第64章 呉織の神は距離を測らない
第64章 呉織の神は距離を測らない
「クレハ、ローストチキンのタレがついてるぞ?」
俺は、なにげにティシュで彼女の頬を拭いた。
アナハにいつもしていたのが、習慣になっていた。
ふと、気がつき、急いで手をひっこめた。
「すまん、つい癖で……アナハにやっていたみたいに……」
「紡くん、優しいんやな……」
「そういえば、アナハとは会っておらぬのか?」
口の周りをタレだらけにしたエヒメが聞いた。
「アナハは、足が遅いからさ、ハンデやと思って先に行かせたんやけど、電車にのるなんて思ってなかったわ」
……いや、それが普通だと思う。
「そういえば、織恵はどうしたんじゃ?あやつ、姉妹が来た時には、いつも一番に嗅ぎつけて来るじゃろ?」
「姉様、ここにはそんな『神様臭探知機機能』まで持つ者までいるんか!」
クレハがまた、キラキラした目で俺の方を見てくる。
俺は首を振った。
「お前らが来た時に毎回大騒ぎするからだろ。隣の部屋まで声が丸聞こえなだけだ」
「佐藤さんは、今実家に帰っているよ」
「大分だったな、土産が楽しみじゃ」
「そりゃ遠いなあ、織恵さんもかなりの脚力やな」
「クレハ、お前の基準で考えるな……」
夕食が終わり、汗をかいているだろうクレハを先に風呂に勧めた。
「クレハは髪が短いからシャンプーは二回プッシュまでな」
「わかってるって、そんなアホみたいにドバドバ使うやつなんか、おらへんって」
——いや、十回プッシュするアホがいるんだ。
「ほな、入ろうか?」
「は?」
「えっ?」
「なんや?……一緒に入らへんのか?」
「お前は……当たり前みたいな顔して、何を言っているんだ?」
クレハは不思議そうに首を傾げ、それから納得したように手を叩いた。
「……そうか、狭いんやな。ごめん、勘違いしとったわ」
そう言い残し、クレハはクレハは脱衣場へと消えていった。
……しかし、扉は開けっ放しだった。
「……エヒメ、俺、何か間違っているか?」
「あやつも、違う意味で距離感がおかしいからのう……まあ、気にするな」
物理的な移動距離だけではなく、人との距離感さえおかしいのかと、俺は頭を抱えた。
だが、裏表のない彼女の性格に、不思議と悪い気はしない。
今回はヤンデレの修羅場もなく、管理人の婆さんの出番もなさそうなことに、ひとまず胸を撫で下ろした。
風呂上がりの着替えを探してクローゼットを開ける。
オトの白いカーディガンが掛かっており、その横にはアナハが置いていった例のトラパーカーがあった。
——これはクレハには小さいかな……。
トラパーカーを手に取り、クレハの体型を思い浮かべた。
襟のタグの部分に刺繍がしてあった。
……『アナハお泊り用 貸出厳禁』
——徹底してやがる。仕方ない、俺のパーカーでいいか。
そんな俺の心配をよそに、風呂から上がってきたクレハは、すでに着替えを終えていた。
さっきとは色が逆の、白のスポブラに黒の短パン姿だった。
「なんだ、着替え持ってきてたのか」
「うん、走るのに邪魔やから、先に送っておいたんや」
「それで、来た時エントランスの郵便受けの前で何か探してたのか」
「そうや、コレや!」
彼女の差し出したものは、馴染み深い『黒い猫』のマークが印字された箱だった。
「お前、そこは『飛脚』じゃないのか!」
「だから、違ういうとんねん!」




