第80章 クレハの神御衣
第80章 クレハの神御衣
旅館の朝。パチリと目を覚ました俺は、自分の視界に飛び込んできた光景に戸惑った。
なぜか、隣の布団にいたはずのクレハが俺の布団に入り込んで、すぐ目の前で丸くなって寝ていたのだ。
しかも宿の浴衣が少しはだけており、すらりと伸びた綺麗な足と、緩んだ襟元からは目のやり場に困る胸の谷間が見えている。
「……クレハ」
俺は首を振り、湧き上がる邪念を振り払うように起き上がった。
その気配で、クレハがうっすらと目を覚ます。
「ん……紡くん、おはよう……」
「お、おはよう。……なぁクレハ、なんでこっちの布団で寝てるんだ?」
「えっ? ああ……」
クレハは自分の状況に気づくと、顔をほんのり赤くして、頭の後ろをかきながら照れくさそうに笑った。
「まあ……部屋での癖ちゃうかな」
いつもベッドを半分こしているせいで、身体が勝手に中央に寄ってしまったらしい。
環境の慣れとは恐ろしいものだ。
宿をチェックアウトし、目的地である淡島神社へと向かう。
俺が着ている白いTシャツの胸元には、昨日とは違う新しい刺繍が施されていた。
昨夜の絶望的な手刺繍ハートマークは綺麗に解かれ、代わりに生地と同系色の白い糸で、目立たないように幾何学的な『菱目模様』が細かく縫い込まれている。
「それも、昨日言うとった魔除けと同じ意味やで」
俺の胸元を見ながら、歩調を合わせて歩くクレハが教えてくれた。
「『四つ菱』いうてな、強固な守備を意味するんや。これなら街中で着ても恥ずかしくないやろ?」
「ああ、本当に助かるよ。……しかし、日本の伝統的な模様にそんな意味があったんだな」
「そうやで。……しかし紡くん、今までそういう魔除けの刺繍とか、どうしとったん?」
「刺繍か……。刺繍と言えば、前にアナハが俺の服に『ANAHA 主様 LOVE』とか『売約済』とか、酷すぎる文字を勝手に刺繍してきたことくらいだぞ」
思い出すだけで恥ずかしい過去の被害を口にすると、クレハは一瞬きょとんとした後、お腹を抱えてケラケラと笑い出した。
「あはは! なるほどなぁ! でもそれな、アナハなりに必死やったんやと思うよ」
「それは『アナハの所有物』っていう意味での、一種の強烈な『結界』みたいなもんやからね」
「結界……あの文字がか?」
「そうや。他の神様や怪異に『これはウチの主やから手を出すな』って威嚇しとるんよ」
そうだったのか……。あの時はただの暴走だと思っていたが、彼女は彼女なりに、不器用な方法で俺を他の怪異から守ろうとしてくれていたのかもしれない。
そう思うと、なんだか少し愛おしい気持ちになった。
そんな話をしながら歩いているうちに、俺たちは加太の『淡島神社』へと到着した。
境内には、全国から集められた無数の人形が整然と並んでおり、独特の厳かな空気が満ちている。
拝殿で並んで参拝を済ませ、パンパンと柏手を打つ。
「さて……参拝は済ませたけど、これからどうするんだ?」
「淡島様が出てきてくれるまで、ここで『待ち』やな……」
「待ち、か。……でも、こんな真昼間で他の参拝客もたくさんいるのに、神様がそう簡単に現れることはないよな?」
「そうやな。まぁ、のんびり待とうや」
俺たちは境内の端にあるベンチに腰掛け、海からの風を感じながら静かに時間を待つことにした。
心地よい潮騒の音と、旅の疲れ、そしてどこか神秘的な境内の空気に包まれているうちに、俺は抗えないほどの猛烈な眠気に襲われた。
気がつけば意識を失うように深く眠り込んでいた。
……トントン、カラリ……トントン、カラリ。
規則正しい、小気味よい音が耳に響く。
ゆっくりと目を開けると、そこは神社の境内ではなかった。一面に白い霧が立ち込める、静寂に包まれた不思議な空間。
その中心で、クレハが静かに機織り(はたおり)をしていた。力強く、そして狂いのない均一な動きで糸を織り進めている。
「……クレハ」
俺が声をかけると、彼女は機織り機から静かに立ち上がり、俺のほうへと歩み寄ってきた。
その時、俺は彼女が纏っている衣装に目を奪われた。
「それが……お前の『神御衣』なのか?」
クレハは何も言わず、ただ優しく微笑んで小さく頷いた。
その姿は、真っ白い生地に見事な地文様が入り、衣服の随所には、金色の糸で繊細に紡がれた葉や果実の刺繍が施されていた。
光を浴びてキラキラと輝くその刺繍は、息をのむほどに美しい。
そして何より、俺がこれまで見てきたオトやアナハの神御衣とは決定的に違っていた。
クレハの神御衣は、袖も裾も驚くほど短く仕立てられており、布地の重なりも最小限に抑えられている。どこまでも動きやすく、風のように軽い、神御衣。
美しき織り手となったクレハが、白い霧の向こうから、そっと俺の手を取るために手を伸ばしてきた。
「……かっこいいな。クレハ」
いつだったか、エヒメの言葉を思い出す。『クレハの神御衣は面白い』と。
目の前で風を纏うように佇む彼女の姿を見て、その意味が俺にはやっと理解できた。




