68 前よりずっと豊かですから。満たされています
お母さんのモノで溢れるお部屋から、殺風景で綺麗な私の部屋がある新しい場所に連れてこられて、五日が経ちました。その頃にはすでに、来る前と比べて、体調が段違いに良くなっておりました。
埃が少なく生臭くもない空気、お母さんみたいな大人じゃなくても使いやすく滑らない洗面台とお風呂、詰まりそうな気配が微塵もないトイレ、サイズぴったりで動きやすい服、体に負担がかからず逆に取り除くベッド。食事は朝と昼と夕方、一日三回、規則正しく与えられると決まりました。それが常識的かつ健康的だからだそうです。早速実践されて、四六時中くっつきそうだったお腹と背中に十分な距離が生まれました。おかげで、少しのチャンスも逃すわけにはいかないと、睡眠中でも虫さんが近づいてきたら覚醒して食べる必要がなくなり、休息の質が大きく向上したのです。
また、しばらくの間、食事の際に食べ方の技法を教わることになりました。先生は、初日にも私をお世話してくださった女性の方です。お名前は央さんと仰るようです。彼女の眼差しは奥の奥まで、私への慈愛と肯定で色づいています。どうもこの人は、これまで太陽以外の光を浴びてこなかった痩せぎすでちっぽけな少女に不相応な期待を寄せておられるようで、すごく恐縮します。同時に、頑張らなければとも思います。
何せ、お母さんに対しても優しい太陽と違って、私を特別扱いしてくれるのですから。──この部屋は窓がなく、故に太陽は見られません。日陰にいた私にとっても、その豪気な天体の光は眩しく暖かかった。少しだけ残念です。しかし、厚い待遇に感謝こそすれ、不満は一切ありません。
「夕食は、あの部屋で摂ってもらうわ。四日前に、アルファちゃんとランチを食べた所なんだけど」
「え? はい、もちろん覚えてます。でも私、まだお箸を上手に使えませんよ」
央さんに向かって言いながら、寒い日の体のようにプルプルと震えるお箸の先で、鶏肉の唐揚げを摘もうとします。知っている料理でした。お母さんが食べていたお弁当の蓋によく登場したので。食べるのは初めてでした。虫さんにはわずかしかなかった風味の良い筋が分厚くまとまっており、それが、サクッジュワッとした衣に包まれている。三日前の夕食にも出てきました。脳が弾け飛ぶくらい美味しかった。
唐揚げがポロリと落ちます。つい力んでしまって、お箸を二本とも折ってしまいました。「またやっちゃったわね」と、央さんが肩を竦めます。彼女の心はお母さんと比べてずっと安定していて、いきなり感情を激発させたりしません。なので、安心して「ごめんなさい」と謝れます。
「謝らなくていいわ。普通の人間用の安物だもの。待っててね、ベータちゃんみたいな特別な子が力加減とか気にしないで済む、丈夫な食器を特注してるから」
「あ、ありがとうございます」
「それと、夕食にはアルファちゃんに加えて、朔一郎様も同席されるから」
「さくいちろうさま、ですか?」
知らないお名前でした。尋ねます。央さんは姿勢を正しました。
「私の祖父で、円ちゃ──アルファちゃんのひいお爺様」
「央さんは、アルファのお母さんなのですか?」
「いいえ。私はアルファちゃんの叔母に当たる人。つまり、アルファちゃんのお母さんは、私のお姉ちゃんなの。家族関係について、理解出来る?」
「はい。本に書いてありました。さくいちろうさまは、アルファのお爺さんの、さらにお父さんなのですね。アルファは先日の昼食で、ひいお爺様に言及しておりました。私たちは、はるか昔に特別な力で人を支配したという『月の使者』の素質を持っていると、そうひいお爺様に教えてもらったと。印象的な話だったのでよく覚えています」
「ええ、まさしく。あなたたちは月に選ばれた。そして、月に選ばれたあなたたちみたいな子を、『月の使者』の最終到達点『月嫡』まで育て上げるこのプロジェクト、『月嫡再臨』の土台を築き上げたお方こそ、荒屋朔一郎様」
央さんは、彼の名前を漢字で紙に書きながら、誇らしげに胸を張りました。私にとっても、荒屋朔一郎なる人は、「さま」付けで呼んで敬うべき方に思われました。月に選ばれた云々は実感が湧かずよく分かりませんが、私が目を掛けてもらって、こうして綺麗なお部屋で美味しい鶏の唐揚げを食べられるのは、朔一郎様のおかげだということは理解したからです。
アルファの話が出てきたのに託けて、彼女が所作の節々から漂わせていた気品をどうやったら出せるのか、央さんに問うてみました。「円ちゃんから、気品……?」と不思議そうに首を傾げられましたが、とりあえず、最低限のマナー教育なら出来ると言われ、早速受けさせていただきました。
