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ラピスラズリの罠  作者: 橘 月呼
第一章~秘密の花園に眠る記憶
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 秘密の花園から出たユースティティアの足は、歩き慣れた王宮の一角へと向かっていた。幼少時は毎日のように通った道だが、今となってはもう、この道を以前辿ったのがいつのことなのか思い出すことすら難しかった。それでも足はしっかりとその道程を覚えていて、迷うことなく進んでいく。

 ほどなくしてユースティティアが辿り着いたのは王族の私宮だった。回廊を隔てる扉を守る警備の兵を一瞥することもなく、断りもせずにずんずんと進んでいく。そんなユースティティアの姿を認めた警備の兵士の一人が困惑を表情に浮かべつつ、ユースティティアの前に立ちふさがった。

「お待ちください」

「何かしら?」

 普段ならばそれが警備の兵士といえどもにこやかに接しているのだが、今は内心の焦りゆえに足を止められたことに酷く苛立った。その気持ちがそのまま現れたように、玲瓏たる美貌に浮かぶ表情は冷ややかで、突き刺すような厳しい視線が立ちふさがった兵士を見据えた。その眼差しの鋭さと美貌に浮かぶ表情の冷たさに、道を塞いだ兵士は僅かに息を飲んだようだったが、それでも職務に忠実な彼はその場を譲ることなく姿勢を正した。

「ここから先は王太子殿下の私宮になります。本日は、王太子殿下から来客があるとは伺っておりません。お約束のない方を、お通しすることはできかねます」

 言われた言葉に、思わずユースティティアは一瞬焦りを忘れてきょとんと目を瞬いた。以前に訪ねたのがいつだったのか既に記憶になかったが、それでもその時まではこのように警備の兵士に足止めをされることなどなかった。それにユースティティアだけでなく、ファーブラー家の三姉妹は皆、王太子と王女の私宮への立ち入りの許可は得ているのだ。何故道を塞がれなければならないのか、咄嗟には理解出来なかった。

「確かにお約束はしていませんけれど……わたくしは殿下の私宮への立ち入りの許可は、頂いているはずです。何か問題でもありましたかしら?」

「それは……その、殿下から予定にない女性の来客はお通ししないよう、申し付けられておりますので……」

 許可は得ている、と言うユースティティアの言葉に警備の兵士は戸惑ったように、もう一人の兵士に視線をやった。視線を受けたそちらの青年は頷くと、足早に扉の向こうへと姿を消す。

 ユースティティアはその言葉に得心がいくと、大人しく頷いた。そして焦る気持ちを抑えるように一つ息をついて、出て行った兵士が戻るのを待つ態勢を取る。そんなユースティティアの様子に、残された警備の兵士は安心したように強ばらせていた表情を緩めた。

(要するに、わたしはラウダ様のところに押しかけてくる王太子妃候補と思われたのね……)

 恐らく約束もなしに、権力を振りかざして王太子への面会を申し出てくるような『王太子妃候補』がいたのだろう。ユースティティアと同じ『候補』の面々を思い浮かべれば、そんなことをしそうな人物に心当たりはありすぎるほどにあった。思い出しただけで思わず眉間に皺が寄ってしまい、ユースティティアは気持ちを落ち着けるように一つ頭を振って、その思い浮かんだ姿を追い払った。

 警備の兵士だけとはいえ、他人がいる前でその表情を変えるなど、ユースティティアには常にないことだ。彼女は普段から、他人には決して素の表情など見せないように己を律していた。無表情なわけではない。あくまでにこやかに、穏やかに。柔らかく美しい微笑は、けれど仮面と同義だった。そんな彼女の調子を崩すことの出来る者は、身内を含めたごく僅かな人間だけだ。

 ユースティティアはゆっくりとした動きで一度だけ瞼を伏せる。そしてその瞼を上げたときにはもう、その美しい顔にはいつもの微笑が浮かんでいた。

 そうして大人しく壁際に寄って立ったまま待っていたが、すぐにさっきまで重さを忘れていた竪琴がずしりと腕に圧し掛かってくるように感じられるようになった。もともと細腕には余る重さなのだ。持てないわけではなくとも、長時間持ち運ぶことを考えた物ではない。それを秘密の花園からここまで抱えたまま、急ぎ足で歩いてきたのである。忘れていただけで、いい加減腕はその重さに悲鳴を上げそうになっていた。

「あの、よろしければお持ちしましょうか?」

 少し遠慮がちに掛けられた言葉に、ユースティティアは表情を変えることなく警備の青年を見やった。ユースティティアの柔らかな微笑と視線を受けて、青年の頬が僅かに紅潮する。

