第92章 切りたくない糸
第92章 切りたくない糸
俺は本題を切り出した。
「それでな、エヒメ。栲幡千々姫命様が言ってたんだ」
「俺の複雑に絡まりすぎた因縁の糸を正しく裁ち、調和させられるのは……エヒメの、さらに上にいる『姉神』だけだって」
その言葉に、アナハが豚まんを置いて、申し訳なさそうにエヒメを見つめた。
「……エヒメ姉様。わざわざご指名頂いたというのに、このアナハでは、主様の糸をどうすることもできませんでしたわ……」
「……うむ、そうか。わらわも、少しばかり事態を甘く見ておったようじゃな」
エヒメは手元に残った豚まんを見つめたまま、何か深い思索に沈むような顔を見せた。
食後、アナハが浴室へと向かった。
しばらくすると、薄いドアの向こうから、いつもの甘い声が漏れ聞こえてくる。
『主様ぁー。お城で出来なかったことします?』
『主様、どこが『元気』になってますの?』
『主様、お久しぶりにどうですかぁー?』
「何を久しぶりなんだ、 静かに入ってくれよ……」
やれやれとリビングの床に座り込んだ時。
対面に座るエヒメが、ポツリと静かに話し出した。
「紡、……悪かったな」
「何がだ? 急に」
「……我もな、少しばかり気がついておったのじゃ」
「エヒメ……」
「おぬしの持つ人間の枠が、徐々にこちら側(神域)へ傾きつつあることに」
「何を言っているんだ」
「……紡、おぬしの縁(糸)をここまで広げてしまったのは、我じゃ……」
「お前……」
「もう、宗像の三女たちの手を煩わす必要はない。……幕引きは……我がする」
「違う……」
エヒメの言葉を、俺は強い声で遮った。
俯くエヒメが、驚いたように顔を上げる。
「お前、俺がみんなと出会ったことを後悔してるとでも思っているのか?」
「しかし、このままではおぬしが……」
「俺はお前や、オトや、クレハやアナハ……みんなとの縁(糸)を、切りたいなんてこれっぽっちも思ってない!」
「紡……」
「そのために、宗像様の力が必要なんだろ? 」
俺はエヒメを真っ直ぐに見つめ、笑ってみせた。
「俺は神様に頼る情けない普通の会社員だ」
「だけどな、誰より前に立って、お前たちの痛みや因縁を全部受け止める、強固な盾役なんだ」
「何度倒れたって俺はまた立つ!」
「紡……おぬしという男は……」
エヒメの瞳に、涙が浮かぶ。
人間と神の垣根を越えた、確かな絆の確認だった。
まさに、その瞬間。
「……主様。今、何が『勃っている』のですか?」
湯気を立ち上らせ、バスタオル一枚を巻いたアナハが、濡れた髪を拭きながらリビングに顔を出す。
「…………」
「違う、そういう意味の『勃つ』じゃない!! 頼むから情緒を返してくれ!!」
頭を抱えて絶叫する俺。
我が家に、いつもの騒がしくも愛おしい夜が戻ってきた。




