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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第十三話 月光 伸ばす黒影

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 五月になると、雲がなければ、日中の気温はかなり高くなり得る。

 その日の「笹降(ささふらし)」は夏日だった。広い田畑の真ん中には、用水路が地を突っ切って流れている。遠くの山を源とした雪解け水が混ざり込んでいるにもかかわらず、太陽の光を浴びて水温は程々に上昇した。やがて、用水路に住むドジョウにとって、活動に最適な温度に達した。慎重な性格であるはずのドジョウも、少し気が大きくなったらしい。拠点にしている人の拳くらい大きな石の陰を離れる。ほっそりとした体をくねらせ、捕食者に発見されないように、水中をゆっくり進む。冒険の甲斐あって、彼は、底の砂泥が柔らかい、水草が豊富な場所を見つけた。ドジョウの繁殖に打ってつけのポイントだった。しかしまだ時機ではない。大人しく、住処にまで引き下がる。


 ドジョウが家と定める石ころの真上には、武骨な橋の落下防止柵がある。少年イータが学校からの帰りにその橋を通りがかったのは、ドジョウの帰宅とほぼ同じタイミングだった。

 イータはバッグから紙パックを取り出した。白色の柔らかい窪みにストローを挿す。胸ぐらいの高さの柵に、腕の肘から先でもたれかかった。右手の親指と人差し指で紙パックを固定し、自販機の商品にしてはやたら風味の濃いバナナ・オレを口に含む。そしてしばらく、景色のとある一点を眺める。笹降に移ってきて以来、晴れの日は欠かさず行っている儀式だ。

 田畑広がる平野の先には峠がある。その頂上に目を合わせる。

 一週間ほど前から、イータは自分が見つめる地点において、古代「月の使者」の気配をようやく掴み始めた。コンタクトを取るために、彼は「発受信体(ラジオ)」に念じて合図となる振動を送った。反応はあったが微弱だった。自分が担当することになった古代使者様は、朔一郎様が力を得るきっかけとなったお方と違って、深く眠っておられるらしい。さもありなんと思う。肉体を失い地に縛り付けられて幾星霜、思考を揮発させずに保ち続けることはとても難しいだろうと、彼は推測していた。

 月の力は特別だが、心の強さには作用しない。「月の使者」だからと言って、悠久の時の流れをねじ伏せる精神強者とは限らない。例えば自分なぞは、たった一人を喪っただけですべてを投げ捨てたいと願ったほどには、弱かった。

 今日も信号を発する。返答は頼りなく、明確な意思は感じられない。古代使者がいるという確信がなければノイズとして処理したかもしれない。しかしイータには、一昨日より昨日、昨日より今日と、ほんの少しずつではあるものの、ソレに形が定まってきているという実感があった。ただし、その形はまだ脆く、無理に叩き起こそうとしたらきっと壊れてしまうという直感もある。時間はまだたっぷりあるのだ。だから、慌てずゆっくり呼び掛け続けようと決めた。

 彼はこう考えていた。より完全な形で復活した古代「月の使者」は、より大きな力となってくれるだろう。只人たちの集合的無意識を土台とし、ベータに新たなる月の女神として地上に再臨していただく、自らの望みを叶えるための、より大きな力に。


「……でも、今の僕のやり方って、もしかしたら非効率かもな。矢窪センセイなら、地中に対するもっと良い働きかけを──」

「ヤクボ先生って誰? ウチの学校、そんな先生いたっけ?」


 横から突然話しかけられても、イータはあまり驚かなかった。ただ、隣に立つ少女に向かって、「岸虎」と苗字を呼びかけるだけにとどめる。

 転入先のクラスメート、岸虎芙美の通学路は、イータのそれと途中まで同じだった。用水路に架かる橋で一人もたつくイータを見ると、必ず声をかけてくる。最初のうちは、知人を放っておけない、お節介な(たち)なのだろうと分析していた。しかし、クラスの雰囲気に馴染むに従って、どうも違うらしいと考えを改めた。岸虎は、元々のクラスメートとはまとまったコミュニケーションをほとんど取っていない。孤立はしておらず、クラスに五人いる女子のグループ遊びには必ず加わっている。ただ、やり取りの密度がどことなく低い。昔からそうなのだろうということは、周りからの「良い子だけどよく分からない子」という評価から簡単に察せられる。

 にもかかわらず、転校してきたばかりのイータには何かと世話を焼き、親しげに接する。おかしな(・・・・)噂の流布は、超常たる月の力を持っていても抗えない事象だった。的になった双方が茶化される度に否定するため、「半ば公認」の状態にはまだ至っていない。

