第77章 機尋(はたひろ)
第77章 機尋
「紡くん、この前のオムライス食べてなかったら危なかったなあ」
ようやく呼吸が整ってきた俺の横で、クレハがけろっとした顔で笑いながら言った。
「オムライス……? ああ、あのケチャップで描いてあった『猪の目』のことか」
「そや。あの魔除けの効果がまだ残っとったんとちゃうか? ……知らんけど」
「知らんけどって、適当なやつだなぁ」
緊張がほぐれ、そんな風に笑い合っていた、その時だった。
クレハの笑顔が不自然に凍りつき、その目つきが野生の獣のようにまた鋭くなった。
何かに気づいたように、さっき逃げてきた山道の先へと視線を固定している。
「……どうしたんだ、クレハ?」
「アレは、ただの出来損ないとちゃうわ……『機尋』やわ……」
クレハはそう呟きながら、肩に掛けていたメッセンジャーバッグを地面に下ろし、ジッパーを開けて何かをごそごそと探し始めた。
「機尋……? さっき言ってた、捨てられた布の怪異だろ?」
「そうや。でも今来とるやつは、出て行ったきりの旦那の帰りを、機を織りながらずっと待ってた妻の執念が布に乗り移ったやつやわ」
カバンの中をせわしなく漁るクレハが、見るからに厄介そうな顔をする。
「……強いのか?」
「かなり執念深くてしつこいんや。人の未練が入っとるからね」
そう言いながら、クレハがカバンの中から取り出したのは……小さな針と、赤い糸の束だった。
「クレハ、今度こそ、それで戦うんだな!」
その小さな針が聖剣のように光り輝きながら巨大化し、赤い糸がうねりを上げて『機尋』をぐるぐる巻きに縛り上げる。
俺のゲーマー脳では、格好いい彼女の戦闘姿がありありと浮かんでいた。
しかし、クレハは俺の妄想など知る由もなく、今度は俺のバッグを勝手にガサゴソと漁り始めた。
「おい、何を探してるんだ?」
「あった、コレや!」
クレハが引っ張り出してきたのは、俺の着替え用の真っ白なTシャツだった。
彼女は信じられないスピードで、俺の白いシャツに赤い糸を通していく。
ものの数十秒で彼女は手を止め、そのシャツを俺の胸元にビシッと差し出してきた。
「紡くん、これを着て!」
「……は?」
手渡された白いTシャツを見る。
そこには、あの魔除けの『猪の目』が、赤い糸によって胸の真ん中にデカデカと手刺繍されていた。
丁寧に手刺繍されたせいで、どこからどう見ても『恋に恋する男の、ダサすぎる真っ赤なハートマークTシャツ』にしか見えない。
「こんなもん着れるか! 罰ゲームだろ!」
叫んだ俺の言葉と同時に、周囲の空気が一気に凍りついた。
山道の暗闇から、バサバサと不気味な音を立てた。
意思を持った巨大な大蛇のような白い布……『機尋』の本尊が、俺たちに追いついてきたのだ。
「紡くん、はよ着て!!」
「ちくしょう、分かったよ!!」
プライドのデッドラインを越えるか、怪異に物理的に殺されるか。
究極の二択を迫られた。
俺は、半ば涙を浮かべながら、その絶望的に恥ずかしいハートマークTシャツへと、勢いよく頭を突き通すのだった。
着用が完了したのと、ほぼ同時だった。
バサバサと不気味な音を立てて、地を這うように滑り込んできた『機尋』が、俺たちの目の前でピタリと動きを止めた。
凄まじい威圧感を放ちながら、まるで鎌首をもたげるようにしてこちらを凝視している。
『機尋』の視線が、俺の胸の真ん中でデカデカと輝く真っ赤な『猪の目』に注がれたような気がした。
……数秒の、奇妙な沈黙が流れる。
突如、ズルルッ、と不気味な音がした。
そして次の瞬間。
その意思を持つ白い怪異は、何をするでもなく、そのままスルスルと滑るようにして、さっき来た山道の奥へと静かに帰っていったのだ。
「……え?」
拍子抜けした俺は、差し込む夕日の中で呆然と立ち尽くした。
去り際、あの『機尋』の裂けた口が、気のせいか、俺のダサすぎるハートマークTシャツを見て、哀れむように笑っているようにしか見えなかったのは……。
……気のせいだと思いたい。
精神的に甚大なダメージを負った俺は、誰にも見つからないことを祈りながら、恋に盲目な男のような姿で加太の海沿いをトボトボと歩き出すのだった。




