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朧煙警察署所属の吉谷刑事によって逮捕された香月玲緒奈──防人都の生物学上の母親は、未成年の人身売買という極めて悪質性の高い事件の被疑者として、警視庁に所属する鵜飼警部の指令の下、警視庁が管轄する本部留置場に移送された。鵜飼率いる「児童の誘拐及び売買、並びに被害児童に行使された人体実験に関する事件捜査特別委員会」、通称「お月様係」が揃えた証拠は決定的で、玲緒奈に釈明の余地はなかった。東京に連行され、運の尽きを悟った彼女は、何もかも馬鹿らしくなって、反抗的な態度をやめた。起訴されるまでの数日間、大人しく拘留されるつもりでいた。
今日もまた、部屋でぼんやり過ごした。被疑者監視のために、留置場は夜も灯りが残る。不規則な生活を送ってきた玲緒奈にとって、睡眠の阻害要因にならない光も、赤の他人による寝姿の確認に使われると考えると腹立たしかった。しかし、見回りの警察官から「布団に入れ」と高圧的に命令される方がもっと癪に触る。枕に頭を任せてから、白い掛け布団で首の下まで覆った。
眠気が来るまで、トラバーチン模様の天井を、じっと眺めていた。
次に目を覚ました時、寝る直前まで数えていた模様がなくなっていることに、玲緒奈はすぐに気づいた。彼女はガサガサした粗い布質の敷布団ではなく、接する背中に圧迫感を与えないタイプの機能的なベッドマットの上で寝転がっている。
どうやら自分は、留置場から移動させられたらしい。困惑しながら上体を起こし、玲緒奈は辺りを見回した。かなり広い、洋風の部屋だった。ホテルの客室なら、スーペリアからデラックスの等級が付きそうだと感じる。
目算十五メートルほど離れた場所には窓があって、外は昼なのだろう、カーテンが薄白く光っている。窓の前では、低いガラステーブルを四つのラウンジチェアが取り囲む。二人の男が対角線上に座って、何事かを話し合っていた。一人は見覚えのない、メガネを掛けた若い男。もう一人の方は知り合いだった。一度顔を合わせれば二度と忘れられない類の人物。身の丈190センチ以上と大柄ながら、いつも女物の服を着て、声を高めに調整している。
防人都、本名:香月瑠奈の居場所を玲緒奈に教えたのは彼だった。
「潮さん」
玲緒奈がか細く名を呼んだ。女装の偉丈夫、潮はすぐに反応し、屈託のない笑みを彼女に向ける。「あら、起きたのね?」という答えが一目瞭然の問いかけに、玲緒奈は律儀に「ええ」と頷いた。
彼女は潮に尋ねた。
「ここはどこなの?」
「『竜穂雲』近くにある荒屋家の拠点よ。『ルナ・チルドレン』には知られていないわ」
地名を聞いても、玲緒奈にはピンと来なかった。しかし、都道府県まで教えてもらってなお分からなかったら恥ずかしいため、彼女は黙り込んだ。そもそも場所なんてどうでもいい。しばらく匿ってもらうという名目で、どうせ自由に外出出来ない。
「玲緒奈ちゃんの救出が素早くスムーズにいったのは、彼のおかげ。立原くん」
「ええと、潮さん方の超能力があってこそですよ。自分は机の上で論を捏ねただけです。……ええと、香月さん。立原修です」
「立原くんのスカウトは、どちらかと言うと、計画成功後の布石だったんだけどねぇ。早速役に立ってくれたわ。今年の一月のことなんだけど、この子、一般人の観測データから思念波の攻撃性スペクトルを識別、作った新しい指数を元に普通のネットワークでは説明が難しそうな悪意の塊をいくらか発見してね」
息継ぎのため、潮は口を閉じる。すぐに続きを話し出すことは明らかだった。メガネの若い男、立原の手柄を話すのが楽しいらしい。歳が離れた男の部下、それも自ら拾ってきた若者を可愛がるおじさんは珍しくもない。潮は女装しているが、おじさんはおじさんだった。
玲緒奈は「はあ」と相槌を打つにとどめる。
「小粒の使者たちを使って調査してみたら、詐欺系の犯罪グループがゴロゴロ見つかったわ。で、玲緒奈ちゃんが捕まったって聞いた時に、いくつかの『いただき女子』系違法オンラインサロンを一斉に通報するよう立原くんが言ったの。何でだと思う?」
「さあ?」
玲緒奈はすぐに回答を放棄した。彼女は、頭の中で文章をまとめる作業が嫌いだった。
潮は玲緒奈を試したかった訳ではなかった。もったいぶらずに答えを告げる。
