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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第十二話 地を浸す 月の光

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 人類文明が何億何兆と引いてきたクジの中で、この「立原修」なる身は、ただの「ハズレ」パターンだっただけに過ぎない。SNSアプリに投稿された大量の呟きを流し読みしながら、彼は、心に刻み込まれて十数年、すでに擦り切れた自己紹介を反芻した。

 成功失敗、自慢自虐。日常非常、真実虚構。SNSでは、それらに対して湿潤たる意味、すなわち、吸えば味のするモノを見出した人々が、それぞれのセンスで脚色してデジタルデータに変える。そしてすぐに蒸発していく。画面をスワイプする彼の指もまた、意味の乾燥に加担する。供出した文字の羅列は、ほとんど反応されずに埋もれる。このSNSほど、自分が際限なく小さな個であると実感出来る場所はない。「立原修」がいようがいなかろうが世界の有り様は同じだ。自分は失敗パターンだが、しかし、世界に迷惑は掛けていない。測度ゼロの存在だからだ。立原は安堵して、睡眠薬(ゾルピデム)を二錠飲み、眠気の到来を根気良く待つ。クソみたいな人生を続けるために。

 しかし今夜は、いつにも増して寝付けない。寝られるまで考えるしかないが、睡眠薬のせいで思考力は低下している。博士課程の院生として行っている研究を前進させるような、建設的な論理は扱えない。仕方なく、自分の性質に思いを馳せる。そのテーマは、十数年間こねくり回してきた、味のしないガムである。

 誰かと関わろうとした時、頭の中で否応なくブレーキがかかる。幼少の頃からずっとそうだったが、中高一貫校生活の折り返し付近を境に、立原はその強制力に逆らえなくなってきた。より正確に表現すると、逆らってまで手に入れたいモノがないことに気づいた。共生のコストは便益より重い。殻に閉じこもって独りで生きていきたい。しかし、人はひとりでは生きていけない。勝手に孤独死して世界に迷惑を掛けないため、あるいは、犯罪者に堕ちない程度の人間性を保持するためには、最低限の関わりは必要だった。幸いにして、立原には、学習面では標準以上の機能を備える脳味噌があった。もしこれがなければ、彼は社会のどん底に落ちていただろう。そして、親の小言に逆らう活力がなかったせいで、霊験あらたかな学歴と、自らの能力を伸ばすワークフローという一掴みの砂金を得た。おかげで一念発起さえすれば受験関連のバイトには困らず、加えて、指導教員のご厚意から仕事ももらえた。月の平均的な手取りは生活保護よりやや低いぐらい。学費の工面はやや辛いものの、「足る」を知れば問題なく暮らせる。耐えられる程度のしんどさから得られる繋がりで生きていける。不特定多数の他者と関わり、かかるブレーキに逆らうための精神的コストが膨大になるだろう就職を避け、大学院に進んでズルズルと学生を続ける選択をしたことに、後悔は微塵もない。

 続けられるなら死ぬまで続けたいが、そうは問屋が卸さない。博士課程も五年目になると、親や指導教員など、周囲の大人からの自立を求める圧力がさすがに強まってくる。対応は億劫だ。いよいよ、就職しないコストが就職するコストを上回りそうになっている。寝床の上で立原は溜息を吐いた。研究は楽しい──モデルの中で自分を際限なく小さな個にしてくれるマクロ経済学の理論は素晴らしい──が、アカデミアはとうの昔に、立原のような自閉的傾向の強い人間の居場所ではなくなっている。民間に行こうにも、資本主義社会で競争力のある諸先輩方が赴かれた名のある企業では、コミュニケーション不全が原因で一ヶ月も待たずにクビになる自信がある。経済分析は趣味の範疇に収めて、ハローワークや派遣会社に登録してテキトーに仕事を割り振ってもらうのが最も合理的だろう。自分の育成に労力を割いてくれた指導教員には本当に悪いと思うが、「ハズレ」を引いたということで納得してもらうしかない。

 ハロワなどを介して仕事を得るプロセスですら、面接などで、他者との関わりは確実に発生する。その予測だけで頭にブレーキがかかり、外すのに手一杯になる。国や神が自動で仕事を割り振ってくれればいいのにと立原は願う。彼は受け身な人間だった。席を用意されれば、こだわりに抵触しない限りそこに座る。やれと強制されれば、こだわりに抵触しない限りやる。自分如きの命にこだわりはないから、飯と武器が与えられれば、兵士として敵に突撃し、呆気なく死んだところで別に構わない。迷惑でない死は大歓迎だ。

 自由が憎い。人はひとりでは生きていけないのに、国や神の強制がないために自発的に他者と関わらなければならず、その度にブレーキがかかって、脳の活動は著しく遅滞し、自己の輪郭が滅茶苦茶になってしまう。独りで思考に埋没する時と比べて、まったく至らない自分が恥ずかしく、ゲロをぶち撒けそうになる。

