第88章 穴師の森
第88章 穴師の森
駅のホーム。俺はスマホの乗り換え案内アプリで、目的地である泉大津駅までのルートを検索していた。
池田市からは四回もの乗り換えが必要だったが、二時間もあれば到着できそうだった。
「よし、アナハ。切符買うから券売機に行くぞ」
「主様。アナハは子供料金適応ですわ」
142センチの小柄な身長を誇るようにアナハが胸を張る。
「いや、身長的にはそう見えるかもしれないけど……」
「それに行政上の実年齢で言えば高齢者(千五百歳以上)ですので、シニア割引でもよろしくてよ?」
「一周回ってとっくに大人料金だから。はい、これでおとなしく切符買って」
「冗談ですわ。ちゃんとICOCがありますもの」
「先に言えよ……」
アナハはバッグから使い慣れた交通系ICカードを取り出し、改札機にスマートにタッチした。
和歌山でのクレハとの真っ直ぐな旅も楽しかったが、この一筋縄ではいかないアナハペースの日常も、なんだか懐かしくて妙に落ち着く。
ゴシックドレス風の黒のワンピースに、肩にかけられた繊細なレースのストール。
電車を待つホームでも、彼女はクレハとはまた違う意味で周囲の目を引いていた。
クレハが健康的な美しさなら、アナハはどこか浮世離れした人形のような美しさだ。
「なぁ、その服もアナハが自分で作ったのか?」
「そうですわ。アナハは自分で仕立てた物しか着ませんわ」
アナハは前髪の隙間から、妖艶に目を細めて俺を見上げた。
「以前、オトのカーディガンや、トラパーカーを着ていたじゃないか」
「 主様、よくアナハのことを見ておられますのね……。嬉しいですわ」
墓穴を掘った俺の動揺を楽しそうに眺めながら、アナハは上品に微笑んで電車に乗り込んだ。
揺れる電車の中、俺は本題である最高神について尋ねてみた。
「それで、タクハタチヂヒメ様って、具体的にはどんな神様なんだ? 衣服の神様たちの頂点なんだろ?」
「ええ。世界の形を美しく織り整える、大いなる秩序の女神ですわ」
アナハの声音から、いつもの茶化すような気配が消え、神としての真摯な響きが混ざる。
「彼女の織る『神御衣』は、天上の神々に捧げられる至高の衣服」
「……武力による支配ではなく、万物を優しく包み込んで調和させる『和』の力。その織物の力が、主様を真の調和へと導くのではないでしょうか」
世界の形を織り整える神……。
淡島様が『会わねばならぬ』と言った意味の重さを、俺は改めて痛感していた。
泉大津駅で電車を降り、歩くこと十数分。
辿り着いたのは、鬱蒼とした緑に囲まれた歴史ある古社、『泉穴師神社』だった。
「ここなのか? タクハタチヂヒメ様が祀られているのは」
「ええ。彼女はとても夫婦円満ですので、いつも旦那様(天忍穂耳尊)のすぐ近くにおられるのですわ」
「へえ、夫婦円満のご利益もあるんだな」
「……嫌ですわ、主様。こんなところに連れて来なくても……アナハと主様は円満ですわ」
「アナハ、お前が連れてきたんだ……」
鳥居をくぐると、拝殿の前には珍しいことに二つの鳥居が並んで立っていた。
それがまさに、一対の夫婦神を大切に祀るこの神社の由緒を表しているようだった。
ふと、参道脇の手水舎に目を留めた俺は驚いて声をあげた。
「アナハ、見ろよ。この手水舎の水の出口、龍じゃなくて『羊』の頭になってるぞ」
「ふふ、この泉大津という街は、古くから毛織物……つまり羊毛の加工で日本一を誇る街ですからね。衣服の神様との縁も、これ以上ないほど深いのですわ」
「なるほど、羊毛の街か……」
「主様、こちらですわ」
アナハは拝殿の前を離れ、神社の奥へと広がる広大な『穴師の森』へと足を進めた。
一歩足を踏み入れると、街の喧騒が嘘のように消え去り、厳かな静寂が満ちていく。
アナハが足を止めたのは、ひときわ巨大な、圧倒的な存在感を放つ大クスノキの木陰だった。
木漏れ日が、静かに俺たちを照らす。
アナハはその巨木の根元に腰を下ろし、小さく息をついてクスノキの幹に背を預けた。
彼女の隣で、俺も静かに腰を下ろした。




