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1959年10月、ソ連の(ただし場所はカザフスタンにある)バイコヌール宇宙基地から、無人月探査機「ルナ3号」が発射された。二日後、それは月の南極を捉え、軌道に沿って旋回を始めた。さらにその一日後、探査機に備えられた自動撮影システムが立ち上がり、30枚近くの写真を撮影した。通信の不調が発生したにもかかわらず、ルナ3号は、撮影した半分以上の写真を地球に送ることに成功。地形に誤解を招くほどに不鮮明ではあったものの、写真には、誰も見たことのない月の裏側が切り取られていた。波打つ影の複雑な模様は、激しく厳しい凹凸の存在を人類に示唆した。それは、地球に長く寄り添う無二の相棒が惑星物理のトリックを使って隠し続けた、尊敬すべき偉大な背中だった。
ルナ3号は、地上との交信を失ったのち、地球の周囲をしばらく彷徨っていたが、やがて力尽き、大気圏に突入した。落下地点がどこか、少なくとも公的には明らかになっていない──母なる地球に凄まじい速度で帰還したこの宇宙船は、進行方向に押し潰した空気の圧縮熱で赫々と燃え盛り、大部分は塵と化してしまったことだろう。しかし、12000年前の亡霊による極めて非科学的な助言を受けて、燃え滓の入手に成功した一人の若い男がいた。
荒屋朔一郎。プロジェクト「月嫡再臨」の、生みの親だった。
◇◇◇
ちょうどいい長さの潤い艶々茶髪、ぱっちり整った目鼻立ち、華奢な顎、黄金比の解説図を彷彿とさせる耳。ちょっとガタイが良いような? いいえ、小顔でそう見えるだけ。客観的に見てチヤホヤされるべき女の子なのに、「漲る生命力のせいで祓われそう」などという理由で、ナヨナヨしい令和男子からの人気はイマイチ伸びないのですが、しかし、彼女は紛れもなく美少女です。
そう、あれは私です。より正確には、ほんの三週間ほど前の、過去の私です。
麗しき彼女は、ある方角を眺めて、ラブコメ漫画に出てくるヒロイン顔負けの可愛らしい仕草で驚いております。釣られて、現在の私もそちらに視線を向けました。ぶわりと強い風を伴う、勢い篭った黄土色に輝く奔流を、車椅子に乗った妙齢の美女が昇っていく。デルタ転校の前日深夜、就寝を試みた私の横で発生した奇天烈な現象。嘘のような本当の話。
放心して見送るしか出来なかった車椅子の女性を、夢の中であるのをいいことにまじまじと観察します。やっぱりあの人、私に似ています。お母さん、ではありません。十年会ってないので記憶も朧げですが、ブランド品欲しさに娘を怪しい実験計画への供物にした生物学上の母親は、なんというか、ひどく澱んだ雰囲気を纏っておりました。いるだけで空気を重くする負のオーラです。しかし、黄土色の懸河を浮上していった女性は、「はっ」と掛け声を上げるだけで令和男子を成仏させられそうな、生命力溢れる人物でした。
ひょっとして、彼女は、未来の私なのでしょうか。
バツンと画面が暗転しました。隣に座る女性がリモコンを弄ったせいです。いやちょっと、人の夢なのに自由すぎません?
