、吹きすさぶ寒風に晒されながら、ガタゴトと軋む鉄のカゴに揺られて下山していく情けない私の姿……。
そのまま麓の救急車に運び込まれ、三日間の緊急入院となってしまったのです。
点滴に繋がれ、白い天井を見上げながら、私は猛烈な吐き気と恥ずかしさの中で身悶えしました。
「美味いものを作ってやろう」という慢心、そして「意地」で傷んだものを胃袋にかき込んだ愚かさ。
カメムシの襲撃と、腐った豆腐での自爆入院という二つの地獄。
穏やかであるはずの吉峰寺での日々は、自然の猛威と己の浅ましさをこれでもかと叩き込まれる、忘れられない冬の記憶となったのでした。
合掌
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
雪深き山寺の静寂、尋常ではないカメムシの大群、そしてオンボロリフトで下山した屈辱の食中毒事件。
どんなに環境が変わっても、足元をすくわれるのはいつも「自分の心の油断」なのだと痛感させられます。
次回は、そんな吉峰寺でのドタバタ劇を終えた私に下された、更なる急展開の転役命令!
山奥の雪景色から一転、生粋の田舎育ちの私を大都会は歓迎してくれるのか!?
乞暇(卒業)まで「あと四話」!