マナー五大科目の一つ、言葉遣いに関してはまったく問題ないと太鼓判を押されます。他の四つ、挨拶・身だしなみ・表情・態度の望ましいありようについて薫陶を授かりました。
「あなたはいずれ人の上に立って、礼儀を尽くされる側に回る。でも、だからこそ、あなた自身が体で学ぶことに、必ず意味はあると思うの。円ちゃんにも伝わってくれたらいいんだけどねえ」
習っているうちに、アルファにあった「気品」の正体はこれじゃないなと感じるようになりました。彼女が放つ、例えるならば、読者に対する本の忠告的な文章に込められた念のような尖った波動は、外に付けられた飾りではなく、もっと内側にある何かが醸し出す凄みです。しかし、私如き世界の片隅で虫を食むちっぽけな虚像には、今の所、飾りしか強化手段がありません。央さんの教えを精一杯吸収します。
あっという間に、夕食の時間がやってきました。
広さ、家具の配置、光の度合い、どこを切り取っても表立って変な部分はなくて、にもかかわらずどこか不気味な部屋を再び訪ねます。扉が開いた瞬間、央さんは肩を跳ね上げさせて、背筋をぴっちりと正しました。
「さ、朔一郎様! お待たせして申し訳ありません」
「気にするな。前の用事が早く終わったのだ」
厚さと鋭さが親しく同居する、不思議な声音でした。
央さんに促され、朔一郎様の対面に座ります。彼は本当に、ひいお爺様と呼ばれるくらい歳が行った老人なのかと、私は疑いました。本は言います。人には寿命がある、世の摂理だと。命の終わりに近づくにつれ、大人は衰えていく。事実、お母さんの部屋の周囲で見た、お母さんよりずっと年上と見られる人たちは、皆々、肉体の至る所を弱らせておりました。
しかし、目の前の老人は、己を強く保ち続けています。もちろん衰えはあるのでしょう。けれどなお、生命力が溢れている。
彼の椅子に立てかけられた、艶めく緋色の杖に強烈な違和感を覚えるほどに。
朔一郎様は、手に取ったガラスのコップから中身を飲み干します。喉を湿らせるためだったのでしょう。声が一段マイルドになります。
「香月瑠奈。いや、ベータ」
呼びかけられました。緊張しますが、無様を晒すわけにはいきません。視線を合わせます。
「ここでの生活に不足はあるか」
「いいえ、まったくありません。前よりずっと豊かですから。満たされています」
「それは良かった。しかし、新しく欲しい物が出来たら遠慮せず言いなさい。用意出来る物なら必ず用意する」
咄嗟に首を横に振って断ろうとしました。当然です。小さくて弱い私には、世界にモノを要求する権利はない。しかし、朔一郎様に手で制されます。
「遠慮するには早すぎる。直に選定が済み、君には仲間が出来る。他者との交流、実験を通じた数々の経験は、君という存在を否応なく変えるだろう。更新された君には、新しく欲しい物、あるいは必要な物──それまでは意識もしていなかった、埋めなければならない余白が見えてくるようになる。……例えば、前までの君に箸は必要なかったはずだが、央やアルファと接した今なら、どうか?」
問われました。答えはもちろん、言うまでもありません。
超然とした、現世から隔絶したような空気を纏う朔一郎様。ですが、親身になって私の立場に立って、そして、私よりもずっと高い視座で道案内をしてくださいました。
大人に、真の意味で手を引いてもらった心地がしたのは、生まれて初めてでした。
「アルファはまだ来ないのか?」
「たった今、雁木から連絡が入りました。『発受信体』を使いすぎて気絶していたらしく、十五分ほど遅れると」
「相変わらずお転婆だな。血気盛んなのは、悪くない」
「あの」
朔一郎様の庇護下では、卑屈にならなくてもいい。私は、先ほど胸に抱いた引っ掛かりを、素直に言葉に出すことにします。
「朔一郎様は、まだまだご壮健でいらっしゃるように見えます。歩行に問題があるようには思えません。どうして杖をお持ちなのですか?」
「これが気になるか?」
彼はゆったりとした動作で、自身の椅子に立てかけていた緋色の杖を掴み、胸辺りまで持ち上げました。すると、杖の先がぐにゃりと伸びて、机の端に置かれていたウォーターピッチャーに絡み付きます。運ばれ傾けられたそれは、ガラスのコップにお茶を注ぎました。
呆気に取られた私は、ポカンと口を開くばかり。いくら何でもあり得ない。地球の法則に反した光景でした。
堅そうな口元を緩めつつ、朔一郎様は言いました。
「体を支えるための物ではない。進化した孫の手という程度の道具だが。いつか君にも、似たような、あるいは、さらに優れた芸当が可能になる。まあ、足の指で箸を扱う繊細さは要るがね」




