第69章 猪の目
第69章 猪の目
掃除機と太ももを巡る怒濤の誤解がようやく解け、部屋に平和が戻った。
名誉挽回とばかりに、茅春が俺のキッチンの前に立ち、エプロンを締め直して手際よくフライパンを振り始める。
「へえ、茅春、ちゃんと料理できるんだな」
その慣れた手つきに俺が感心すると、茅春は少し得意げに胸を張った。
「失礼ね、これでも普段からちゃんとしてるわよ。どっちかっていうと得意な方なんだから!」
「ふん、なんじゃ。料理なら我も得意じゃぞ?」
ゲーミングチェアにふんぞり返ったエヒメが、負けじと張り合ってくる。
すかさずクレハが疑いの目を向けた。
「姉様が料理なんてほんまか? 想像つかへんわ」
「極めたのじゃ! あの、ネオバターロールの――」
「エヒメ、ネオバターロールの話は二度とするな。俺には一生のトラウマだ」
「はい、お待たせ! 特製オムライスよ」
座卓を囲み、全員の前に綺麗な黄色のオムライスが並ぶ。
茅春は自分のオムライスの前に座ると、ケチャップを手に取り、器用に赤い線を描き始めた。
出来上がったのは、綺麗なウサギの絵だ。
「お、上手だな」
「ふふん、これくらい余裕よ」
俺が素直に褒めると、茅春はと、嬉しさを隠しきれない様子で口元を緩める。
それを見たエヒメが、オムライスを前に身を乗り出した。
「おぬし、なかなかやるな! では我のオムライスには、我がネトゲで愛用しておるあの誇り高き漆黒の『黒ヒョウ』を描くのじゃ!」
「えっ、黒ヒョウ!? ……う、うーん、こう、かしら……?」
茅春が眉間に皺を寄せながらケチャップを絞り出す。
結果、出来上がったのは、どう見ても丸っこくて可愛らしい「猫」だった。
「……まあ、我の神の眼から見れば及第点じゃ!」
エヒメ嬉しそうにスプーンを握りしめている。
「あ、ウチも書きたい! 貸して!」
今度はクレハがケチャップを奪い取り、自分のオムライスに向き合った。迷いのない手つきでサラサラと描き、ドヤ顔で俺に見せてくる。
そこに描かれていたのは、見慣れた『黒い猫の親子』のマークだった。
——そこはやっぱり『飛脚』じゃないんだな
俺が心の中で静かにツッコミを入れていると、クレハがキラキラした目で俺のオムライスを指差した。
「よし、紡くんのやつにもウチが書いたるわ! どんなんがいい?」
「そうだな……これ以上この部屋でトラブルが起きないように、何か縁起のいいやつにしてくれ」
「わかったわ、任せとき!」
クレハはそう言うと、俺のオムライスの真ん中に、綺麗で大きめの『ハートマーク』を描き、その周りに小さい『ハートマーク』をいくつも描き出した。
「ちょっ、ちょっと何それっ!?」
それを見た茅春が、顔を真っ赤にしてガタッと立ち上がった。
「クレハちゃん、何アピールしてるのよ! 紡にハートマークなんて描かないで!!」
激しく取り乱す茅春をよそに、クレハは不思議そうに小首を傾げた。
「なんや茅春、これを知らんのか? これは『猪の目』やで?」
「いの、め……?」
茅春がポカンと口を開ける。
クレハは職人の神様らしい、真剣で知性的な眼差しで俺のオムライスを見つめた。
「そうや。日本に古くから伝わる伝統文様や」
「神社の建築金具や刀の鍔、衣服の刺繍にもよく使われるんやで。文字通り、猪の目の形をしてるから『猪の目』」
クレハは人差し指で、ケチャップのハートマークをなぞるように示した。
「古来より、厄除けや火除けの紋様として使われとるんや。その鋭い目力で、邪気を払うと言われとる」
「紡くんに悪いものが憑かんように、魔除けとして描いてあげたんや」
「ま、魔除け……」
茅春が気まずそうに、ゆっくりと席に座り直した。
俺は、ケチャップで描かれた真っ赤な『猪の目』を見つめる。
「……火除けの文様か」
俺は別の意味での火除け(修羅場回避)を心の底から祈りながら、クレハのくれた魔除けのオムライスを、スプーンで口へと運ぶのだった。




