第16話:温もりを消すための「罰の坐禅」――修行僧への再起動
家族の温もりを腕に残したまま、私は再びお山へと戻りました。
しかし、門をくぐった瞬間に待っていたのは、その「余韻」すらも許されない、静寂という名のペナルティでした。
前回、生まれて初めて我が子を抱いた感動をお話ししましたが、その天国のような余韻に浸っていられるのも、秋田にいる間だけのことでした。お山に戻る時には、逃れられない現実が待っています。
自坊から秋田駅までは、妻が車で送ってくれました。
夕暮れ時の秋田駅のホーム。
まだ生後四ヶ月の我が子の柔らかな頬に触れ、後ろ髪を引かれる思いで別れを告げます。
乗り込んだのは、寝台特急「日本海」。今は廃線となってしまいましたが、当時は青森から京都までを一本で結ぶ、旅情あふれる夜行列車でした。
窓の外に流れる秋田の景色を眺めながら、「もっと一緒にいたいな……」と感傷に浸っていたはずなのに、もともと寝つきが異常に良い私です。寝台のシーツに潜り込むと、電車の心地よい揺れも手伝って、翌朝の目覚ましが鳴るまで一度も起きずにぐっすりと熟睡してしまいました!
早朝六時頃だったでしょうか、電車は福井駅に到着します。
ここから永平寺線に乗り換えて向かうのが一番安上がりなのですが、電車の本数が少なく、時間の調整がなかなか難しいのですね。そこで、思い切ってタクシーを使うことにしました。
駅のタクシー乗り場へ向かうと、そこには黒い作務衣を着た、明らかに永平寺の雲水と分かる男性の姿がありました。お互いに顔を見合わせて挨拶を交わすと、なんと一つ上の「二年目」の古参和尚さん。自然な流れで、二人でタクシーに相乗りし、割り勘で向かうことになったのです。
(うわぁ……古参の先輩と同乗か……)最初は正直、気まずさでいっぱいでした。
ところが、その先輩も実家での里帰りを終えた直後だったからでしょうか。普段のお山のピリピリした空気とは打って変わり、驚くほど気さくでフレンドリーに接してくれたのです。車内では、初めての長期他出明けで不安だった私に、実践的なアドバイスまで教えてくれました。
「堂行寮への帰着の挨拶は、十五時までなら何時に行っても同じなんだよ。だから時間ギリギリまで自分の寮舎で体を休めてから行くといい。ただ、あまりにギリギリを狙いすぎて、駆け込み組の渋滞で間に合わなければ大変なことになるから気をつけてな」
その他にも帰着挨拶のコツを丁寧に教えていただき、予習していたとはいえ、現場のリアルな裏ワザを知れたことで、百あった不安が一気に三十くらいにまで軽くなりました。
先輩と談笑したり、長旅の疲れでウトウトしたり。車窓の外には、行き交うサラリーマンや高校生たちの通勤通学の日常が広がっています。
ぼんやり眺めていると、気をつけなければ自分が修行中であることすら忘れてしまいそうでした。
そうしてタクシーがお山へ到着し、堂行寮へ無事に帰着の挨拶を済ませた瞬間――穏やかな空気は一変します。
永平寺では、他出(外出)していた期間に応じて科せられる、一種の「ペナルティ」が存在するのです。 数時間の外出から数日の帰省まで、不在にしていた時間に応じて、「本堂への立ち入り禁止」や「数時間の坐禅」といった罰が機械的に科せられます。
「家族に会って心も体もリフレッシュしただろう? さあ、ここからは再び一人の修行僧に戻れ」
そう無言で突きつけられているような、厳格な儀式でした。
つい昨日の夕方まで、我が子の温もりを腕に感じ、寝台列車やタクシーに揺られていた自分が、今は冷たい畳の上で、ただひたすら壁に向かって坐り続けている。
そのあまりに急激な落差に、最初は戸惑いと未練で心が千々に乱れました。
「もっと秋田にいたかったな……」
「息子は今頃、ミルクを飲んでいるのかな……」
そんな想いが、頭の中をぐるぐると駆け巡ります。
しかし、不思議なものでした。鐘の音を聞き、背筋を伸ばし、数時間の坐禅を終える頃には、あれほど騒がしかった心はスッとお山の静寂に馴染んでいくのです。
温かな家庭という「生」の世界と、自分を律し続ける「修行」の世界。その二つの間を行き来しながら、私は少しずつ、どちらの自分も大切に抱えて生きていく術を学んでいった気がします。
「日常へ戻る」ということは、単に場所を移動することではなく、自分の心を再び「再起動」し、整え直すこと。冷たい壁に向き合いながら、私は「緩んだ心に負けないよう、残りの修行をやり遂げよう」と、静かに心へ誓い直したのでした。
……なんてカッコいいことを書きましたが、坐禅が終わった瞬間の本音は、「やっぱり家族のところへ帰りたい(涙)」だったことは内緒ですよ。
合掌
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
冷たい壁に向かって数時間、ただ坐る。一見すると冷酷なルールのようですが、あの時間があったからこそ、私は「父親」から「修行僧」へと、心を切り替えることができました。
次回は、これまで隠していた私の身体に迫る黒い影、とある病魔との闘いをお話しします。