 岸虎の横顔を伺う。彼は思う。彼女との縁が視認出来たとしたら、こんがらがって小さなダマになってしまった部分がある。それは恐らく、これから増えていくのだろうと予感した。ややこしくなってきて辟易とする。とはいえ、岸虎を無視することは憚られた。自身の無愛想さは弁えている。それでもさほど苦労せずに短期間でクラスに溶け込めたのは、岸虎が初日から熱心に構ってくれたおかげだ。恩を仇で返すような真似はしたくなかった。


「理科の先生。前に通ってた学校の」


 ふと名前を呟いてしまった人物の正体について、彼はそう誤魔化した。荒唐無稽な誇大妄想と笑われるのがどれほど確実だったとしても、「僕たちの世界征服計画に協力してくれている大学教授」なる、ありのままの真実を告げようとは思わなかった。

 岸虎は軽く頷く。彼女の検知機能にイータの嘘は引っ掛からなかったらしい。


「地中に働きかけるとか言ってたけど。庭弄って野菜でも作るの?」

「いや、そういうわけでは」

「私のお家、おじいちゃんが腰やってから遊ばせてる土地があるよ。かと言って、おじいちゃんは生きてるうちに放棄するつもりはなさそうだし、勿体無いんだよね。鉤束くんの家の方角に広がってるんだけど」

「いったい僕に何をしろと!?」


 藪から棒にとんでもない重荷を背負わされそうになった心地がして、鉤束(イータ)は肩を跳ね上げさせた。飲み掛けの紙パックを川に落としそうになる。空の左手で反射的に押さえた。安心した途端、脳の無意識的な領域で、トラクターに乗って土を耕す自分の姿を想像する。次に呆れの感情が浮かんだ。自分はまだ14歳の子供だ。免許は取れない。いいや待てよ、笹降中学校に転入するため「鉤束幻弥」の戸籍をでっち上げたのと同じ要領で、年齢くらいいくらでも偽造出来るじゃないか。悪戯心が密かに疼く。それはやがて自尊心に変わる。そもそも、月の力があれば、耕作に角張った機械は要らない。

 岸虎が嬉しそうに笑う。


「案外向いてるかもって顔してる」

「……まさか。そんなわけないだろ」

「その気になったらいつでも言ってね。鉤束くんみたいな若くて有望な子になら、農地バンクを介してだけど、おじいちゃんも実質無料の地代で貸し出してくれるはず。多少の修行期間ののち」

「多少の修行期間ののち」


 不穏な語調で付け足された最後の部分をおうむ返ししてから、イータは再び帰路に就く。岸虎はすぐ追いかけてきて、一メートル半ぐらいの距離を取りつつ彼の隣に並んだ。


「農業ライフが目的じゃないなら、どうして地中に働きかける必要があるの? カブトムシかクワガタを屈強に育てたい感じ?」


 イータは眉を顰めた。まだその話題を引っ張るのか。うんざりしたわけではなく、驚き訝しんでいた。一つのトピックに拘泥する岸虎を見るのは初めてだったからだ。家が農業を営んでいると、地中、つまり地面の中身との付き合い方は、日常的に重要なテーマとなるのかもしれない。


「強いカブトムシ、強いクワガタ。とても良い響きだぜ。甲虫同士のバトル動画がSNSで流れてきたら、つい見入ってしまうよな。前から憧れてたんだ」

「えっ、ホントに育てるカンジ!?」


 目をキラキラさせる岸虎に、イータは意味深な笑みを返した。

 彼女は明確な答えを求めている。もちろん本当のことは言えない。それっぽい誤解を固めてしまって追及をやめさせるが吉と判断したが故の行動だった。

 彼は即座に、浅はかな己の選択を後悔する羽目になる。


「成虫になったら見せてよ! 約束っ」

「えっ」


 岸虎は、鉤束(イータ)の曖昧な態度を、肯定の方向でしか受け取らなかったらしい。彼女の中で、鉤束(イータ)がカブトムシかクワガタの幼虫を育てていることは、純金の輝きくらいに明らかな真実となった。


「私の家族も育ててるんだ! お父さんが、赤いカブトムシ! もう十世代以上も厳選してて、羽化したオスの羽の赤みは、使い込んだマホガニーみたいになってるんだから! ホントだよ! 夏になったら見せたげる」

「あのぉ、そのぉ」

「だから、鉤束くんも見せてね。絶対だかんね! あ、話変わるけど、鉤束くんのお習字、お母さんがめっちゃ褒めてたよ。なんだかとても繊細って──」


 いつもよりペラペラ舌を回す岸虎に、イータは相槌しか打てなかった。お地蔵様のいる分かれ道で、逆方向に去っていく少女の後ろ姿を見送りながら、彼は、自身の背中に滲む汗の冷たさに震えた。


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