「松柄さん」
咎めるように呼びかけると、つい最近亡くなったはずの先輩が、悪戯っぽく笑いました。ああ、叱責など出来るはずもありません。私は溜息を吐きます。
彼女は、異質な存在として輪に入れなくてもおかしくなかった私を、文芸部に迎え入れてくれた人。文化祭に熱を吹き込む側の楽しさを教えてくれた人。契約した小物リース店のミスでブツが届かなかった修羅場に、最後まで諦めないヤケクソ精神を示してくれた人。マッスル足フェチの素晴らしき先達。
記憶通りのお姿でした。変に美化とかされてなくて安心します。松柄さんは私にとって、等身大で愛おしいお方です。時間が経過し、離ればなれになった後、私にとって都合のいい彼女を押し付けたくなかったから、なるべく鮮明に記憶したのです。暗記、苦手なんですけどね。もちろん、松柄さんにも周りに見せたくない自分とかはあったでしょうし、防人都主観の松柄風水が、イコールで現実の松柄風水と結び付けられるわけがないのですが。
「夢であっても、虚像であっても、あなたに会えてとても嬉しいのです」
究極の自己満足です。でも、いいじゃないですか。起きたらすぐに忘れてしまう、明晰夢の中でくらい。
「いつ何時でも遊びに来てください。あなたなら大歓迎ですから」
可憐な後輩の健気なお願いに、松柄さんは、うんともすんとも言いません。
「すごいじゃん、ミヤコ」
代わりに褒めてくださいました。照れつつも全力で乗っかります。
「えへへ。はい。私はすごいです。もっと言ってやってください。世界、こんなにすごくて可愛い私にちょっと塩対応なところがあるので」
「まさか、思いもしなかったよ。あの超常存在に勝っちゃうなんて」
「あー……、その件ですか」
まだ全然治っていない傷を抉られて、一気に歯切れが悪くなります。マジかという感じです。こちとら、自分的には大失敗直後なんですけども。消化するまで間を置いて欲しいと、チラチラ視線で訴えてみましたが、彼女の純粋そうな眼差しに宿る圧には、逃亡を許す優しさなぞ毛ほどもありませんでした。
この人、こういうところがあるんですよね。忌々しい月の神秘について賛美を始めたら、私がいくら渋面を作ったとしても、あるいはかなり直接的に月をディスったとしても、ご自分が満足されるまでやめなかったですし。
ノンデリです。
「あれをすごいと言われると、さすがに羞恥が溢れますね。はい。辛うじて勝ちましたよ。不意打ちで一敗、ブランクで一敗、合計二敗しましたが。最後なんか、車椅子変形の制限時間が迫ってて、焦ってしまって、その焦りを悟られて逃亡を許しましたし。もうダメダメですよホント」
「そもそも挑もうとも思わないんだよ普通はさあ。あんな出鱈目な怪物に」
ぼんやりとした夢の世界で、彼女はじっと、遠くを眺めていました。
デジャブが走ります。同じ横顔です。二年前、私が中学二年生の頃、文芸部の有志で海に行きました。足が不自由で泳げない私は、パラソルの下で荷物の番人をしながら、海の家で調達した、カップ麺とは違う特別な塩焼きそばを賞味しておりました。すると、体力を出し尽くした松柄さんがゆらゆらと戻ってきて、折り畳み式の椅子に腰掛けます。
あの時の、遠くの水平線を見つめる横顔と、同じ。海の表面に隠された何かを物欲しそうに探る、あの目つき。いつもの彼女からは明らかに逸脱している。
背筋の粟立ちを抑え、努めて冷静に尋ねます。
「──あなたはあいつと会ったんですね?」
「うん。今みたいに、夢の中で。何回か」
ええ。「月の使者」が逃げる間際に残していった供述からして、そうだと思っておりました。松柄さんの答えはきっと、私が予測していた通りのもの。頭の中では分かっています。彼女は幻影に過ぎません。私が勝手に作り出した虚像です。この問答はただの自問自答で、思念を構築する欠片のどこにも客観的真実が含まれていない場合には、その探求には向かないのです。
なのに聞いてしまいます。形だけでも、先輩が目の前にいる限りは。
「あなたを殺したのは、『月の使者』ですか?」
分かってます。どうせあなたは何も答えません。アルカイックスマイルでお茶を濁すだけ。当然です。私自身が確たる答えを持っていないのですから。
松柄風水の死というたった一つの真実が描かれた巨大な幕により、その裏にあるすべてに閲覧制限が掛かっています。松柄さんと「月の使者」に関わりがある時点で、彼または彼女を第一の容疑者に据えること自体は自然でしょう。しかし、二つのデカい点をとりあえず線で結んでみただけの、この安直なストーリーが真実である保証はどこにもありません。むしろ、幕をより分厚く、より不透明にする要素とすら思えます。飛びついたら飛びついたで、あるいは、保留にしたら保留にしたで、どちらも「月の使者」の掌で滑稽なダンスを披露することになっちまう感じがする。大変忌々しい。
松柄さんの笑顔を締めに、そろそろ目覚めましょう。盈さんや石黒家の人たちも、心配なさっておられるでしょうし。首を横に傾けると、目測二メートルはあった(夢にメートル法は適用されるのでしょうか?)彼我の距離が、三十センチメートルぐらいにまで詰まっていました。
「曖昧で良くないなあ、その聞き方。どの月の使者のこと?」
「……え?」
低い声で、嫌みたらしく責められます。予想とは全然違う反応です。だからたじろぎます。崖の縁まで追われてしまったかのような不安に襲われます。
「だからこっちも意地悪しちゃう。とんでもない度数の色眼鏡を通して」
人差し指が、私の鼻を突きました。
「私を殺したのは」
覗き込む瞳の奥には、如何なる光も許さない、昏い闇がありました。
「お前だよ、ミヤコ」




