第96章 一本に繋がる予感
第96章 一本に繋がる予感
「……ところでエヒメ、その三女の『市杵島姫』様って、一体どんな神様なんだ? 」
俺の問いかけに、エヒメは俺の顔をじっと見つめ、どこか意地悪で、ほんの少しだけ嫉妬の混じったような笑みを浮かべた。
「絶世の美女じゃ! よいか紡、会えても絶対に、直視するでないぞ? 」
「絶世の美女……。淡島神様も綺麗だったけど……」
アナハは俺の呟きを聞き逃さなかった。
彼女はすっと俺の隣にすり寄ると、その小さな両手を俺の頬に添え、微笑んだ。
「主様、どうかご安心ください。直視しないための対策でしたら、このアナハにお任せくださいませ」
「おう、どうするんだ……?」
「アナハが、主様の瞼を糸できれいに縫い合わせますわ……」
「……」
満面の笑みで裁縫セットを取り出そうとするアナハから全力で距離を取った。
その夜。
電気が消え、エヒメの前のモニターの光だけになる。
静まり返ったワンルームの部屋で、俺の布団の中にすっと小さな体温が潜り込んできた。
いつものように、アナハが音もなく忍び込んできたのだ。
「主様……。明日の朝には、アナハはここにはおりませんわ」
暗闇の中、すぐ近くからアナハの鈴を転がすような声が聞こえる。
「そうか。クレハと合流して、エヒメの服を作るんだな」
「そうですわ。一度、大阪へ戻りますわ」
その言葉に、俺は天井を見つめたまま、心の中にあった温かい気持ちを言葉にした。
「アナハ、ありがとうな。あの……大阪の泉大津の『穴師の森』で、心が折れそうだった俺を、もう一度前を向かせて、立たせてくれたのはお前だ。本当に感謝してる」
すると、アナハは布団の中で俺の腕にぎゅっと抱きつき、嬉しそうに声を潜めて笑った。
「ふふ……アナハは、主様を何度でも立たせますわ」
「……おい、それちゃんとした、シリアスな意味だよな?」
「どちらの意味でも、ですわ」
「お前なぁ……」
暗闇の中で、二人で小さく吹きこぼれるように笑い合う。
いつものやり取りだが、今の俺たちには、確かな絆の証としての心地よさがあった。
しばらくの沈黙の後、アナハが少し真面目なトーンで、ぽつりと話を続けた。
「主様……。千々姫様が言っておられたことで、少し気になることがございますの」
「気になること? なんだ?」
「千々姫様は、主様の縁(糸)がここまで複雑に絡まりすぎてしまったのは、エヒメ姉様のせいだと仰っていましたわ」
「ああ、言ってたな……。でも、俺はエヒメを恨んでなんていないぞ。エヒメと出会わなきゃ、俺はオトやクレハ、そしてお前とも出会えなかったんだからな」
「……ええ、わかっておりますわ。主様がそういうお方だからこそ、私共はこうして惹かれてしまうのです」
「……ですが、千々姫様はあの時、オト姉様のことも言っておられましたわね」
「そうだったな。オトことも言ってたな……」
俺の脳裏に、かつて我が家で共に過ごした、もう一柱の優しく美しき神――オトの姿が浮かぶ。
「そのことが、少し気になりまして……」
「オトか……。彼女は今、どうしてるんだ? 無事なのか?」
俺の少し焦ったような問いに、アナハは俺の胸に頭を預けながら、静かに首を振った。
「わかりません。ただ、人に技術を伝え終え、神の域に戻られたのだとは思いますわ」
「そうか……。消えてしまったわけじゃなくて、本当に良かったよ」
「主様……」
すべての糸が、福岡の地で一本に繋がっていくような予感を抱きながら、俺はアナハの小さな温もりを感じつつ、静かに目を閉じるのだった。




