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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第十一話 月の背中 覗き見て

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 モンゴル高原は夏季を除いて乾燥した気候が続く。しかし、四月の末、まだ初夏とは呼べないその日は、緑のかかった褐色のステップに珍しく豪雨が降り注いだ。「ルナ・チルドレン」以外には認識されない高塔の最上階は、荒ぶる雲に覆われて、まさしく嵐の渦中にあった。縦長の窓では水飛沫が跳ね乱れ、外の様子はほとんど分からない。アルファは不安になる。強風に煽られた細長い塔がメトロノームのように揺れ、そのうち負荷に耐えられなくなって、根本からボキッと折れてしまうのではないかという悪い幻に苛まれる。絶対にあり得ないのに。「発受信体(ラジオ)」の自動防御を参考に練り上げた倒壊防止システムは、滝のような雨程度では揺るぎもしない。そう心に言い聞かせても、異常な外的環境がもたらす本能からの恐怖は消えてくれない。

 寝転がって目を瞑り、最近の良い出来事に思いを馳せて、気を紛らわせようとする。アルファの脳裏に、メガネをかけた冴えない中年男性の顔が浮かぶ。矢窪光斗の協力を取り付けられたことは思わぬ収穫だった。先日の感動は未だ忘れられない。「月嫡再臨」プロジェクト内で把握されていた月の地理資料を矢窪と共有すると、曖昧だった部分や間違いのいくつかがパッと修正された。それに呼応して、塔が保有するシミュレーションモデルのパラメータに対する事前の信念や探索空間に変化が生じる。結果、月震受信シミュレーションの情報確度が有意に向上した。アルファ一人であれば、この改善をもたらすのに一から二ヶ月は試行錯誤しなくてはいけなかっただろう。

 雨に負けじと声を張り上げる。


「すごいわ矢窪先生。専門家って半端ない。めっちゃ好きかも」


 すると、アルファにしか聞こえない声で、彼女の曽祖父が返事を行う。


「……反対はしない。年は離れすぎているが、己れが若い頃は珍しくなかった」

「そういう意味の好きじゃないから! 違うのよ。あのおじさん推せるかもって感じなの。分かる? 分かるわけないか、戦前生まれに」

「ふむ。難しいな若者の感性は」

「まあとにかく。矢窪先生、明らかに変だなって所しかまだ直してないらしいし、こっちも触りしか見せてないし。モデルもいつかチェックしてくれるって言質取ったし。改善の余地はいっぱいあるわ。あーあ、先生、私たちの計画にフルコミットしてくれないかしら。私のモヤモヤを減らすために」

「矢窪氏が表の仕事を放り出し、社会的信用を失えば、月面無人着陸プロジェクト『Luna-Beta』のメンバーから外されてしまうだろう。すると困るのは我々だ。不確実な強硬手段を取るしかなくなる」

「ふん。分かってるから。でも、あの人さえいればどうにでもなる気がするんだけどな。ほら、映画だったら一人の天才が全部なんとかしちゃうじゃない?」

「現実とフィクションは異なる。彼は万能ではない。彼含む研究者は、万能という言葉からはかけ離れた存在だ。月震の観測器を用意し、月に運んで設置する。このプロセスのあちこちに、彼一人の力では踏破の難しい壁がいくつもあるだろう。無論、その中には我ら『月の使者』の力でゴリ押せるものもあるだろうが……。他のスペシャリストたちとのコミュニティ、あるいは彼らが出した成果に対する優先的なアクセス権を、矢窪氏には保ち続けていて欲しい」

「でもさあ、ほら。足りない部分はAIにカバーしてもらえば……」

(まどか)、お前は人工知能を過剰に評価している。現状では、慣習的なデスクワークか、解決の選択肢を可算有限に整理出来る問題にしか有用ではない──それらの作業なら人間より遥かに優秀だが(作者注:今話の設定上の日付は2026年4月27日)。矢窪氏がいくら優秀でも、人工知能との二人三脚で、未知の課題が多い宇宙のコースを走り切れるとは思えない」

「はあ。リアルって窮屈だわ」


 アルファは溜息を吐き、絨毯の上を転がった。天然の羊毛は吸湿性が高く、静電気が発生しにくい。「ふかふか」と「さらさら」を両立した質感が、布で覆われていない肌を撫でて、部屋の主に高い満足感を与える。

 窓の方を見やると、雨はすっかり収まっていた。小説でも読むかと立ち上がりかけて、朝に受け取ったガンマの言葉を思い出し、動作を停止する。昨日、ウェブミーティングアプリを通じて行った矢窪との話し合いをきっかけに、音声のみの遠隔交信を見直そうと考えたらしい。「ルナ・チルドレン(きょうだい)」同士で顔を合わせられるバーチャル会議場用チャンネルを作ると意気込んでいた。連絡から半日と経っていないが、もう作業に取り掛かっているのだろうか。

 再び目を閉じた。意識を「発受信体(ラジオ)」の内側に潜らせる。皆で連絡を取るための媒線島(ルータ)に向かえば、確かにチャンネルが一つ増えている。新しい方に入ろうとした。工事中だというメッセージが伝わってくるものの、出入りを禁止しようとする意思は感じられなかった。

