67「エレファスゾウカブトとか、個人的にはグッとくるフォルムをしてると思います」
最後部に取り付けられた車椅子からは、窓通る陽の光を鬱陶しがるデルタの頭が見られます。綺麗にセットされた髪には円形脱毛症の兆候すらなく、特に面白味はありません。朧煙駅横の踏切を越え、商店街南門の前で車がターンし、デルタの姿勢が正常に戻りました。ふと、一時停止する車特有の慣性を感じます。
遠くの雷みたいな音を立てて、右側のドアがスライドしました。乗り込んできたガンマに向かって、「待てば自動で開きましたよ」と教えてやります。バツの悪そうな表情が返ってきました。車はすぐに再発進します。
目的地に着くまで十分もないにもかかわらず、ガンマは電子書籍専用の中型端末を取り出して、読み物を始めました。サッササッサと画面をスワイプしていきます。文芸界隈では古来より賛否両論ある読み方、速読です。
尋ねます。
「何を読んでらっしゃるんです?」
「海外産含むカブトムシやクワガタの、飼育方法に関わる本」
「へー。飼うんですか? エレファスゾウカブトとか、個人的にはグッとくるフォルムをしてると思います。大地を踏み締める足の甲みたいで」
「僕じゃないよ。急にイータが相談してきてさ。卵か幼虫から育てたいって」
「イータが?」
予測もしていなかった七番目の「ルナ・チルドレン」の登場に、ついキョトンとしてしまいます。先日のバーチャル集会では彼だけ顔を見せませんでした。その欠席を指摘すると皆が気まずげに目を逸らした場面は、鮮明に記憶されております。もはや、しばらくぶりのお姉ちゃんの前にはお出し出来ないレベルでグレてしまったとしか考えられません。そして、カブクワを卵か幼虫から育てたがる目的は、無邪気な鑑賞ではなく成虫の高額販売です。道の駅の隅っこで手持ち無沙汰のガキを誑かし、親から渡されたお土産用のお小遣いでカブクワを買わせる兄ちゃんの姿が脳裏に浮かびます。そいつはきっと、ヘラクレスオオカブトの羽みたく燻んだ金髪の、イケ好かねえ不良青年です。
「くっ……。更生の余地はなさそうですね……」
「ん? よく聞き取れなかった。もう育成の余地はなさそうって? 確かに、卵から始めるには夏に間に合わないんだけど、二、三齢の幼虫が買えたなら、まだ挽回のチャンスはあるよ! 僕たち自身の手で、より逞しく羽化させる余地が!」
張りのある若々しい声で、ガンマはそう言いました。こちらからは見えませんが、正面に回ったら、円な瞳がキラキラと輝く少年と相対することになるでしょう。イータからの相談をきっかけに、彼自身が、華々しい武器を持つメタリックな甲虫たちに沼りかけていると推理されます。不純な金銭動機でカブクワに手を出そうとしている(作者注:防人都の妄想です)イータとは裏腹に、ガンマは、ピュアピュアハートで飼育を始めそう。
デルタがふぁあと、興味なさげに欠伸をカマします。
ふと、教室の机を囲んで最強のカブトムシやクワガタを談義する、男子たちの姿が思い出されました。皆、半袖に身を包み、人によってはズボンの裾を膝まで捲り上げるという破廉恥な格好をしております。夏の活気がここ朧煙の高地すら覆い出す、七月の期末テスト前。中一だったか中二だったか、それは覚えていませんが。
群れの中には湯ノ原もいて、彼が候補にあげたのが、エレファスゾウカブト。
「やっぱり湯ノ原も、カブクワ好きなんですかねぇ……──っ!?」
半ば無意識の呟きでした。振り返ったデルタとガンマが、私をじっと見つめてきます。どういうわけか、腹の底からじわじわ恥ずかしさがこみ上げてきて、頬がジュワッと熱されます。大多数がカブクワに悪い感情を抱いていないだろう男子の中で、なぜ急に、湯ノ原の選好だけを気にしたのか? 側から見れば不自然な言行でした。言い訳を述べようと、舌を痙攣させます。
おい、いつもはグルグル回る口、今になって怠けるんじゃない。
「湯ノ原って、零時くんのこと?」
尋ね返してきたガンマの台詞に、恥掻き人を慮ってスルーを決め込む際に発生する、あの独特の間はありませんでした。少なくとも彼には、私のポンコツ化はバレなかったようです。願わくばデルタもそうであって欲しいところ。明るい部屋で真正面から見つめ合っていたわけでもなし、直前まで運転手席の方角を眺めていた彼女が、後ろに座る私の細かな羞恥の機微に気づくのは難しいはずです。
デルタ側に上半身を寄せながら、答えます。
