65「ベータ姉さまに、目を覚まして欲しいなぁ」
荒屋朔一郎が古代「月の使者」の残滓と出会ってから六十年近く経過し、プロジェクト「月嫡再臨」が満を持して始められたその時、招集された「ルナ・チルドレン」の末妹イオタは、わずか三歳の幼さだった。物心がついたのは実験施設の中。意識的に遡って探れる最初の記憶は、一緒になって丸を囲む、自分と同じ境遇の姉兄たちの姿。直接言葉を交わすことはなかったが、最年少の子供として気にかけてもらえている感覚はずっとあった。遠隔交信を覚えてからはそれが顕著になり、日々の実験で好成績を取るためのアドバイスに、最も頻繁に恵まれるようになった。
イオタは小さい妹として、姉兄たちから愛されていた。彼女もまた、無償の愛を注いでくれる、優しい姉兄たちが大好きだった。
しかしそれでも、彼女にとっての最初の愛は、母親からのものだった。
◇◇◇
竜穂雲は、林業で成り立つ田舎町である。十二歳のイオタは、そこの小さな中学校に、転入生ではなく新入生として入学した。同学年の生徒数は、彼女を除いてたった四人だけ。入学式の参列者は、どれほど多く見積もっても三十人に満たなかった。ネットで事前に調べた時に見た評判は、「他で取れない美しい木材が高値で取引されるために羽振りが良く、都市部から離れたド田舎にしては町としての体裁が保たれている」。保たれていないじゃないと、彼女が怪訝に感じるのも無理はなかった。再度調べ直してみると、その情報は2009年──彼女がまだ影も形も存在していない、十七年も昔に書き込まれたものだった。
イオタが中学校で名乗る名は二乃前藍。別の学校に散らばった他の五人と同様に、シータに付けてもらった偽名である。シータに由来を尋ねると、イオタ(ι)はアルファベットのiに相当するギリシャ文字で、下の名前はその当て字に、そして、Iはローマ数字で1だから苗字は「2の前」にしたと答えられた。ついでに、「愛」ではなく「藍」にした理由は、あんたのソウルカラーがそう、と力強く返された。
藍の深みを知るほど大人ではないイオタは、内心でかなり凹んだ。姉兄たちに甘えられない剥き出しの自分は、引っ込み思案で暗い女なのだと見抜かれたようで、少し憂鬱になった。
事実として、イオタは、ここ竜穂雲で幼い頃から絆を育んできた四人の同級生たちと上手く打ち解けられずにいた。──外から世界をメタ的に俯瞰すると、これには仕方のない事情があった。詳細は語らないが、男一人女三人の狭く歪な交友関係の間で紡がれてきた唯一無二の物語にとって、二乃前藍は脈絡なく投入された異物に他ならなかったとだけ言っておく──少なくとも、アルファ、ガンマ、デルタ、ゼータ、イータの五人には乗り越えられない壁だった。尤も、それを知る由のない彼女は、一ヶ月以上経っても、たかが只人のクラスメートと碌に仲良くなれない己の不出来を恥じた。姉兄の庇護がない、剥き出しの自分の矮小さに打ちひしがられながら、疎外感を募らせていった。
「先生さよなら」
「バイバイ藍ちゃん。また明日」
同級生四人による、部外者は関わらないで欲しいという祈りにも似た拒絶を背中に受けながら、イオタは足早に教室を去る。
町の外れにある中学校は、周りのほとんどが木々で覆われている。校門を出てからしばらくは、枝葉が風にざわめく林道を歩くことになる。こまめな間伐が行き届いた林には、それなりに低い所まで日光が染み渡る。暗い印象を抱かないのはそのおかげだ。担任の先生によると、数年前まではもっと鬱蒼としていたらしい。森林の適切な管理によって二酸化炭素の吸収量を増やせば、温室効果ガスの実質排出量を減らしたい企業が吸収の増加見込み分を買い取ってくれる、J-クレジット制度というものがある。近年になって竜穂雲の町役場が私有林単位での制度の利用を推奨し始めてから、土地の所有者が張り切って茂みを整えたらしい。「矯正」された林には、ある程度の視界が担保される安心感と、木立の隙間に伴う不気味さが混在している。