「数少ない女性用の留置場をパンクさせるためよ! ダメ押しに、捕まった女性たちと関係のある暴力団を装って襲撃予告メールも出したの。これも立原くんのアイデアね。てんやわんやの警察官たちを出し抜くのは、小粒の使者たちでも造作もなかったわ!」
潮は盛大に高笑いする。
「あぁははははは! 鵜飼の悔しがる顔が目に浮かぶよう! ざまあないわ! とにかく玲緒奈ちゃん、もう一度言うけど、あなたがこれほど早く解放されたのは立原くんのおかげなの。感謝しておきなさい」
「……ありがとう、ございます」
助けられた実感は湧かなかったものの、言われた通りに礼を口にする。「いえ、これも契約の範囲内と僕は思ってますから」と、立原は堅さのある声音でぎこちなく答えた。かなり恐縮している。他人とのコミュニケーションに慣れていないらしい。玲緒奈は少し親近感を覚えた。
潮の大きな手が、立原の背中をパシンと叩く。
「ドヤ顔しとけばいいの。こんなの契約にないわよ。例えるなら、善意のサービス残業で、余計なことして危機に陥った他部署の面識ない社員を救ったようなもの。ホントなら、玲緒奈ちゃんの自己責任なのよ。もう、ダメじゃないの。勝手に突撃するなんて。手紙でも会いに行くなって念押ししたわよね?」
自身の軽挙妄動を咎められて、玲緒奈は咄嗟に反感を抱いた。刺々しく理由を述べる。
「死んだはずの子供が生きていたのよ? 子供が生きているなら、偶には親が必要だって、そう思ったの。居ても立ってもいられなくなって」
「ほーん、親子の絆に突き動かされてってわけね。……マジで言ってるのかしら」
呆れから付け加えられた小言は、玲緒奈の耳には届かなかった。彼女は、ネグレクト・暴言・暴力で幼い娘を虐待したことも、高級ブランド品と引き換えに幼い娘を売り渡したことも、親子関係を断ち切る鋭い刃物になると認識していなかった。
子供に親が必要だという一見当たり前の理屈に、自分が頼れる筋合いはないとは、本気で考えていなかった。
「まあいいわ。玲緒奈ちゃん、私たち『摂関同盟』の目的の一つはね、あなたの娘ベータちゃんと他の『ルナ・チルドレン』の、真の意味での接近を防ぐことよ。すでに布石は打ってあるけど、あなたには、いざとなった時に劇薬になって欲しい。役目に備えてもらうわ」
「それまで監視するってこと?」
「ええ。安心して。監獄よりはずっと自由にさせたげる」
「……どうして瑠奈は、他の子たちと心から仲良くしちゃダメなの?」
「それも手紙に書いておいたはずだけど」
「紙、途中で震え出して粉になった。最後まで読めなかったの」
「読むの遅いわね」
馬鹿にされた、そっちの不手際なのに自分のせいにされたと感じて、玲緒奈は癇癪を起こしかけた。潮に飛びかかろうとして、自身と彼の体格差を思い出し、本能的な恐怖から衝動を抑えた。
屈辱的だった。が、視界の端で、立原が半歩後退るのが見えた。荒事の予兆を捉えたらしい。パッと見、彼の肉体は大きさと強度ともに潮に遠く及ばない。しかし、筋肉トレーニングは習慣的に行なっているのだろう、少なくともモヤシではなかった。真正面から戦えば勝てそうにない立原を一瞬でも怖がらせられたことに、玲緒奈は自尊心を回復させた。
潮は玲緒奈の質問に答える。
「朧煙に潜らせた小粒の使者たちによると、盈──忌々しくて生意気な姪に影響されて、ベータちゃんは社会秩序に反するような月の力の使用を疎んじている。アルファちゃんたちの計画を知れば、妨害してくる可能性が極めて高いとのこと。ベータちゃんは特別よ。『ルナ・チルドレン』は特別な子供たちだけど、その中でも際立って特別なの。今の段階では、他の八人が束になってもベータちゃんには勝てない。アルファちゃんの計画は阻止されるわ。その成功を前提とした私たちの謀略も終わりってわけ。分かる?」
玲緒奈の怒りが消えた。自分の娘が、取り扱い注意の厄介な爆発物と化していたことに驚いたからだった。潮の説明を受けて、彼女は自分の軽率さをようやく反省した。もしも、あの猟犬のような女性刑事に邪魔されず、娘との再会に成功して、「摂関同盟」の存在を仄めかすようなことを漏らしていたら?
玲緒奈は顔を青褪めさせた。瑠奈が四、五歳の時分には発露させていた、妙な察しの良さに怯えた。
潮は溜息を吐く。
「ま、二人くらい『月嫡』になってくれたら、話は変わってくるんだけど。まずはイオタちゃんね」
呟いてから、潮は立原を伴って、玲緒奈に宛てがわれた部屋から出て行った。




