70「まあ、好きにしたら? ベータたち、ちょうどそちらに行くみたいだし」
モンゴルのステップ高原に立つ、「ルナ・チルドレン」以外には認識出来ない高塔の背丈は、実に500メートルにも及ぶ。一方の横幅は25メートルと小さく、しかも、根本から頂上までほとんど均一だった。長年に亘る放牧と乾燥化によって固められた土壌に剣の如く突き刺さっているとはいえ、自由で横暴な高原の風に挑むには、構造力学の知見に頼るまでもなく無謀と言うほかなかった。たとえ風が無くても、わずかな不均衡で折れる形だ。また、長大なマッチ棒の側面には等間隔に十二の筋が並び、それぞれに無数の照明がびっしりと張り付いている。一見無意味なこの装飾には、塔が崩れる運命を確固たるものにしようとする、設計者の破滅主義でも投影されているのだろうか。
建設から半年が経った現在、塔は小揺るぎもせず、吹き荒ぶ風を裂いて厳然と立ち続けている。常識では考えられないはずの奇跡は、「発受信体」の自動防御機能をヒントにアルファとイータで作り上げた倒壊防止システム「永遠の三日月」により成立している。発生した破損現象を様々な振動の組み合わせでほぼ完璧に近似した直後、その逆を引き起こして修復する「永遠の三日月」は、塔の状態を高精度で維持することに成功している。
夢のようなシステムだ。ただし、起動させ続けるためには、「ルナ・チルドレン」の誰かが塔に残って「発受信体」の震動励起能力を供与していなければならない。また、逆転の対象となる破損は、あくまで近似されたものである。修復の度に生じる誤差は少しずつ蓄積し、やがて、倒壊に繋がる決定的な歪みになり得る。
定期的に塔を巡回し、各区画を設計図通りに構築し直す作業は、面白いとはまったく言えないものの、番人アルファにとって重要な役目だった。己は最上階に残ったまま、自身の血肉から培養して作り出した分身五体を操作し、仕事に取り掛からせる。分身たちは「発受信体」を持たないが、月の化身と呼ばれる子機の欠片を埋め込むことで、本体はそれらを出力の代理人として指定出来る。複数の生体アバター操作は彼女の十八番だ。
巡回作業はルーティーン化し、さしたる集中は必要なくなっていた。ガンマが作ったバーチャル空間で、一ミリでも身長を高く見せる余地があるかどうかを考える時の方がずっと真剣だろう。現在の彼女は、頭の片隅で五つの視覚を処理しつつ、運動不足を解消するためフィットネスゲームに勤しんでいる。
大型ディスプレイに、プレイヤーがなぞるべきモーションが、それなりの速さで示される。あたふたと真似するアルファ。素の運動センスがイマイチな彼女のステージスコアは、上振れすれば目標ラインにギリギリ届くぐらいの水準にある。プライドがガリガリ削られる。しかし、負けず嫌いを拗らせた彼女は、性懲りも無く中級ステージに挑み、微妙なスコアを取る。そうであっても、初級は見栄が許さなかった。
因みに、月の力は使わない。フェアではない。
「結果的に継続出来ているのなら良い」
「はぁ、はぁ……。なんか言った? ひいお爺様?」
「いいや。それより、つい先ほど、イオタから交信の申請があった」
「イオタから……? 寂しくなっちゃったのかしら」
アルファ側から申請を送ると、すぐに応じられた。「ごめん忙しかった?」と、姉を気遣う妹の声が頭の中に流れてくる。
「いいえ。見回りはしてたけど、すっかり慣れたものよ。で、どうしたのよイオタ。一人で掛けてくるなんて珍しいじゃない」
「聞きたいことがあって」「聞きたいこと?」
尋ね返す。軽い話ではないことは声音から容易に察せられた。図々しく、かつ欲望に忠実になったデルタからのお小遣い増額の具申や、勉強の内容や友達と行く場所、果ては夕飯のカレーに入れる具材まで気軽に尋ねてくるシータからの相談とは訳が違う。
ディスプレイの電源を落とした途端、ドロドロとした思念の波が、向こう岸から押し寄せる。
「ベータ姉様が軟弱になったのは、やっぱり荒屋盈のせいだと思う?」
ベータ。アルファは息を呑む。その名を聞くと劣等感が湧き上がる。彼女が力を示したあの日、月は自分を彼女の添え物にしたと感じた。
精神が引き戻される。実験の後、毎回決まって「ルナ・チルドレン」で集まっていた部屋に。天井から吊り下がったペンダントライトが強烈な光を放ち、小さなアルファの瞳を灼く。眼窩に鋭い痛みが走った。
所詮は幻だ。振り払って現実に戻る。
「ベータが、軟弱になった? どういう意味なのよ」
