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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第十話 月は震えて 初めて

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 深夜、長身の女が一人、静まり返った朧煙の街道を歩いていた。もしも瞳と態度が精気に満ち溢れていたら、オカルトを頑として信じない堅物であっても人狼と間違えて取り乱しかねないほどの恵体と「らしさ」が、彼女には備わっていた。しかし、どこか上の空な様子で、覚束ない足取りのままコンクリートの道を進む彼女は、さながら、何度も狩りに失敗して自信を喪失した猟犬だった。

 どう見ても萎びている。誇りを保てないぐらいにしょぼくれている。

 女──朧煙警察署に務める若き刑事、吉谷がこうなるのも仕方がなかった。彼女が担当する松柄風水の死亡事件について、遺体の発見から三週間が経とうとしているにもかかわらず、進展がほとんどなかったからだ。現場を隈なく調べても、自殺他殺の痕跡はどこにも残っていない。検死で分かった事実は、松柄は死ぬまで健康そのものだったということだけ。迷宮入りどころか迷宮の入り口すら見つけられていない。無駄な努力をして無為な資料を積み上げる。無能な給料泥棒だ。遺族に顔向け出来やしない。脳に溢れる苦い灰汁がドロドロと滴り落ちて、全身を鈍くする。

 自分だけではない。吉谷は瞼をしばしばさせる。肺を締め付けるような閉塞感が漂うのは、事件担当グループのメンバー全員だ。昨日の土曜日は現場に入れなかった。付近の土地を所有する石黒家から、立ち入らないようにと圧力を掛けられたからだった。一方的な通達に、吉谷含む警察官たちは強い反発を抱いた。しかし、これまで成果を上げられていない以上、一日だけ現場の捜査が中断されることの実害を説明出来ず、呑むしかなかった。

 今日、日曜日も担当グループが招集された。生産性のない話し合いをした。ふと、仲間であるはずの先輩刑事から、「吉谷はいいよな」と嫌味たらしく言われた。「逃亡中の犯罪者をラッキーで捕まえて、大手柄だ」と。吉谷は「だから私だけ気が楽だとでも?」と刺々しく言い返した。空気が最悪になる。リーダーを務める年配の警部が一旦の解散を宣言し、先輩刑事と吉谷の二人に頭を冷やすよう命令した。

 気分転換のため、炭酸飲料を求めに自販機へと赴いた吉谷は、煤けた背中で飲み物を選ぶ生活安全課の知り合いと出会った。彼女と愚痴を交わす。聞けば、商店街の広場で起きた爆発事件の方も、わずかな手がかりすら得られていないらしい。吉谷は辺りを見回す。署全体の雰囲気が、平素より暗く感じられた。

 吉谷は、自宅のあるアパートにどうにか辿り着き、エレベータに介助されて部屋まで到達した。右のスニーカーを脱ぎ、蒸れた靴下越しに床を踏んで、「月面着陸〜」と小さく呟く。ストレスが原因の幼児退行であり、妄言のセレクトは叔父の影響だ。彼は元気にしているだろうか。

 左の靴は振って落とす。揃える気力は残っていない。藍色のリュックサックを玄関の脇に置く。さあ風呂だと、洗面所に突撃しようとする足を、吉谷はピタリと停止させた。言語化出来ない些細な違和を捉えた。吉谷を猟犬たらしめる鋭敏な感覚は、疲労に苛まれてもなお健在だった。


 誰かいる。


 慣れた日常に、得体の知れない異質が混じる。一人暮らしの一般人なら恐怖して然るべき状況であるものの、吉谷は荒事慣れした警察官だ。すぐさま、意識の真ん中に曲者の制圧を据え置く。

 彼女は電気を点けた。暗闇にメリットはない。どうせ相手は家主の帰宅に気づいている。俊敏に動き、まずはトイレの扉を開けた。いない。次に洗面所、さらに風呂の浴槽まで覗き込む。いない。寝室、いない。廊下を越えて、湯を沸かすか食器を洗うか以外には使わないキッチン含む、さして広くもないリビングを睥睨する。


「子供……?」


 視界の焦点が、中央の丸机に定まった。五、六歳の幼児、あるいは幼女が、机の上で胡坐をかいて、頬杖すら突いている。不法侵入の真っ只中にもかかわらず、隠れる気がさらさらない、堂々とした太々しい態度。


「遅かったの。あまり我を待たせるでない」


 片目を開いて吉谷の姿を確認したのち、そう文句を付けてくる始末だった。


「今の子らの生活は狂っておる。夜は休む時間ぞ。空に輝く月の下、色と眠りの欲を貪るのが良い。大食は良くないがな。朝まで引きずる故に」

「はあ……」


 子供の忠告に生返事で対応する。守れるなら守りたい、ありがたいお達しだが、それでは生きていけないのが社会だ。近世以前からのタイムトラベラーなら、妙に忙しない現代の人々を見て、類する主張を行うのかもしれない。もちろんそれは、フィクションでしかあり得ない存在だ。この子供は、漫画やアニメのキャラクターを物真似しているのだろうか?

