第76章 百年になれなかったもの
第76章 百年になれなかったもの
連休の朝。俺はクレハと駅前に向かった。
目的地は和歌山の加太にある『淡島神社』だ。
券売機で切符を買い、改札前に向かおうとしたところで、さっきまで後ろにいたはずのクレハの気配が消えていることに気がついた。
「あれ、どこ行ったんだ?」
慌てて振り返り、駅のガラス戸越しに外を見る
――なぜか彼女は入念にアキレス腱を伸ばす準備体操をしていた。
「クレハ、何してんだ。電車に乗るぞ」
「あ、紡くん! じゃあ、加太駅まで競争やね!」
「しないから……ほら、早く来い」
俺は心の中で『飛脚かよ……』とツッコミを入れる。
「そうやな、今日は着替えの荷物もあるから仕方ないわ」
「いや、荷物が無くても和歌山まで走れるわけないだろ。電車一択だ」
そんなやり取りを経て乗り込んだ電車の中では、クレハは窓の外を流れる景色を子供のように楽しんでいた。
数度の乗り換えを挟む長旅だったが、彼女は終始退屈する様子もなく、通り過ぎる山や川を珍しそうに眺めていた。
ようやく目的地の最寄り駅に到着した時には、すでに昼を大きく回っていた。
ここから予約してある安旅館へはバスで行く予定だったが、駅前の停留所で時刻表を見ると、次の便までかなりの待ち時間がある。
「待つのも退屈だし、歩くか。そんなに遠くなさそうだしな」
そう判断して歩き始めたものの、田舎の距離感を完全になめていた。
道は次第に民家がまばらになり、気がつけば鬱蒼とした人気の少ない山道へと入っていく。
木々に遮られて日差しが届かない道は、妙にひんやりとしていた。
「あれ、もしかして道間違えたか……?」
スマホの地図を確認しようとポケットに手を伸ばした、その時だった。俺たちの目の前を、何かが凄まじいスピードで横切った。
ガサリ、と草むらが揺れる。クレハがサッと俺の前に動き、一瞬で鋭い警戒の目を光らせた。
「今の、なんだ? 俺には何か、白い長い布のようなものに見えたが……」
「アレはやな、付喪神になれへんかった、怪異や」
「付喪神……?」
「そうや。道具は100年経てば神、つまり付喪神になるんやけど、その前に大事にされんと捨てられた布や糸の未練が、ああやって暴れてるんや」
その『捨てられた布の怪異』という言葉が妙にリアルで、少し切なく響く。
「どうするんだ? 退治とか成仏とかするのか?」
「ウチに任せておき!」
「お、おう……」
クレハは自信に溢れた笑顔で俺を振り返ると、ぎゅっと俺の手を強く握りしめた。
その掌の力強さに驚く間もなく、彼女は有無を言わさぬ全速力で走りだした。
「おいっ!? 退治とかじゃないのかよ!?」
ものすごい風圧に顔をしかめながら叫ぶ俺に、クレハは楽しそうに前を向いたまま答える。
「ウチは払い屋じゃないからな! 逃げるが勝ちや!」
圧倒的な脚力に引っ張られ、俺は必死に足を動かした。
韋駄天並みのスピードで山道をしばらく駆け抜け、海が見えてきたところで、俺はたまらず声をあげた。
「クレハ、頼む……少し休ませてくれ! 心臓が止まる……っ!」
「あはは、お疲れさん!」
ガードレールに手をついて、激しく肩で息をする俺の横で、クレハは息一つ乱さず、不思議そうに首を傾げた。
「……クレハ、いつもこんなことしてるのか?……お前らの世界じゃ普通なのか?」
「うううん、あんなのに出会うなんて滅多にないよ?わざわざ神の前に出てくる怪異もおらんて」
「……そうなのか?」
「 紡くんの方こそ、普段から色んな神様に懐かれてるし、そういうのを引き寄せとるんやわ、きっと」
「怪異をナマで見たのは初めてだよ……」
ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、俺はゆっくりと上体を起こした。
ポケットの中の、佐藤さんから預かった折れた針の袋をそっと触る。
これから向かう淡島神社への旅路が、想像以上に一筋縄ではいかないことを予感させるには、十分すぎる幕開けだった。




