第78章 和歌山の夜
第78章 和歌山の夜
山道を抜け、夕闇が迫る頃にようやく目的の安旅館へとたどり着いた。
俺は宿に入る直前、あの恥ずかしい手刺繍ハートマークTシャツを隠すために、慌ててバッグから薄手のパーカーを引っ張り出して羽織った。
ジッパーを一番上までキッチリと上げる。
旅館の女将は、なぜか俺の住むマンションの管理人にどこか雰囲気が似ていた。
部屋に招かれ、荷物を下ろして畳の上に座ると、ようやく緊張の糸が切れた。
クレハと二人で座卓を挟んでくつろぐ。
「……ひどい目に遭った」
「『機尋』のこと?」
クレハが不思議そうに首を傾げる。
「いや、この『ハートマークTシャツ』のことだよ。恥ずかしさで死ぬかと思ったぞ」
「だから『猪の目』だって」
「まぁ……でも、助かったよ。ありがとう、クレハ」
文句を言いつつも、俺を助けるために神速で刺繍をしてくれた彼女に素直に礼を言うと、クレハは嬉しそうに目を細めた。
「『厄除け』や『魔除け』は、昔から『身を守る』ことや『結界』として、着物の模様によう使われてたしなぁ」
「そうなんだ?」
「そうやで。同じ意味を持つものやったら、『籠目』や『鱗』、それに『麻の葉』の模様なんかもあるんやで」
「……そうか。じゃあ、次から魔除けが必要な時は、絶対にそっちの模様にしてくれ。……頼むから」
そんな話をしながら待っていると、夕食の時間がやってきた。
安旅館のプランを予約したつもりだったが、机に並んだ料理は想像以上に豪華だった。
勝浦の生マグロやクエ鍋、熊野牛といった最高級品までとはいかないまでも、大ぶりの南高梅、名物のほうらく焼き、そして 獲れたての新鮮な魚介類が所狭しと並んでいる。
「わあ、美味しそう!」
クレハはと目を輝かせ、大喜びで箸を進めていた。
彼女の気持ちいい食べっぷりを見ているだけで、こちらの疲れも癒えるというものだ。
食後、別れて温泉の湯に浸かった。
長旅と怪異からの逃走で強張っていた身体が、温かいお湯にじんわりと解きほぐされていく。
先に風呂から上がって部屋で涼んでいると、しばらくしてクレハが戻ってきた。
「ふぅー、ええお湯やったわぁ」
パタパタと手で顔を仰ぎながら入ってきたクレハの姿に、俺は思わず息を呑んだ。
湯上りの彼女は、宿の浴衣を身に纏っていた。
いつもアクティブな短パン姿の彼女が、しっとりと髪を濡らし、ほんのり肌を赤らめて浴衣を着ている姿は、恐ろしく色っぽい。
しかも、服飾の神々の眷属だけあって、浴衣の着こなしが計算されてるように美しい。
これ以上凝視するのは男として理性が危ない。
俺は無理やり意識を逸らすために、お茶をすすりながらクレハに問いかけた。
「なぁ、明日行く『淡島様』って、そもそもどんな神様なんだ?」
「ん? 淡島様はな、裁縫上達や針供養の神様や」
「へえ、佐藤さんの折れた針の原因を探るには、まさにうってつけの場所だな」
「そうやね。あとはな……女性の病気平癒や、安産のご利益もあるんやで」
「そうなんだ……。男の俺が行くのは、なんだか場違いみたいな感じがするな」
少し気後れする俺の前に、クレハが近づいてきた。
そして、畳の上にすっと腰を下ろすと、上目遣いで俺を見上げてくる。
「紡くんは子供好き? ……欲しい?」
「え? ああ、嫌いじゃないよ。いつかは、な……」
突然の質問にドギマギしながら答えると、クレハは俺の手をそっと取り、自分の小さな両手で優しく包み込むようにしてぎゅっと握りしめた。
湯上りの彼女の手の温もりが、ダイレクトに伝わってくる。
「じゃあ……」
「……なんだよ」
ごくり、と唾を呑む。
クレハは満面の、これ以上ないほどピュアな笑顔で言った。
「頑張って産んでね、応援するよ!」
「俺が産むんかい!!」
思わず盛大にツッコミを入れたその瞬間、ガラリと部屋の襖が開いた。
「はーい、お布団敷きにきましたよー」
いつの間にか入ってきた女将さんが、テキパキと畳の上に布団を敷き始める。
そして、俺とクレハの顔をじろりと見比べると、どこか既視感のあるトーンで淡々と言い放った。
「今日は他のお客さんの組数が少ないんでね、静かじゃし……夜は静かにやっとくれよ?」
――どこかで聞いたセリフだった。
女将さんが去った後、部屋の中央には、綺麗にぴったりと隙間なく並べられた二組の布団が残されていた。
旅先での男女の一泊、そして並んだ布団。
普通の男なら完全に社会的・倫理的に戸惑うシチュエーションなのだが。
……俺はふと、冷静になって考えた。
よく考えれば、俺はいつも我が家の狭いベッドで、クレハと半分こして寝ているのだ。
むしろ、一人一組分のスペースが確保されている分、いつもより健全で、広々と寝られるのではないだろうか?
そんな完全に麻痺した常識を脳内で展開しながら、俺は和歌山の夜の静寂に、そっと身を委ねるのだった。