イオタはその「矯正」を、快く思わなかった。強者である「月の使者」が世界を支配するべきだ。そういう安直な思想をすんなり受け入れてしまう程度には、彼女には自然派の素質があった。植物の楽園にこじ開けられた人工的余白には違和感しか覚えない。人の手が入ったが故の調和に目もくれず、彼女は林道を抜ける。
木材の集積場が視線の先に捉えられるようになると、見通しは急速に良くなり、やがて、だだっ広くぼんやりとした空の下に落ちる。コンクリートで舗装された道に沿って行けば、(都会とは比べ物にならないほど疎らなものの)建物が集まる町の中心部に辿り着く。しかし、イオタの住居はそちらにはない。路面処理が為されていない、荒れた小道に逸れた向こうの、ぽつんと佇む一軒家こそ、今の彼女が住まう場所。月の力でリフォームした空き家。
自宅に近づく度に、歩を刻むリズムのペースとテンポが上がる。
姉兄と離ればなれになったばかりの頃より、ずっと滑らかに、柔らかに。
息苦しい教室から解放された喜びが、最高潮に達する。踏み出した足が勢いよく砂を飛ばす。ミュージカルのお姫様みたく、歌って踊りながら扉を開けた。
「ただいま!」
帰宅の挨拶を告げる。同じ屋根の下に暮らす、愛しい人に。
「ママ!」
「おかえり、楓奈ちゃん」
呼びかけられた名前は、イオタでも藍でもない。
楓奈。妙にしっくり来る響きは、記憶も定かでない赤ん坊の時分、暖かな愛が一杯に込められていた、音の宝船。生命を祝福された証。イオタのような識別番号や、二乃前藍のような偽名とは違う、正真正銘本当の名前。
短い廊下を抜けて、イオタは、居間の隅に荷物を置いた。台所で作業する女性の背後に忍び寄ると、彼女は刃物を扱っている。甘えたかったけど、急に抱きついたりして手元を狂わせたら大変なことになるかもしれないと彼女は我慢して、ダイニングテーブルの椅子に座った。
少しして女性が振り返る。イオタとそっくりの面差しは、血縁関係を確信させるには十分だった。今年で十三歳になる娘の母親にしては若々しい容姿だが、この人が自分のママだと、イオタはまったく疑わなかった。
母が笑顔を浮かべた。娘も笑みを返した。
「夜はシチューよ」
「にんじんと玉ねぎは?」「細かくみじん切り」
「さすが、分かってる。アルファ姉とかゼータ兄とか酷いんだよ。切り方、ホントに大雑把なんだから。手つきが不器用な人たちだから仕方ないかもだけど」
「ふふ、ママなら野菜を切る作業だけ取っちゃうけど」
「当番制だったから。そこはきっちり分けないと、ってガンマ兄が言ってた」
「しっかり者のお兄ちゃんがいて良かったわね」
夕食の仕度に戻る母の後ろ姿を、イオタは繁々と眺める。高振動の斬撃に特化した彼女の月の力なら、食材の下処理など朝飯前だ。しかし、母が進んで買って出てくれた役割を、彼女は奪おうと思わなかった。
十日前、一人で暮らすイオタの元に、その女性は突然現れた。自分を大人に成長させたかのような風貌を持つ人物との邂逅に、未来の自分がタイムマシンに乗って、何か悪いことを警告しに来たのではないかと、内心ドギマギした。
訪れた女性の双眸から涙が溢れる。イオタはますます困惑した。泣く女性の震える両手で、硬直する体を抱きしめられた。拒絶しなかった自分に対する驚きは、心の奥底から湧き上がる、じんわりと温かい熱によってたちまち追い払われてしまった。
「……ママなの?」
抱きしめる力が強くなった。それが答えだった。
