第82章 消えなかった笑顔
第82章 消えなかった笑顔
目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、淡島神社の境内の端にある、木製のベンチだった。
夢だったのだろうか。
いや、あの厳かな淡島様の気配も、手のひらの上で感じた折れた針の重みも、決して幻なんかじゃない。
だけど、俺の心臓は別の理由で激しく脈打っていた。
これまでオトやアナハの神としての姿、あの『神御衣』を目撃した後、彼女たちはいつも、俺の前から姿を消してしまっていた。
だから今回も、目覚めたらクレハがいなくなっているんじゃないかと、無意識に恐怖がよぎったのだ。
しかし……俺の頭の下には、驚くほど柔らかくて、温かい感触があった。
ゆっくりと視線を上げると、そこには俺を覗き込んで微笑む、いつものクレハの笑顔があった。
俺は、クレハの太ももの上に頭を乗せ、膝枕をされた状態で目覚めたのだ。
「クレハ……居て、くれたんだな」
そこに彼女がちゃんと残ってくれていることに、心の底から安堵した。
情けない声を出した俺の額を、クレハは小さな手で優しく撫でてくれる。
「そうやで。『家に帰るまでが遠足』っていうやろ。主を置いて先に帰るわけないやん」
「……遠足にしては、色々ありすぎたけどな」
「確かにそうやね」
俺の言葉に、クレハはと屈託なくケラケラと笑った。
ベンチから起き上がると、海からの心地よい風が俺たちの間を吹き抜けていく。
その後、俺たちは駅前で大量のお土産を買い込み、和歌山からの帰路についた。
電車のシートに並んで座り、俺の部屋へと向かう道中。
窓の外を眺めるクレハの横顔を見ながら、俺はほんの少しだけ戸惑っていた。
旅に出る前とは、何かが少しだけ違う。
言葉にできないほど微かだけれど、確かに縮まった彼女との物理的、そして心の距離感に、俺の心臓は妙な高鳴りを覚え続けていた。
「ただいまー……」
長旅の末にようやくたどり着いた我が家のドアを開けると、見慣れた光景が広がっていた。
「エヒメ、ただいま」
「おう、帰ってきたか。遅かったではないか。どうじゃった?」
リビングでは、いつものようにくつろぐエヒメだけでなく、なぜか佐藤さんまで一緒に並んで座っていた。
「佐藤さんも居たんだね。……エヒメ、淡島様にちゃんと会えたよ。佐藤さんの針のことも……」
「ふむ、その話はあとでよい。それよりお土産はどうじゃったか? 我はそれを聞いておるのじゃ」
神様への神聖な報告よりも、目先のごちそうを最優先するエヒメに、俺は思わず脱力した。
「お前、一応神様だろ。バチ当たりだぞ……」
「神とて腹は減るのじゃ!」
「じゃあ、買ってきたこれ食べよ!」
呆れる俺の横で、クレハが、お土産の袋からご当地名物の『和歌山ラーメン』の生麺パックを取り出した。
俺と佐藤さんで台所に立ち、手際よく麺を茹で、濃厚な豚骨醤油のスープを器に注ぐ。
テーブルに並んだ四人分の和歌山ラーメン。
「おお、美味そうじゃ!」
エヒメは声を弾ませ、佐藤さんも嬉しそうに割り箸を割った。
「いただきます」
コクがあるのに後味がすっきりとした本場の味が、旅の疲れが残る身体にじんわりと染み渡っていく。
にぎやかに箸を進める彼女たちを見つめながら、俺は和歌山での奇妙な体験を思い返していた。
佐藤さんの針の謎は解けた。しかし、淡島様が最後に残した『袴幡千々姫』という言葉。
俺の身体に絡みつく、強すぎる神への縁。
熱いラーメンの湯気の向こうで笑う服飾の神々を見つめながら、俺はこれから始まる新たな展開への予感を、静かに胸の奥へとしまい込むのだった。




