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人間の直立二足歩行は、かなりデリケートな運動に分類される。それは、発達した脳による無意識的な修正の連続の上に成立している。ほんの少し右側にズレた姿勢を直さんとする同僚に、わずかな隙が生じた。吉谷はそれを見逃さなかった。至近距離を保ったまま素早く真横に抜けて、相手の下半身を後ろ蹴りで刈る。
勢い良く跳ね上がった同僚の体を、薄緑色のマットになるべく柔らかく押し付ける。制圧完了。
「一本!」
審判を務めていた別の同僚の声が、開けた道場の空間に響く。休憩がてら観覧する周りの警察官たちからの歓声が続いた。
吉谷のしなやかな手は、湿った道着から離されたのち、相手の方に差し伸べられた。力強く握り返したのは、ゴツゴツと骨張った、二、三歳上の男の手だった。180センチある吉谷よりもさらに一回りはデカい男の体を、彼女は軽々と引き上げる。
「最近強すぎじゃね? マジで手も足も出んわ。今も掴まれてなかったら天井まで飛んでたって。極意とか掴んだか?」
「なんでしょうね? ここ一週間、めちゃくちゃ好調なんですよね」
理由不明の意思表示のため、吉谷は首を傾げてみせる。「吉谷さんは元々署内で一番強いじゃないですか、木原さん」と、観覧客の一人が男に茶々を入れる。男は「阿呆。前までなら、十回しよったら一回は技アリあったわ」と強がりを交えて言い返す。この二人は共に警務課の所属だったはず。同じ課で仲が良くて何よりだ。吉谷はそう思った。
「吉谷さんは、全国、いやオリンピックも狙えるんじゃねえかな」
「あはは。ちょっと今は業務優先ですね」
他方、刑事課の空気は悪い。松柄風水の変死事件──少なくとも自然死ではないという意味での変死──は、発生してから一ヶ月弱が経過したにもかかわらず、何の手がかりも得られていなかった。彼女の死という厳然たる事実だけがあって、それ以外のすべては胡乱の霧に包まれていた。捜査を直接担当する人員は吉谷を含めて五人だが、朧煙警察署の刑事課に属する二十余名のほとんどが何かしらの形で事件に関わっていて、一切の進展がないことに対する歯痒さを課の全体で共有していた。皆、誰かが足を引っ張っての体たらくではないと頭では理解する。誰のせいでもない。しかし、場に重なる澱みによって精神を攻撃的に変えられた人々は、不甲斐ない報告が上がる度に舌打ちしたり、「使えねーな」と口に出して責めてしまったりする。言われる方はもちろん、言う方の気分も害される。互いに恨み、失望し、仲間意識が擦り減って、終いには敵視するようになる。
いつ爆発してもおかしくない。空気は悪い。いや、最悪に至ろうとしていた。
元々は、和気藹々とまでは言わずとも、緩い連帯の下で気遣い合う良い職場だった。価値がつけられないほど素晴らしかったそれを、吉谷も恋しく感じる。ギスギスした袋小路に囚われ続ける無益さは全員が認識していた。後腐れのない綺麗な脱出は不可能だろう。四月の上旬に持ち込まれた怪事件は、悔しいが、自分たちの能力を超えている。これ以上の捜査は無意味で、刑事として情けないと本心から彼らは思うが、打ち切りを切望する。しかし、最低限の体裁を保つために必要なきっかけがなかった。一ヶ月という時間は手を引くに妥当な目処──もし他に注力すべき仕事があるのであれば、の話だが。平和な朧煙では、刑事課が出張るような凶悪事件は滅多に起こらない。
樹液に足を取られた羽虫がもがくような話し合いの後、吉谷が帰宅したのは午後七時ごろだった。遅くまで縛り付けられなかった理由は、ゴールデンウィークの真っ只中だからというよりは、閉塞感を通り越した諦観に帰される。松柄事件関連で深夜まで詰めることはもうないだろうと、吉谷は予感していた。
「ただいま戻りました」「おお、帰ったか」
玄関から声を掛けると、リビングの方から鷹揚な返事が響く。巣を一匹で守る猟犬だった、ほんの一週間前までなら考えられない状況に、吉谷の心はほんのりと温かくなった。
仕事帰りの家主を出迎えたのは、最近出来た新しい恋人、ではなく(吉谷に恋愛の経験はない)、新しい主君だった。突然部屋に押し掛けてきた子供に、どうして自分が仕えているのか、吉谷は分かっていない。しかし、そうしなければならない。疑問や不満はまったくなく、むしろ誇らしい。
見た目も声も男女の判別が付きにくいものの、大元は女性らしい主君からは、春の月と書いて春月と呼ぶよう仰せつかっている。春月は今日もまた、本来の持ち主はあまり触らないノートパソコンを使って、一日中映像作品を観ていたらしかった。同居当初の春月は、ぎこちない仮名入力で現代社会や月に関する情報の収集を行っていた。しかし、吉谷が有料会員になっていた超大手通販サービスで多数の映像作品を自由に視聴出来ると判明してからは、それらの虜になってしまった。
「はるか昔、集めた只人から聞く他愛もない話が趣味だった我にとっては、映像作品はあまりにも甘美で抗い難い刺激であってな」