「はい、彼の名前は零時です。私たちと同じクラスなんですよ」
「そうなんだ。羨ましいな」
「実験の前は朧煙に住んでいたんですよね。お知り合いなのですか?」
「うん。昔よく遊んだ友達だ。十年分も変わった僕を、零時くんはすんなり見つけてくれたんだ。嬉しかったなあ」
しみじみと呟かれた言葉は、水を吸った布みたく重たげな感激に溢れ返っていて、耳がちょっとびっくりします。さながら、日光に飢えた地下生活者の、青空に輝く太陽への賛美。
知りたくなります。ガンマが私だったら、湯ノ原は見つけてくれたのかしら。
もし見つけてもらえなかったら。
石黒邸裏手の駐車場に車が到着したのは、言いようのない不安に駆られたすぐ後のことでした。大きく開かれたバックドアから、運転手だった熊淵さんと助手席にいた盈さん、二人の手で降ろされます。駐車場から見ると、古代「月の使者」の【月ヶ邑】を象ったらしき庭がある表口は遠く、近くの簡素な扉から屋敷にお邪魔します。
「ベータの推測通り、零時くんはカブトムシもクワガタも好きだろうね」
客間に通されました。ソファに座ったガンマが、再び口を開きます。車中で行った会話の続きというか、私の恥ずかしい独り言に対する、真面目な回答のようでした。聞かざるを得ません。
「零時くんはきっと、死ぬまでカブトムシとクワガタに魅かれ続ける男だろうね。森の賢者をやめる特別な理由がない限りは」
謎の例外的条件がボソリと付け足されました。意図が分からず困惑します。とりあえず、森の賢者って? 一般的にはオランウータンを指す言葉ですが、ゴリラをそう呼ぶ人もいます。そして、湯ノ原にはこの可愛い私をゴリラ呼ばわりした前科があるのです。
ムカつきますが、元はと言えば私の過失。モヤモヤが始まります。力加減を誤って曲げてしまった鉄棒を慌てて元に戻す、そんなお茶目な私の姿が、一部始終目撃されてしまった。あのファーストインプレッションが原因に違いありません。どうにかして、どうにかして湯ノ原の記憶から、鉄棒曲げの場面だけ都合良くカットしたい。しかし、私の月の力では、そういう器用な干渉は出来ません。イプシロンならイケると思いますが、あのクズ野郎に借りを作るのは……。
「ようこそおいでくださいました、防人様。カブトムシとクワガタのお話をなさってましたね。ひょっとしてご入用ですか?」
にゅっと現れた御影さんから挨拶を受けて、「へっ!?」と間抜けに叫びます。足が自由であれば、ヘディングシュートを決める全盛期ロナウド並みに飛び上がっていた可能性があります。純粋な力と技のみで重力に喧嘩を売る雄々しき足の靴下に、手を滑り込ませたい。
「えっと、私ではなくイータとガンマが。ああ、イータとは我々の弟分で」
「うん、そうなんだよ。イータから、卵か幼虫から育てなくちゃいけなくなったんだと、一昨日になって突然言われて。随分と切羽詰まった声音で」
当事者のガンマが引き継ぎました。
人誑しな微笑みを浮かべて、にっこり頷く御影さん。ビードロのような光沢を漂わす長い黒髪が、ゆらゆらと弾みます。
「なるほど。石黒の係累に甲虫ブリーダーを営む家がありますよ。朧煙の土は有害なカビが生えにくいそうで。連絡を取ってみましょうか?」
「いいの、御影さん? ありがとう! すごく助かる!」
和服美少女のあどけない仕草に対し、何ら浮ついた反応もなく、ガンマ少年はひたすら素直に喜びと感謝を示しました。頭の中がカブクワでいっぱいのようです。
こいつこそ死ぬまで好きなのでは? カブクワが。
机にあった和菓子のお皿が、へっぽこ使用人夏端さんによって端にどけられました。琥珀糖をヒョイパクしながらです。加えて彼女は、お皿に気づかずお菓子を食べ損ねたせいで妬ましげなデルタに向けて、あたかも見せつけるかの如く、もう一口いきました。安定のダメイドっぷり。
「さて、祖父は用事がありまして顔を見せられませんので、本日は私がご対応させていただきます。──こちらが『竜穂雲』の緋竜木でございます」
お皿に代わって置かれた物は、淡い緑の和紙を纏う、重厚な雰囲気の貼り箱です。玉手箱には敵わないものの、勝手に開けてはいけないアンタッチャブル感が演出されておりました。しかし、夏端さんが蓋を開けます。えいやとばかりに。
箱の中には、染められず、ありのまま、細胞から深い朱色を放つ、神秘的な木の枝が収められていました。