質問に質問で返す。イオタに発言の真意を問う。過去が唐突に流れ込んできて思考が掻き乱されたこともあるが、本気で訳が分からなかったのだ。アルファの中で、ベータという存在と軟弱という言葉の二つは、さそり座とオリオン座ぐらいには、並ぶ余地のない相反する概念だった──出会ったばかりの頃は、そうでもなかったかもしれないが。
「だって、昔のベータ姉様なら絶対に言わないんだもん!」
「はぁ? 何をよ」
「言ったじゃん! 私たちを王に導く力のこと、月なんぞのありがた迷惑って!」
怒りの生々しく渦巻く声音が、アルファの脳内をゴウと駆け抜けた。至近距離に柳眉を逆立てるイオタがいて、しかも耳元で叫ばれた心地がした。遊牧民主催の市場で買った牛鈴を鳴らし、鼓膜が破れていないか確かめる。
「ベータ姉様はそんなこと絶対に言っちゃいけないんだよ! 私たちの中で最も強く、最も美しく、最も月から愛された『月の使者』なんだから!」
「……っ」
「なのにベータ姉様は、まるで、只人が蠢く間違った世界を肯定し、守ろうとでも言うみたいに……、悍ましい! おいたわしやベータ姉様! あの人は変わった、変えられてしまった、歪まされてしまったの!」
イオタは続ける。
「だから私が、元に戻してあげないと」
アルファの皮膚がゾッと粟立つ。イオタは心底から嘆きながらも、同時に、ベータに手を差し伸べられることを悦んでいる。仄暗い感情は、透明な真水を侵す、スポイトより押し出された藍色の滴のようだった。
「えーっと。あなたは、ベータが『軟弱』になった原因が盈だと考えている」
「うん」
「ベータは月じゃない側に入れ込んでる。私も同意する。ベータをそういう方向に誘導したのが不肖の姉ってのもきっと間違ってないわ」
「だよね」
「……準備が整うまでは大人しくしていて欲しい。竜穂雲の使者様は曽祖父の師。こちらの計画もある程度把握されてるはず。現状維持で問題ないわ」
「だからこそ、少しぐらい離れても問題ないでしょ?」
日本から持ち込んだ数少ない品である椅子に座る。クッションの利いた背もたれに寄りかかりながら、アルファは悟った。これは相談の体を取った事前報告に過ぎない。
イオタは朧煙に赴いて盈を殺すつもりだ。腕を組む。アルファにとって、裏切り者の姉の生死など今更どうでもいいことだった。重要なのは、荒屋盈を殺害するメリットがデメリットを上回るかどうか。
盈を排除することでベータを更生出来るとは毛ほども思わない。あの女が月ではなく地に寄り添うのは強いからこそである。誘導はあったのかもしれない。でも間違いなく、彼女は自分で見て、自分で選び取った。ポジショニングすら覚束ないベータの姿は、アルファには想像もつかなかった。
ベータは月ではない側、そして強大な敵。いつか、正面から衝突する日が必ず来る。この見方は、イオタ含む他の「ルナ・チルドレン」には受け入れられないだろう。決定的な場面が来るまでは。
盈を排除してもベータは引き込めない。むしろ、敵対関係のエッジがさらに際立ちかねない。猛獣の怒りを不必要なまでに買い入れることはアルファも望まない。では、盈の殺害にメリットはないか?
アルファは笑った。計画が本格的に始動する前に、強敵の精神的支柱を壊す。
やる価値はある。
不意に、机上のスマホからバイブ音が鳴った。モンゴルの首都ウランバートルから西方に遠く離れたこの場所、アルタイ・サヤン地域やや北東寄りの辺境に、通信用の電波など届くはずもない。しかし、振動を自由に操る「ルナ・チルドレン」にとって、距離があるとはいえ、ウランバートルやエルデネトなどの都市で垂れ流される電波を引き寄せて利用することは、造作もない作業だった。
デルタからのメッセージが表示される。『ベータと一緒に竜田揚げに行くことになった』『間違えた』『竜穂雲』。あまりにドンピシャなタイミングだったために、アルファは目を瞠ってしまう。月が自分の結論をサポートしてくれているような気さえする。
ガンマの説明から、盈はベータの保護者を気取っていると察せられる。可愛い娘分の遠出を放って置けるわけがない。普通の高校一年生ならともかく、ベータの身体は、子機の欠片が脊髄下部と同化しているせいで下半身不随だ。無理をしてでもついていく。
「まあ、好きにしたら? ベータたち、ちょうどそちらに行くみたいだし」
大人しくして欲しいというつい先ほどの要望を綺麗に翻して、アルファはイオタに悪戯っぽく唆す。
「ただし、ベータにバレないようにね」