 気がつくと、アルファは、一面が緑の草原に立ち尽くしていた。生きた草の爽やかな香り、涼しく穏やかな風の舞い、澄み切った青空に輝く太陽の暖かさが感覚野に染み込んでくる。まるで、ありのままの実体で、快晴に祝福されたモンゴルの大地に臨んでいるかのような心地だった。


「わ、すごい……!」

「お気に召しましたか? アルファお姉様」


 感嘆の声に応える慇懃な返事が、背後から聞こえてくる。振り向くと、作業着を纏うガンマの姿があった。「何よその喋り方」とアルファは笑う。彼も本体ではなくアバターのはずだ。にもかかわらず、細部まで作りが精巧で、すぐ側にいるかのような錯覚に陥る。驚きの感情がますます大きくなっていく。


「顔は見えた方が良いと思ってたんだ。前からね」

「そうかも。事実、声だけなのは味気ないもの。あなたたちと直接会えなくなってから、私はどんどん寂しくなってきてたわ。ガンマも?」

「うん。人がたくさんいる都会でも、僕自身は孤独だから。況して、高い塔の上で一人暮らさなきゃいけないアルファは、もっとそうなんだろう。だから、こういう空間が必要なんだと僕は思ったんだ」

「正しいわ。どうして景色をモンゴルの高原に?」

「雄大でダイナミックで、大好きなんだ。後で他の背景も用意するけど」

「こっち、さっきまで激しい雨で。だから今すごく爽快なの」

「ふーん。虹、出しとくね」


 空に引かれた色鮮やかな曲線は、自然に現れる虹よりも輪郭が強調されて、かなりくっきりとしている。リアリティの高い景色やアバターとはミスマッチなファンタジーさがあった。「あれはきっと足に行けるタイプね」とアルファが茶化すと、ガンマはきまりが悪そうな表情をした。

 かっこつけが裏目に出た弟に、アルファは可愛らしさを覚える。頭をヨシヨシしてやろうかと考えた。しかし、ガンマの背が日本人の男子基準でそこそこ高いために、こちらは格好悪くも腕をグッと伸ばさなければいけない。断念した。


「他のみんなは、少しは寂しいと思ってくれてるのかしら。イプシロンはむしろ、うるさい姉貴分がいなくなってせいせいしてそう。ムカつくわ」

「否定はしない。デルタも気楽にやってるんじゃないかな。同じクラス、同じ寮にベータがいて、ほぼ毎日会えるのだから。羨ましいよ」

「……そうかもね」

「噂をすれば。たった今、そのデルタから連絡が来て、アルファに繋ぐよう頼まれた。どうしようか」

「どうしようとは?」

「いつも通りの音声通話をするなら、ここではまだ無理で、一旦外に出ないと」

「二度手間じゃない。ここに来てもらえばいいでしょ」

「あーあ。弟妹たちには完成した後でサプライズしたかったのに」


 ガンマのアバターがフリーズする。新しく開発した交流場の入り方や使い方についてデルタに教示するための一時離脱だった。短時間抜けるだけならば、アバターを残しておく方が一回消してまた作り直すよりも安く付くらしい。

 溢れる悪戯心に従って、アルファは、止まったガンマのヘソあたりをつつく。すると、人差し指の先がバグって名状し難い形に変化した。叫びながら離れると、指は元の形に戻った。

 ガンマの横にデルタが現れる。


「おーっ! すごー。いくらでもゴロゴロ出来そう」

「怠惰目的で居座ったら、大量のNPCゴキブリを放つからね」

「人でなし。最低。ガンマに一生モテない呪いをかける」

「生憎、ノーダメージだよ」

「ちぇっ。イプシロンとかゼータのアホどもには効くのに。あっ」


 デルタの視線がアルファを捉えた。アルファも彼女を見つめ返す。一ヶ月ぶりに対面したデルタは、二から三割増しで可愛くなったように思われた。ベータに連れて行かれたという美容院で整えられた髪型は、どうせすぐに綻ぶだろうと予測していたが、案外キープされている。服装もちゃんとお洒落だ。ベータチェックが定期的に入るのか、それとも自助努力なのだろうか。後者の場合、何かモチベーションがあったりするのか。好きな男が出来たとか。

 色気付きやがって。そこまで考えて、アルファは自身の俗っぽさを戒める。デルタが相談しに来た理由を先に問うべきだ。


「なぁに? デルタ。お小遣いアップでも申し立てに来たの? 十分渡してるはずだし、世界を統べる『月の使者』に相応しい学業成績を取ってからだからね」

「ぐぅ。吝嗇(りんしょく)家。いや、えっと、お金はもっと欲しいけど、そうじゃない。ちゃんと考えなきゃいけない重大案件。私が担当してる場所、朧煙にいた昔の『月の使者』。ベータが彼女と戦って、なんか勝った模様」

「はぁ?」「はい?」


 アルファはガンマと共に、ひどく間抜けな声を漏らした。意味不明なのでもう一回言ってくださいという切実な意思を込めて。「なんか勝った」の「なんか」の中身は? 普通に考えて「月童(ドウ)」のままで勝てるわけなくない? そもそもどうして二人は戦うことになったの?

 非言語的コミュニケーションは不発に終わった。デルタは構わず続ける。


「でも、勝ったけど取り逃したらしい。ここからが本題。ベータから要請。『あいつ、放置は危険なので捕まえて抹殺したいんですけれど、協力していただけません? あなたたちも』」


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