第65章 デッドラインの内側
第65章 デッドラインの内側
「紡よ、これを見よ!」
モニター前のゲーミングチェアに座るエヒメが、満足げな声をあげてクルっとこちらに向いた。
「なんなんだ?ダンジョンに合わせて装備を軽量化したのか?」
「そんな、情けない妥協を我がするわけなかろう。これじゃ、これを見るのじゃ! 『騎乗ペット』じゃ!」
エヒメが指でビシッと画面を指し示す。
モニターの中には、大盾を持つピンクのメイド服の重装備タンクが、黒ヒョウにまたがっていた。
「エヒメ、こんな最高レアな『騎乗ペット』よく手に入れたな!」
「ふふっ、紡よ、おぬしはまだ我の『神引き』を信じておらぬな……」
ふんぞり返るエヒメの態度に、俺は嫌な予感がして目を細めた。
「……それで、一応聞くけど。俺がコツコツ貯めてたガチャコイン、何個使ったんだ?」
「全部じゃ!」
「だから、それは『神引き』とは言わないんだよ!」
せっかく奮発してローストチキンを買ってきてやったのに、その裏で全財産を溶かされていたとは。
俺は精神的な疲労のあまり、そのまま自分のベッドへとバタリと倒れ込んだ。
「……紡くん」
枕元から、不意に鈴の鳴るような声が聞こえた。
見上げると、白のスポーツブラに黒の短パン姿のクレハが、ベッドの横でじっと俺を見下ろしていた。
「……そうか、悪いな。ベッド使っていいぞ。俺は適当に床で寝るから」
「ちゃうって、もう少しつめてほしいだけや」
俺はクレハにぐいぐいと押され、そこにクレハは寝転がった。
「紡くん、姉様、おやすみ」
クレハは無防備に目を閉じると、数秒後にはすやすやと規則正しい寝息を立て始めた。
やはり、こうなってしまった。
諦めて、少し離れ、そのまま寝ることにした。
「紡……紡くん」
「……ん、なんだ?」
「朝やで、早う起きんと会社遅刻すんで?」
肩をぐいぐいと揺すぶられ、重い瞼を開くと、カーテンの隙間から見える窓の外はまだ暗かった。
時計を見る、朝の四時だった。
「クレハ、俺は会社員だ。パン屋でも豆腐屋でもないぞ……」
「紡は、ここから会社までそんなに早く行けるん?」
「ああ、電車で三十分もかからないよ……って、俺が毎日走って通勤してると思ってたのか?」
「なんや、そうなんや。みんな時間の感覚も距離の感覚も、なんかおかしいなぁ」
彼女はそう言って、腕を俺の胸に回し足を絡めて、目を閉じた。
——クレハ、お前が他人の距離感のことを言うのは、まだ早いぞ……。
起きる時間にも、まだまだ早すぎた。
その日の、会社の昼休み。
俺は社員食堂で、茅春と向かい合って昼食をとっていた。
「紡、どうしたの?眠そうな顔ね?」
茅春が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「そうなんだ、四時に目が覚めてな……。その後もあまり寝れなくて」
「目覚ましの時間、かけ間違えたの?」
「……いや、時間より『距離感』の方がバグってるんだよ」
「何の話よ?」
わけがわからないといった風に首を傾げる茅春。
「何でもないよ、それより茅春。『体育会系』の距離感ってどうなんだ?」
「えっ何、間合いのこと?任せて、わたし空手もやってたの!」
茅春は立ち上がり、ガチの半身の構えを取る。
彼女は体育会系の『距離感』と『間合い』を混同しているらしい……。
なかなか様になってるが、ここは社員食堂だ。
「基本は三つ!相手が動く前に打つ!動き出しを打つ!受けてから打つ!」
「ちょっ、茅春。もういいから、やめてくれ!」
慌てて引き留める俺の声は、もう彼女には届かなかった。
茅春は鋭い眼光のまま、誰もいない空間をキッと睨みつけた。
「わたしのデッドラインの内側に入った者は生きて出られなと思いなさい!」
「中二病全開か!お前はどこの暗殺者だよ! 早く座れ!」
俺たちの社会的デッドラインが、すぐそこまで迫ってきていた……。