 至らぬ自分を勝手に見出し、使ってくれる者がいたならば、立原は永遠の忠誠を誓うだろう。(こうべ)を垂れる対象が、どれほどの悪だったとしても。

 立原はついに眠れなかった。ベッドから起き上がり、机でスマホの電源を点ける。SNSをぼんやりと眺める。そして、椅子の上で寝落ちした。


「どうせ『ハズレ』なら、いっそ『大凶』になってみない?」


 話しかけられた対象が自分だと理解した時、立原は目を丸くした。

 色づいた木の葉が散る、秋も終わりかけのある日の夕方。塾講師のバイトを終えた彼は、仕事先の最寄駅に向かう足を、近隣の散策に転換させた。帰宅に対して並々ならぬ執念がある彼にとって、これは非常に珍しいことだった。高校生に対して数学の解説をほぼ一方的に捲し立てた後、水道水を飲むついでに抗不安薬(ソラナックス)を服用したが、誤って二錠も口にしてしまった。故に気が大きくなっていた。信号を渡って、五列のライトで看板を照らす心療内科の横から道に入る。建物の多くはアパートやマンションだ。スーツ姿の中高年、買い物袋を提げた主婦、部活帰りの子供などとすれ違う。また、前方不注意な自転車乗りも多い。ぶつからないよう注意しながら、立原はしばらく歩き続けた。一戸建ての住宅が多く、代わりに人通りが少なくなってくる。

 そろそろ戻らないと迷子になるかもしれない。立原は声をかけられたのは、線路の在処を確認し、踵を返そうとしたところだった。普段の彼ならば無視して逃げ去っただろう。しかし立ち止まり、振り向くことで反応を示した。抗不安薬のせい、だけではない。大勢の消費者候補として呼び込まれたのではなく、自分という個人を指向した呼びかけだった。ゼロ測度でしかない存在の、ゼロ測度でない人格を覗かれた感覚があったからだった。

 立原を引き留めた人物は、偏に不審極まりなかった。女物の服を着て、女性らしい高い声も作っていたが、太い首や広い肩幅は男性特有の体つきで、身長は190センチ以上ある。薄暗闇の中、影から突然現れたその存在は、妖怪と見間違えても不思議ではない。しかし立原は、「ハズレ」と分かっている人間にわざわざ話しかけるだなんて、酔狂な人間だと思っただけだった。抱いたはずの恐怖は、他者の方から興味を持ってもらえた嬉しさによって簡単に塗り潰された。

 ルアーに引っかかった魚は、怪人に問い返す。


「こんばんは。『大凶』とは?」

「中小国家へ理不尽に戦争を吹っかける大国の大統領を『凶』として、その上」

「面白いですね。しかし僕には荷が重い。AISAなので」

「アイサ?」

「An Infinitely Small Agent、略してAISA。際限なく小さな個です」

「なるほど。でも、実存に極限の概念は当てはめられない。陽子ですら大きさを持っている。千兆分の一メートルにも満たないらしいけれど」

「ええ。近似的にそうであるというだけ。そして、もっと完全にそうでありたいと思っているのです。自分と、自分如きに影響されない大いなる何かのみを見ていたいから」

「オーケー、理解したわ。誘い文句を変えましょう。私の下で、組み合わさって『大凶』になる『ハズレ』束の一つになってみたくない?」

「すごくグッときますね。勝算が?」

「ちょっと見ててね」


 怪人は右腕を上げた。手を銃の形にして、電柱の傍に停められた自転車に向ける。刹那、立原は空気の微細な揺れを感知した。背負うリュックサックから、チャックの引き手がチャカチャカ鳴る音がする。驚いて後退った。街灯の光は、舗装の隙間から生える雑草のふらつきも、緩い放物線状に垂れ下がった電線のぐらつきも照らし出している。

 放置自転車の振動が最も激しかった。やがて怪人は、天へと人差し指を突き上げた。その動きに合わせて、自転車が宙に浮く。

 立原の歪んだ唇から小さな笑いが漏れた。普通ではあり得ない、冗談みたいなことが起きている。紛れもなく本物だ。喉の奥から噴いたのは、モデルを解くための自家製コードが初めて回った歓びよりも、遥かに強い興奮だった。

 怪人の表情から強張りが抜ける。デモンストレーションが終わり、落ちた自転車のホイールが曲がった。


「エスパーだ……」

「実は、もっとすごいポテンシャルを秘めた子供たちがいるのよ」

「えっ?」

「彼らは震動を自由自在に生み出せる。その子供たちに、親の立場から言葉を掛けられる組織があったとしたら? どう、一口乗ってみない?」


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