「その、ご迷惑でなければ……」

 さらに言い募ろうとする青年に、意識してにっこりと笑顔を浮かべてみせた。

「ありがとうございます。折角のお申し出ですけれど、大丈夫ですわ」

 美しく柔らかい笑顔ながらも人を寄せ付けないそれに、言葉以上のはっきりとした拒絶を感じ、青年は大人しく言いかけた言葉を飲み込んだ。そんな青年に笑顔を向けていたのはその一瞬だけで、ユースティティアはすぐに彼を自分の意識の外へと追い出した。顔を正面に向けて視界からも締め出すと、もう一度竪琴を抱えなおす。

 確かに竪琴は重かったが、彼女は自分の愛用している道具を他人の手に預けるなどということをするつもりはなかった。

 貴族の令嬢の中には、常に侍従や侍女を侍らせて自分で荷物など持たない者も多かったが、彼女たちファーブラー家の姉妹は違う。意外と思われることも多いが、荷物持ちのために侍女を連れ歩いたりしないし、自分で出来ることを他人任せにしたりもしない。それが亡き母と、ジール王国一の貴族と言われる父の教育方針だった。

 そして何より、ユースティティアは他人と、必要以上に関わりあいになることが好きではなかったのだ。

 長女のアルレイシアが社交嫌いな代わりに社交の場に出ることが多く、その社交性の高さからほとんど知られてはいないが、姉妹の中で最も保守的で他人を寄せ付けないのがユースティティアだ。アルレイシアはあからさまな態度で刺々しく他人を撥ね付けるため人間嫌いと知られているが、ユースティティアだとてその実は大差ない。アルレイシアのようにはっきりと目に見える形で壁を作らないだけで、にこやかな笑みと穏やかな物腰でやんわりとけれどきっぱり相手と距離を取る。

(恋多き姫君が、聞いて呆れるわ)

 こんな風に明らかに寄せられる好意に基づいた親切も、ユースティティアにとっては内心では煩わしいだけのものでしかなかった。

 昔、ユースティティアがまだ見栄えのしない青虫のような子どもだった頃、他人の目はただ恐ろしいものだった。けれど、彼女が努力の結果青虫から蝶に羽化してからと言うもの、周囲の態度は一変した。青虫の頃には踏みつけるだけだった人間たちが、必死に彼女の関心を惹こうと花を差し出してくる。

 だが、踏みつけられたことを覚えている蝶が、どうしてそんな花に留まると言うのか。

 しかし幾ら好きではなくとも、貴族として社交は欠かせない技術なのだ。貴族の姫として生まれ、社交界で生きていくことを生まれながらに課せられている以上、出来るだけ他人と軋轢を生まずに渡り合う術は不可欠だった。

 姉であるアルレイシアは、良くも悪くもユースティティアにとっては手本となる人物であった。彼女の自分に課せられた務めを果たそうとする姿勢、勤勉さ、そういったものは見習ったが、アルレイシアが他人へ向ける態度は反面教師となった。アルレイシアのようでは、社交界で生き抜くことはできない。だからユースティティアは社交に長けた身近な人たちから、注意深く物事を観察する目、他人の機微を見極める洞察力、そして敵を作らないですむ態度を学んだ。

 それもこれも全て、いつかアルレイシアが王太子妃となる日のためだった。王太子妃、そしてこの国の王妃になると言うのであれば、社交嫌いでは済まされない。いずれは必ず、社交界でアルレイシアが女主となる日が来るのだ。そんな時に姉を助けるため、ユースティティアは社交術を磨いたのである。

 アルレイシアが王太子妃となれば、ユースティティアがファーブラー家の公爵位を継ぐはずだった。だから彼女は、父の跡を継いで姉とラウダトゥールの助けになるであろう人物を婿に迎えて、影に日向に二人を助けていくつもりだったのだ。


 アルレイシアが、王太子妃にならないと宣言する、あの日までは。


「やぁ、ユースティティア姫。待たせてすまなかったね」

 物思いに沈んでいたユースティティアの意識を現実に引き戻したのは、耳によく馴染んだ美声だった。声に惹き付けられるように、壁を見つめていたユースティティアの紫紺の瞳が扉の方を向く。視線はすぐに美しい微笑を浮かべた端整な美貌を捕らえた。

「殿下」

 ユースティティアが礼を執ろうとするより早く、現れたラウダトゥールは二人の間にあった短い距離をすっと詰めて、彼女が抱えたままだった竪琴を取り上げた。

「なっ」

 思わず取り返そうと伸ばした手はそのまま竪琴を持っていない方の手に捕らわれる。そうしてにこりと向けた笑顔一つでユースティティアの抵抗をあっさりと封じると、ラウダトゥールは立ち尽くして二人のやり取りを見ている警備の兵士たちに視線を向けた。

「やはりユースティティア姫だったね。次回からは気をつけるように」

「はっ、申し訳ございません!」

 ビシリと音がしそうなほどきっちりと敬礼した二人に苦笑を浮かべる。そしてラウダトゥールは片手に軽々と竪琴を、もう片手にユースティティアの手を収めたまま、音のしない優雅な足取りで歩き出した。

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