第89章 栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
第89章 栲幡千々姫命
「主様、主様。……もうすぐお現われになりますわ」
アナハの掠れた声に揺り起こされ、俺ははっと目を覚ました。
だが、視界を開いた瞬間、息が止まった。
そこは、さっきまで並んで座っていたはずの静謐な『穴師の森』ではなかった。
見渡す限り、どこまでも白い雲が広がる空間。
足元に漂うそれは、まるでカシミヤを惜しげもなく敷き詰めたかのように柔らかく、清らかな光を放っている。
あまりの神聖さに、肌が粟立つ。
「穴織姫よ。来たのか」
いつの間にか、俺たちのすぐ近くに一人の美女が佇んでいた。
世界の形を美しく織り整える衣服の最高峰『栲幡千々姫命』だと一目で理解できた。
「はい、千々姫様。淡島様より、主様……この者に、次なる助言を授けてほしいと言われ、参上いたしましたわ」
「ふむ……。その人の子か」
千々姫様の深く澄んだ瞳が、まっすぐに俺を貫いた。
すべてを見透かされるような視線に、俺は声一つ出すこともできず、ただ圧倒される。
「穴織姫よ。おぬしのその『目』を以てしても、見えなかったのか?」
「……はい。わたくしの目は、糸を見すぎたことで授かった、ただの奇妙な目。雑に絡み合い、膨れ上がった縁(糸)のすべてを、見通すことはできませんでした」
あのアナハが、いつもの不敵さを完全に消し去り、畏れ多そうに頭を垂れている。
神話のど真ん中にいる神を前に、俺はただ喉を鳴らすことしかできなかった。
「わたしにまで会すとはな……。もう、その人の子の魂は、こちら側のすぐ近くにまで来ておるではないか」
「え……っ?」
千々姫様の静かな呟きに、俺の背筋に冷たいものが走った。
こちら側に近い? 俺はただの会社員でただの人間なのに、知らずにそんなところまで来ているというのか。
「なぜ……なぜ、こうなってしまったのですか、千々姫様。この因縁は一体……」
俺の聞きたかった疑問を、アナハが必死に声を絞り出すようにして代弁してくれた。
千々姫様は白い雲の海を見つめ、どこか哀愁を帯びた嘆息を漏らした。
「兄媛じゃな。あやつが、人に頼りすぎたのかもな……。それに……、弟媛か……」
その言葉に心臓が跳ね上がる。エヒメ、オト……。
千々姫様は何かを言い淀むように、ふっと視線を落とした。
「穴織姫よ。そちは、この者の縁(糸)を……切れるか?」
「えっ……!」
千々姫様の問いに、アナハが息を呑む。
待ってくれ。
糸を切る? それは俺とエヒメ様たち、みんなとの縁(糸)を切ってしまうというのか。
そんなこと、俺は望んでない……!
「……滅相もございません。わたくしごときの力では、絡みつくこれほど大いなる因縁を断ち切ることなど、到底不可能ですわ……」
「そうであろうな。……絡まり、縺れ、巨大な一つの布となってしまった糸を切り整えることは、我にもできる」
「……だが、それをすれば、この者の命そのものが損なわれかねん」
千々姫様は静かに首を振り、そのあまりにも美しい手で、遥か彼方の空を指し示した。
「兄媛のさらに上におる姉神に頼むのじゃ」
「そやつの持つ複雑すぎる縁(糸)を、正しく裁ち、美しく調和させられるのは……あの姉妹をおいて他にない」
エヒメ様の、姉……。
脳裏に、エヒメ様から聞いた『宗像三姉妹』の記憶が呼び覚まされる。
次の瞬間、視界が強い光に包まれ、足元のカシミヤの雲海が揺らいだ。
最高神からの言葉を刻み込まれた俺たちの意識は、ゆっくりと、元の『穴師の森』へと引き戻されていくのだった。