聞いてもいないのに、春月は恥ずかしそうに言い訳を述べた。吉谷が作った、野菜と肉を一緒に煮込んだ雑なうどんを美味しそうに食べながら。同僚に振る舞ったら鼻で笑われそうな一品だった。主君の舌はハードルが低い。だから、不器用な吉谷でも炊事が楽しくなる。
「しかも、美少年が多すぎる。眺めるだけで天に昇りそうだ」
「春月様は面食いなのですね」
「めんくい? それはどういう意味だ?」
「美しい容姿の人間が大好きという意味です」
「否定せぬ。我は美しい顔の男子に弱く、強く出られぬ。我は只人と比べて頑丈だからな、望まれれば即座に抱いてやり、何人でも子を孕むぞ。何度も騙され、食糧と宝物を持っていかれたが、笑って許してやるくらいよ。だが、衣食住を満たされた女子は皆、そうなるものではないか?」
「少なくとも私は、どんなに魅力的な相手でも、無節操に子供を作るようなお付き合いをするつもりはありませんし、物を盗まれたら怒ります」
「なんと」
月の使者、春月は驚きの表情を浮かべた。12000年分のジェネレーションギャップは果てしなく大きい。驚かれるだけで、自身の恋愛遍歴に対する追及はなかったことに、そういう経験のない吉谷はホッとした。
「生憎とこの体では性欲は湧かぬ。今はくれてやる物もない。故に、直接触れ合わずとも、実写ドラマで美少年を見るだけで満足する。満足してしまう……」
最後の申告は、ひどく悩ましげだった。
「それが問題よ」
「はあ。何が問題なのでしょう」
本気で分からなかった吉谷は、間髪入れずに質問した。長きに亘る眠りから醒めたばかりらしい主君の目的について、吉谷はほとんど把握していない。画面越しのイケメンにうつつを抜かして得られた、どこか可哀想な満足だったとしても、最終的な形が満足であるならまあ良いのではなかろうか。
「そなた。ひょっとして我を憐れんでおらぬか?」「おりませんが?」
「まあ良い。我がそなたを従えたのは、来たる戦の前衛とするためだった」
「はい、心得ております。その時になれば、春月様の前に立ちます」
「我が調律してやった肉体の調子はどうか?」
「とてもすごいです。今日も、セーブしなければ殺してしまうところでした」
「……敵は、我を寝床から追い出した使者の後輩」
「初対面の時に仰ってましたね。春月様の敵は、いったい誰なのですか? 名前が分からなくても特徴さえ言っていただければ、朧煙の猟犬と呼ばれる刑事の嗅覚で探り出してご覧に入れますが」
「ならぬ。我とあやつの戦いは、余人の手でなく、我とあやつの間において開かれねばなるまい」
融通の利かない武人のような考え方だと吉谷は思った。吉谷は、警察官を志すずっと前、小学生の頃から柔道を始めている。鍛えた心身を善行に用い(精力善用)、自他を共に栄えさせる(自他共栄)という柔道の理念に親しみ、故に正々堂々の好ましさを知る。しかし、実際に労働してみて、狡猾な先輩や卑怯な犯罪者と渡り合ってきた吉谷の心には、その非効率さも刻まれていた。
吉谷は訝しむ。主人の表情は憂いを帯びている。武人のようなことを言う割に、戦に乗り気でなさそうだった。空になった皿をシンクに置いてから、席を立とうとしない春月の正面に戻る。
続きを促した。
「我とあやつが矛を交えた理由は、只人を蹂躙せんとする我の意思が、あやつの欲望と相反したからである。──我は、力による支配を望んだ。昔と違って人が増えた世であれば、価値の選別に耐えると思うた。我にとっての良き隣人を、本性のまま好き勝手に選ぶ。さすれば、邑を率いる良き守護者であった頃よりもずっと質の高い満足が得られる」
春月は首を横に振る。
「認識が覆された。石黒の者の夢から少しずつ知識を集め、新しき時代を解したつもりになっておった。とんだ思い違いであった。うじゃうじゃ増えた只人たちは、どうも、我の古き頭では及びもつかぬ洗練された方法で、自ずから厳しい選別を行っておる。我の出る幕などない。とっくに魅せられてしもうた」
「つまり、もはやあやつと戦う理由はないと」
「左様」
確認すると、神妙に頷かれた。吉谷は思案する。
「春月様がナーバスになる事情は分かりました。もう戦いたくはないけれど、過激な啖呵を切ってしまったせいでめちゃくちゃ警戒、敵視されていて、仲直りの道筋が見えない。少なくとも、今の弱体化した状態では、対話を試みようとしても問答無用で殺されてしまう」
「おお。そなたは意外と頭が良いのだな。まとめるのが上手い」
吉谷の口角が上がる。運動能力は頻繁に賞賛されるものの、頭脳労働で褒められることはあまりなかったために、嬉しさも一入だった。「意外と」の部分はスルーした。
調子に乗って提案する。
「では、時機をみて、私が仲直りの架け橋になります。開戦の狼煙でなく、平和の使者の役目を遂行するのであれば、春月様も納得出来るでしょう?」
「感謝する。そなたを選んで良かった」
入浴後、二人で映画を見た。時の試練による選別を乗り越えられそうにない、陳腐な恋愛作品だった。しかし、主演俳優の容姿が好みだったようで、春月は彼の一挙一動に面白いぐらい翻弄されていた。はしゃぐ主君の姿を眺めて、猟犬は静かに微笑んだ。




