第86章 絡まる糸の行方
第86章 絡まる糸の行方
境内の案内図や説明書き、その中のひとつに目を留めた俺は、ふと首を傾げた。
「……『穴織大明神』? クレハ、ここ、アナハの神社だよな? アナハじゃなくてアヤハって書いてあるぞ」
「あはは、神様の名前にはいろいろあるんよ。あの子は『漢織』とか『穴織媛』とも言われとるな」
「神様によってはな、もっとたくさん名前のある神様もおらはるわ」
ひと通り境内を歩き、静まり返った拝殿の前へと戻ってくる。
夕暮れの赤い光が、静かに境内を染めていく。
いよいよ、クレハの居候生活を終え、この土地へ残る刻が来てしまった。
俺はクレハに向き直り、少し照れくささを隠しながら言葉を掛けた。
「……和歌山でも、本当に世話になったな。またいつでも、俺の部屋に遊びに来いよ」
「紡くん……」
クレハは寂しそうに眉を下げ、愛おしそうに俺を見つめた。
「ウチも、紡くんと一緒に過ごせて、本当に楽しかったわ」
そう呟いた瞬間、クレハが一歩踏み出し、俺の胸にそっと身を預けてきた。
柔らかな髪から、微かに洗いたての衣服のような清らかな香りが漂う。
離れがたい切なさに胸を締め付けられながら、俺は愛おしさを込めて、彼女の背中にそっと手を添えた。
夕陽に包まれた、二人だけの美しい別れの時間……。
「あらあら、主様? わたしの神社の境内で、堂々と浮気でしょうか?」
「うおっ!?」
聞き覚えがありすぎる、甘い声。
それが、あろうことか密着しているはずの俺とクレハの胸の間から聞こえてきた。
いつの間に潜り込んだのか、アナハが俺たちの隙間に割り込み、俺の胸元に自分の顔を押し付けながら、俺を見上げていた。
「アナハ! いつからそこに……っ!?」
「ふふ、主様がクレハの姉様とイチャイチャし始めた瞬間からずっとですよ? 」
「相変わらず主様は、わたしの目を盗んで他の女の糸を手繰るのがお上手ですねぇ……?」
一瞬で境内の空気が、感動の別れからドロドロとした修羅場へと塗り替えられていた。
境内のベンチの俺とクレハの間に座るアナハが頷く。
「なるほどですわ。その『栲幡千々姫命』に、主様の身に絡みつく神への縁(糸)を診てもらう……ということですわね?」
「そうなんだよ。その千々姫様を祀っている神社は、ここ大阪だけじゃなくて、福島や京都、奈良、遠くは九州にまであってさ」
「全国に多すぎて、一体どこに行けば本尊の神様に会えるのか分からなくて困ってるんだ」
俺が事情を説明すると、アナハは自信満々に胸を張った。
「ふふん、そういうことなら『このアナハ』……いえ、『あなたのアナハ』にお任せですわ!」
「いちいち言い換えなくていいから……」
それまで微笑ましく俺たちを見ていたクレハが、立ち上がりアナハを見る。
「じゃあアナハ、紡くんのこと頼んだよ!」
「お任せください、クレハ姉様。……ふふ、これでクレハ姉様にも『公認』されましたわ……っ」
アナハは両頬に手を当てて、借りてきた猫のように初々しく身悶えしている。
——いや、絶対にお前の思っている意味じゃないからな?
しかし、当のクレハはそんなアナハの妄想など気づいていない様子で、背を向けた。
「紡くん、またねー! 」
高台の参道を下りながら、クレハはちぎれそうなほど激しく大きく両手を振り返してくる。
その姿は、夕暮れの光の中でどこまでも眩しかった。
「ああ、またな……」
俺も大きく手を振り返す。
少しだけ目頭が熱くなるのを感じていた。
クレハの姿が坂の向こうへ完全に消え、静まり返った境内に戻る。
余韻に浸る俺の腰に、背後から。今度は遠慮なく、ぎゅっと細い腕が回された。
「……またね……またな……二股ですわ」
「は?」
耳元で、アナハが嫉妬の炎を燃やしながら、じとっとした視線をぶつけてくる。
これから始まる最高神の捜索。
その前途は、淡島様が言っていた『神への縁』よりも遥かに複雑で、ドロドロに絡み合った糸に阻まれているような気がしてならないのだった。




