73「あとどのくらいで着くか、知ってます?」
窓のない閉じられた空間。かつての私の部屋でした。隅に据えられた机の横に、本が乱雑に積まれています。おかしいですね。央さんから整理整頓の概念を教わって以降、おねだりして買ってもらった本棚へ、縦に並べて収納するよう習慣づけたはずなのに。
本で出来た塔の頂上には、お母さんの部屋で最も時間を掛けて読み込んだ、社会人が数学を学び直すためのテキストがありました。懐かしく、同時に寒気がします。周囲を見回しました。暦を示すカレンダーを探して。
部屋の壁の向こうから、歌が聞こえてきました。耳を喜ばせる豊かな甘味に少しの苦悩を伴う、焦がしキャラメルのような声音。久しぶりであっても忘れようのない震動。壁を壊して「頑張ったんですね」と、彼女の頭を撫でてあげたくなる衝動に駆られます。
なのに、それをしたら囚われると、躊躇われてしまう。日付を確かめられない不安が、ますます大きくなっていく。
立ち尽くすばかりです。どうしたらいいのか、全然分からなくて。
「ミヤコ」
名を呼ばれて振り返ります。松柄さんがいました。こんな場所にいるわけがないのに。
でも、優しく笑っておられました。
「辛いよね。私が耳を塞いであげる」
差し伸ばされる彼女の両手。女性にしては大きな掌。
私は、無防備に頭を預けようとして──。
「あっ起きた」
すぐ側に、湯ノ原の横顔がありました。
全身で跳ね飛びそうになりましたが、夢の中と違って下半身は動きません。威力不足で、リクライニングチェア化させてベッド代わりにしていた車椅子から落ちずに済みます。しかし、湯ノ原からは落下しそうに見えたのでしょう、受け止めるための体勢を準備しておられました。ますます接近状態に。
厚い胸板、喉仏。男の子の匂い。緊張で筋肉が強張り、心臓がバクバクします。熱くて火照る。体が、まるで自分のものじゃなくなったみたいに動きません。思考も上手く纏まらない。私、どうしちゃったのかしら。
視界の影が薄くなります。「驚かせてごめん」と謝りながら、離れていってしまう湯ノ原。もっと近くに来て。なる言葉が、喉元まで出かかりました。慌ててキャンセルします。結局湯ノ原は、教室での会話距離ぐらいまで遠ざかってしまいました。ちょっと残念に感じます。
「おはよう。その、アイマスクが落ちてたから……。防人さんのだろ?」
寝起きにびっくりさせられたせいで、目はすっかり冴えています。窓の外はまだ青白く、夜行モードの灯りでは光量も十分とは言えないものの、差し出された何かが、湯ノ原の言う通りの物であることはすぐに分かりました。揺れで落ちてしまったのでしょう。装着に油断がありました。普段の私は、サングラスを掛けたままでも問題ないくらい寝相が良いので。
アイマスクをポケットに入れました。「おはようございます」と挨拶を返してから、尋ねます。
「あとどのくらいで着くか、知ってます?」
「予定時刻までは一時間半だけど、高速での運転ペースが上振れてたから、一時間も掛からずに到着すると思う」
湯ノ原がそう言うと、「鋭いね湯ノ原君」と、運転席の方から熊淵さんの声が聞こえてきました。
五月九日、石黒家の伝手で緋竜木を手に入れた私含む「ルナ・チルドレン」朧煙組は、早速、その産地である竜穂雲に乗り込んで調査しようと決めたのですが、問題はタイミングでした。非情なことに、ゴールデンウィークを貪った後の日本人に、甘美なる祝日はしばらくありません。学校に通っていないガンマはいつでも出動可能として、私とデルタはおサボりも吝かではなかったですし、盈さんも、仕事を放置してでも保護者として絶対についていくと言ってくださいました。しかし、顔繋ぎ役の御影さん、あとガンマが私欲で誘った湯ノ原に欠席を強要することはさすがに憚られます。どこかの土日で強行軍するか、夏休みまで待つかと話し合っていたところで、我々に朗報がもたらされました。
今学期の中間試験については、期間終了後の二日間(五月二十一日、二十二日)を休校日とする。