 身長180センチメートルを超える吉谷は、膝を90度以上曲げて、子供と目線を合わせようとした。そして、同僚の女性たちからは評判の良いハスキーな部分をなるべく抑え、柔らかな声を作って話しかける。子供を相手にするため身につけた処世術だった。怖がられるのはとても辛い。


「ええっと。まず、君は誰なのかな? 名前は? お父さんとお母さんはどこ?」


 そう聞きながら、子供の外見を言葉で整理する。顔は中性的で、男女の判別は付かないが、仕草の質はやや女性寄り──尤も、母親の影響が強いからかもしれず、性別を判断するための決定打にはなり得ない。髪は、手入れが面倒にならないよう揃えているという印象。体型は若干痩せ型。外傷は、少なくとも見える部分にはない。共にダボつく上下の服は、将来の成長を見越してサイズに余裕を持たせているのだろうか。服に施された紋様は、一瞥すると意味のある文字列に思えるものの、よく見るとそれっぽいだけだと分かる。虚なデザインで、気持ち悪い。

 さて、この子供はどこからやってきたのか。ベランダに通じる窓を眺めた。恥ずかしくも吉谷刑事は、窓のクレセント錠を頻繁に閉め忘れている。このアパートのベランダは共用とされていて、パーテーションは一応あるが、乗り越えるのはとても容易い。最も可能性が高いシナリオは次のようになる。同じ階に住む家族の子供が、楽しい探検ごっこの弾みで、警察官なのに防犯意識の緩い馬鹿の住居へと迷い込んでしまった。

 吉谷の質問に、怪しい子供は、ひどく浮世離れした回答を示す。


「親の顔なぞとうに忘れた。名は……、今の言葉で、春の月」

「春の月? 春月(はづき)ちゃんとか?」

「佳い。それで構わぬ」


 親を忘れたなる申告は全力でスルーした。小学生にもなっていないような子が真顔で嘯く主張としては強火(ハードボイルド)が過ぎる。絵空事ここに極まれりだ。とりあえず、名前を知れたのは良かった。古風な言葉遣いは置いておいて、内容と滑舌はしっかりしている。意思疎通は取りやすそうで、擦れた大人同士のコミュニケーションに慣れ切った吉谷にはありがたい。


「そっかそっか、春月ちゃん。早くおうちに戻ろうか? きっと、お父さんもお母さんも心配してるよ」

「家は追われた。昨日、不敬な後輩にな。で、我はそなたに会いに来た」


 追われただって? 話が一気にきな臭くなってきた。吉谷はピンと姿勢を正すも、仕事モードに入れなかった。

 どうしたのだろう。

 足元が覚束ない。脳が揺れる。

 頭がくらくらする。

 丸机の上、子供はゆったり立ち上がる。机の高さ50センチを足しても、吉谷の身長に遠く及ばない。なのに見下ろされているように感じる。事実、彼女は、屈した膝を床に突き、蛍光灯を背後に光らせる子供の姿を仰ぎ見ていた。

 嗚呼、美しく、神々しい。吉谷は、実った稲穂らしく(こうべ)を垂れる。お言葉を待つ。


「我、学びたり。あのような豪傑と戦うには、前を衛る肉壁が要る。そこで思い起こした。カザミの死を探るべく、度々丘に訪ねてきたそなたのことを」


 子供──12000年前から蘇った月の使者は続ける。


「そなたの肉体強度……、潜在性では劣るかもしれぬが、現時点ではあやつより高い。我が利用してやる。光栄に思うが良い」


 耳の奥まで染みる言葉には、徳を潤沢に纏う神性すら覚えた。薄れ行く意識の中で、吉谷は願う。身を粉にしてこの方の役に立ち、ご関心を賜りたい。


「我が回復するまで匿え。誰にも言うでないぞ」

「わ……、わかりました……、春月さま……」

「そなたの改造(・・)にも時間がかかる。目が覚めれば、そなたは我を、秘密に仕える主と見做すようになる。クク。しばしの間、茶番を楽しもうぞ」


 忠誠の平伏を保てなくなった吉谷が、丸机の角に頭をぶつけそうになった途端、不可視の力によって抱き止められた。体が丸ごと宙に浮く。ふわりふわりと揺れる、そのまろやかな感触は、揺り籠を彷彿とさせる。体格に恵まれ、幼い頃から常に守る側にあった彼女は、物心ついてから初めて味わう、絶対的な存在に守られる安心感に、身も心も蕩けそうになっていた。


「我の知らぬ価値(おもしろき)があると悟った」


 神が何事かを仰る。吉谷は眠気に抗い、神の呟きを脳裏に刻まんとする。


「まだ死ねぬ。我はまだ死なぬぞ、べえた(・・・)よ。価値(おもしろき)を遊び尽くすまでは」


作者の気持ち的にはここで第一章終わり、次回から新章スタートです。

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