第97章 帰る約束
第97章 帰る約束
翌朝、目が覚めると、布団の隣にあった小さな温もりはすでになくなっていた。
本当に朝一番で大阪へ向かったのだろう。枕元に残ったシャンプーの残香だけが、昨夜の静かな会話が夢ではなかったことを物語っていた。
寂しさを振り払うように頭を振り、俺はスーツに着替えて会社へと向かう。
朝一番に、広島へ行くために、有給を消化し、まとまった休みの申請を出した。
自分のデスクで残っている仕事を進めていた。
通路ですれ違う時、茅春が声をかけてきた。
「……紡。なんか、まとまった休みとるんだって?」
「ああ。ちょっと、外せない用事ができてさ」
「ふーん……。詳しくは聞かないけど、ちゃんと、戻ってくるよね?」
その瞳には純粋な心配の色が浮かんでいた。
彼女なりに俺が普通じゃない事態に巻き込まれているのを察しているのだろう。
「当たり前だろ。色々と事情があって言えなくてごめんな」
「いいわよ別に。でも……なんか分からないけど、応援してるから。無理しないでね」
ぶっきらぼうだけど温かい、彼女ならではの優しさが心に染みる。
俺は嬉しくなって、つい口を滑らせた。
「ありがとな、茅春。戻ってきたら、この前言ってた『埋め合わせ』、ちゃんとするから。……旅行にでも行こうか」
「……えっ!? りょ、旅行……っ!?」
茅春の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「いや、日帰りだぞ? 日帰りでちょっと遠出しようって……」
「旅行!! もう、やだ紡ったらあ!! 気が早いっていうか、そういうのは段階を踏んでからっていうか、もうバカバカ!!」
「だから日帰りだって言ってるだろ……っ、痛っ!?」
テンパりすぎて耳まで赤くした茅春が、照れ隠しに俺の肩を手でバンバンと激しく叩きはじめる。
……地味に痛い。
「日帰……」
「やだ!! もう知らない!!」
「痛いよ茅春、声が大きいって……!」
その時、向こうから後輩の女子社員が書類を手に小走りでやってきた。
「あ、川崎さん」
「有給の申請書、ここの欄が抜けてるんで記入してもらえます?」
「あ、はい、すみません。すぐ書きます」
俺はペンを取りに、茅春のバンバン攻撃の射程圏内から一歩身をずらした。
だが、茅春は、俺がその場を離れたことに全く気づいていなかった。
顔を伏せてブンブンと腕を振り続けている。
そこへ、あろうことか、午後の会議資料を頼みにきた部長が通りかかった。
「加藤君、午後の会議の資料を用意してほし……」
「もう……っ! やだ……っ!!!」
茅春は、今度は部長の肩をバンバン叩き始めた。
「ぶふっ!?」
「もう……やだ……っ!」
なおも連打される、初老の部長
「ご……ごめんね加藤君!?」
訳も分からず謝りながら、涙目で逃げるように俺のところへ転がり込んできた。
「か、川崎君……っ! 早く用事を済ませて戻ってきてくれ! 彼女のあの暴走を止められるのは、君だけだ……!!」
「は、はい、部長……すみません……」
俺が引きつった顔で書類を提出し、デスクに戻る。
そこでようやく、自分が、俺ではなく部長を全力でバンバン叩いていた事実に気づいた茅春は、完全に硬直していた。
「……あああああ」
みるみるうちに、顔から火が出そうなほど真っ赤になった茅春。
そのまま一言も発することなく、自分の机に思い切り突っ伏して消え入りそうな声を漏らすのだった。
定時になり、大急ぎで会社を終わらせて帰宅する。
ドアを開けると、そこには、すでに旅の支度を終えたエヒメの姿があった。
「待っておったぞ。行くぞ、紡!」