この二日間とは木曜日と金曜日なので、土日合わせて四連休となります。楽天家の野々島さんなど、テストの存在を見て見ぬふりして呑気に喜んでおりましたが、私は通知の誤りを疑いました。令和みたいな渋い時代に、そんな都合の良い休みが、対価もなしに降って湧くものでしょうか。
心配は杞憂に終わります。二日間の休校日はテストを頑張った生徒へのプレゼントではなく、石黒家の要請で、学校の敷地で地質調査が行われるために設けられたとのこと。地質調査とは、そう、朧煙に潜んでいた古代「月の使者」のユニット、黒大理石がどのように地下に張り巡らされているかの検分です。
御影さん曰く、我々の旅行スケジュールに関する悩みを知った黒乃さんが、試験という名の暗黒が去った後にまとまった休みが生まれるように、気を利かせて業者を手配してくださったのだということです。思わず石黒家の屋敷に向けて敬礼してしまいました。尤もその時、黒乃さんは石細工の作業場にいらっしゃったそうですが。敬礼無駄打ちです。
高校生活一発目の定期テストは、松柄さんの件など色々あったにもかかわらず、どうにかこうにか無事に乗り切れたと思います。まだ返ってきてないので、本当に無事かは分かりませんが、やらかしさえなければ赤点の出血はないと自負しています。終了か完了か完璧かなら、完了には喰らいつけてるはず。
世界史ですか? 野々島さんが食べました。
さて、朧煙と竜穂雲との間のアクセスは、端的に言ってクソ悪いです。下手に公共交通機関を頼ると、リアルタイム・タクティカルバトルゲームのコンマ秒刻みチャートよりも複雑な、しかも節々で待ち時間ロスが発生する手順に従わなければならず、冗談抜きで一日掛かっちまいます。車の使用が正解ですが、それでも十時間は見込まれるので、現地に長く滞在出来るよう、少なくとも行きについては夜間移動が選ばれました。試験が終わってすぐの夜、喜びと悲しみの涙が渇く間もなく、石黒家の方でレンタルされた夜行バスで午後九時頃に朧煙を出発し、一眠りを経て現在に至ります。
車椅子をリクライニングチェアモードから歩行補助ロボットに変えて(旅の同行人は全員秘密を知っているので変形が自由です)、朝のお花摘みを済まして戻ってくると、車椅子の固定に一役買っていた二人席の窓側に、湯ノ原が座っていました。ぐるりと車内を見回せば、デルタ、ガンマ、御影さんに盈さんの四人は熟睡しています。元の形に直した車椅子を、再び二人席に取り付けました。一人分空いた隣に、湯ノ原がいます。
バスが左折し、後ろの方から、ギシギシと音がしました。
「湯ノ原は早起きですね」
「二時間前には起きてたな。出発早々意識が飛んだから、六時間強は寝たぞ」
「ああ、だから高速での状況を知ってたんですか……、ふぁあ」
はしたなくもあくびをしてしまいました。慌てて噛み殺し、フローラルな香りがするフェイスシートで汗と一緒に眠気を拭い去ります。湯ノ原を軽く睨みつけ、忘れろと念を送れば、神妙な顔で頷かれました。
しばらくの間、自信がある数学系科目のテストについて、湯ノ原と解答の擦り合わせを行いました。中一から数えて三年も友達をしているのに、彼とこういうことをするのは何気に初めてです。眠気覚ましにマウントを取ろうと話題を振って、そして気づいたのですが、こいつ、私と同じか、あるいはそれ以上に数学出来ません? 返り討ちに遭った気分。こちとら勉強の取り柄は数学だけなのに。悔しみが深いです。
他の科目に飛び火しないよう細心の注意を払ったので、テストのお話は十五分程度で終息します。特に問題はありません。文芸部の文化祭準備についてとか、話したいことは山ほどありますので。
しかし、私が喋り始める前に、「唐突で申し訳ないんだけど」と、今度は湯ノ原からトピックが提供されました。
「防人さんたちは、振動を操る超能力について『月の力』、その保持者を『月の使者』と呼んでるじゃん」
「……? ええ、はい」
「魂風さんに聞いた時から、どうして『月』なんだ? って、ずっと引っ掛かってる。今のところ、防人さんたちの力から、月に纏わりそうな要素を何も感じないんだけど」
大真面目な表情で尋ねてくる湯ノ原。
あまりにも想定外な質問に、私は一瞬、ポカンとせざるを得ませんでした。