次いで、女性は「ごめんね」と謝罪を繰り返した。か細く弱々しい声音は、罪を自覚し己を責め続けた者の、際限のない後悔で埋め尽くされていた。肩の布に涙が滲む。親の義務を放棄したことについて、この人は詫びている。イオタは怒りを覚えなかった。三十にも満たなそうな若さから、母が自分を産んだのは、今の自分とそう変わらない年頃だったはず──事実、彼女の推測は間違っていなかった。のっぴきならぬ事情があったのだろうと察した。
イオタはギュッと抱きしめ返して、切なげに「ママ」と呼んだ。
不自然な余白が一つ、正しく埋められた気がした。
未だ慣れぬ竜穂雲の地、友達は一人もいない。でもママがいる。
「そう言えばガンマ君、今日から朧煙で暮らすんだっけ」
シチューに浸した米を美味しそうに頬張るイオタへと、母が尋ねかける。イオタは食べる手を止めて、頷いた。
「うん。羨ましいなぁ、ガンマ兄。ベータ姉さまといつでも会えるなんて」
「いつでも会えるのは、デルタちゃんもじゃないの?」
「デルタ姉はすっかり図々しくなっちゃって、対応がめんどくさいんだよ。まあ、しばらく会えないとなると寂しいんだけど」
「……ママ、ガンマ君とデルタちゃんの二人、ちょっと心配してるのよね」
「なんで?」
「朧煙には盈さんがいるでしょ? ベータ様の意思を、『月の使者』じゃない普通の人にとって都合の良い方向に操ってるって言う」
ステンレス製のスプーンが、少女の筋力ではあり得ないはずの万力で握り締められた。無惨に屈曲する金属の柄。
荒屋盈。イオタは心の中で、その名を憎々しげに吐き捨てる。
四月中旬の日曜日、ガンマは朧煙に入って、「月嫡再臨」中断後におけるベータの来歴を聞きつつ、現在の彼女のスタンスまで割り出した。
彼曰く、ベータは保守的な平和主義に傾倒しており、「月嫡」まで進化した「ルナ・チルドレン」を頂点に据える新たな世界秩序の構築には確実に反対するだろう。彼女一人の反発ではどうにもならないくらいにステージが進行するまで、プロジェクトの目的は隠しておいた方が良い。報告を受けて、アルファはシータと一緒に、保守的な平和主義者にウケそうな嘘の活動理由をでっち上げた。それが、先日のヴァーチャル会議でベータに伝えたものだ。
実に不愉快で、下らない嘘だった。イオタはギリリと奥歯を鳴らす。
自分たちのような犠牲者を、これ以上増やさないための調査? 冗談じゃない。私たちは、月から祝福された強者なのに。アルファが簡単に語った理由にベータが喝采を送った時、イオタは瞬間的に交信網を抜け出し、自室で発狂した。
誰よりも強く気高く美しい、地上に降りた月の女神、ベータ姉さま。
古代「月の使者」様相手に「月童」のまま勝ちをもぎ取れる、あなたほどの傑物が、どうして。
ガンマの話によると、ベータが足の自由を失ってからも朗らかに生きてこられたのは、荒屋盈が側にいてくれたかららしい。その名を聞いて、アルファは次のように補足した。曽祖父の方針に逆らって追放された、一族の恥晒し。
ベータ姉さまに熟れて腐った果実のような平和ボケした思想を植え付けた碌でなしは、荒屋盈。イオタはそう結論づけた。
「ガンマ君もデルタちゃんも、盈さんの悪い影響を受けないと良いけど」
「あの二人は、大丈夫だよ。ちゃんと警戒してる。ポッと出のゴミなんかに翻弄されたりしない」
「ママだって警戒してた。でも騙されて、楓奈ちゃんを手放す羽目になった」
「っ……」
母の台詞に、頭の中が真っ白になった。ややあって思考を取り戻し、少しだけ逡巡してから、イオタはある決意を固めた。
「私、ガンマ兄とデルタ姉を守りたいな」
剥き出しの自分にも、月の力に相応しい心が備わっているのだと。
「ベータ姉さまに、目を覚まして欲しいなぁ」
末妹の自分にも、「ルナ・チルドレン」を庇護れるのだと証明する。
荒屋盈を始末することで。




