第90章 主様はそんな顔をしませんわ
第90章 主様はそんな顔をしませんわ
深い光の底から浮き上がるようにして、俺はゆっくりと目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、大クスノキの巨大な幹と、その隙間から差し込む木漏れ日はいつしか光は傾き、『穴師の森』を真っ赤な斜光が染め上げていた。
……元の世界に、戻ってきたんだ。
千々姫様の『魂が神域のすぐ近くまで来ている』という言葉が、冷たい澱のように胸の奥に溜まっている。
俺はもう、本当に人間じゃなくなっていってしまうのだろうか。
「……そうか、俺はもう……」
じわじわと込み上げる恐怖に、俺は自分の手を強く握りしめた。
「……あなたは、誰ですか!?」
唐突に、すぐ隣から鋭い声が響いた。
驚いて顔を上げると、隣に座る小柄な女の子が、俺の顔をじっと覗き込み、不自然なほど深く首を傾げていた。
「えっ!? ……俺だよ、アナハ」
「いいえ、知りませんわ」
「……冗談だろ?」
「本当に知りませんわ」
アナハの冷たい視線に、俺の頭が真っ白になる。
まさか……。
千々姫様の言っていた『縁の異変』が、もう始まってしまったのか?
俺が神域に近づきすぎたせいで、アナハとの糸が消えてしまったというのか。
「そうか……。俺との縁(糸)が、もう切れてしまったのか……」
絶望のあまり視界が歪む。
これ以上ここにいたら、アナハを余計に困らせてしまう。
俺は彼女から離れようと立ち上がった。
その時。
「あなたは、アナハの主様ではありません!」
背後から、アナハが張り裂けんばかりの声で強く言った。
「えっ……!?」
振り返ると、アナハは立ち上がり、小さな拳をぎゅっと握りしめて俺を睨みつけていた。
その瞳には、赤い斜光に照らされた涙が浮かんでいる。
「わたしの主様は、そんな顔はしませんわ!」
「生まれつきこの顔だよ……」
「違いますわ! アナハの主様なら、こんな時『なんとかしろよエヒメ!』とか『どうにかならないのかアナハ!』とか『次の場所まで連れて行ってくれるか、クレハ!』って……」
「周りの神様を頼って……それでも、誰よりも一番前に立って……最後まで立ってるはずですわ!」
彼女の必死の叫びが、俺の胸にドスンと突き刺さる。
記憶が消えたわけじゃなかった。
「アナハ……そうだな、俺は……重装備にピンクのメイド服を纏った最強タンクだ」
俺は俯き頭を強く振った。
「……俺、そんなにひどい顔をしてたか?」
「ええ、最高に不細工でしたわ」
「ひどいな、そこまで言われると結構傷つくぞ……」
苦笑いしながら呟くと、アナハは急に顔を伏せ、ポロポロと大粒の涙を流し始めた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、主様……」
「いいんだよ、アナハ。俺の方こそ、情けないところを見せて悪かった」
「ごめんなさい、わたし……結局、何もできませんでしたわ……」
華奢な肩を震わせて泣くアナハの姿を見ていたら、不思議と胸の奥の恐怖が、綺麗さっぱり消え去っていくのが分かった。
俺はそっと手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。
「そんなことないよ。ほら、お前のおかげで俺、すっかり元気になったよ」
俺の手の温もりに安心したのか、アナハは涙を拭い、前髪の隙間からいつもの妖艶で、どこか悪巧みを孕んだ視線で俺を見上げてきた。
「……主様。アナハのどこを見て、どこが『元気』になったのですか? こんな神聖な境内のクスノキの木陰で、いけませんわ……」
「お前、なあ……。 頼むから感動的な空気を一瞬でピンク色に染め変えるな!」
呆れてツッコミを入れる俺を見て、アナハは嬉しそうに、愛おしそうに微笑んだ。
エヒメ様のさらに上にいる姉神。次なる目的地は決まった。
東京に戻って、まずはあの最年長の居候に、すべての事情を問い詰めてやる必要がある。
俺はアナハの手を引き、夕暮れの穴師の森を、今度はしっかりと前を向いて歩き出すのだった。




