第60章 主様監視中
第60章 主様監視中
「紡よ、アナハは去り際に何を言っておった?」
「……えっ!?」
「おぬしの縁のことじゃ」
「ああ……確か、多くの神との縁がみえるって言ってた気がする」
まだ、あのことが俺の夢だったのか、それともアナハが最後に見せた奇跡だったのか、まだ理解が追いついていなかった。
「そうか……やはりおぬしは、そういう縁があるんじゃな」
「……そうなのか」
「何を落ち込んで居る!アナハは元いた場所に帰っただけじゃ。おぬし、アナハの毒気に当てられよったか?」
「この後が大変なのじゃ、気を付けるんじゃぞ」
「この後が大変って……どういう意味だ?」
問い詰める俺の声には答えず、エヒメは『ふわぁ』と大きなあくびをすると、そのままベッドへと倒れ込んだ。
そして一秒と経たずに、すやすやと小さな寝息を立て始める。
——せめて訊いた答えを返してから寝ろよ。
しかし、彼女の言った言葉の真意を、俺はすぐに身をもって知ることになった。
会社に行くためにクローゼットを開け、いつものように仕事着に着替えようとした時のことだ。
アイロンの掛けられたワイシャツに袖を通し、鏡の前でネクタイを締めようとして、手が止まった。
——何かある。
ワイシャツの裾、そしてネクタイの裏のめくった部分に、同色系の極細の糸で、しかし恐ろしく緻密な刺繍が施されていたのだ。
『ANAHA 主様 LOVE』
「大丈夫だ……落ち着け。こういうのは慣れてる……はずだ」
自分にそう言い聞かせ、冷や汗を拭うためにポケットからハンカチを取り出した。
だが、洗面所の蛍光灯の光が当たった瞬間、光の加減で織り目が怪しく浮き上がった。
特殊な紋織りの技術で、布地そのものに文字が組み込まれている。
『穴織専用主様』
「……技術の無駄遣いが凄すぎるだろ。……まだだ、まだ大丈夫だ。これなら会社では見えない」
自分に言い聞かす。
震える手でシャツの襟を正そうとした時、今度は襟の裏側に、真っ赤な絹糸ではっきりと刺繍されているのが見えた。
『売約済 SOLD-OUT』
さらに、スラックスを穿こうとして腰の部分に目を落とした瞬間、そこには禍々しいほどの漆黒の糸で、太々とこう刻まれていた。
『禊中』
崩れそうな気持を押さえスラックスのジッパーを上げようと視線を落とす。
生地の重なる部分の裏。
『主様監視中』
「売り切れってなんだよ! 誰に売約されてるんだ! それに俺は今、別に禊の最中でもないし、普通の会社員だって言っただろ!」
アナハの、あまりにも技術が高すぎて逃げ場のない、歪んだ愛情の置き土産。
——もう、着替えてる時間がない。この『呪いのフル装備』のまま会社へ行くしかない!
俺は部屋を飛び出し、会社に向かった。
慌ただしい午前中の仕事を終え、昼休み、茅春と昼食を食べる。
「そうなんだ、アナハちゃん大阪に帰っちゃったんだ。急に寂しくなっちゃったね」
「……ああ見えて、忙しいらしいよ」
「彼女、普段は何の仕事してるの?」
「あ、ああ、仕事か……そうだな、神社の仕事……かな」
まさか茅春には、本物の祭神とは言えない。
「巫女さん? 確かにアナハちゃん、和風の装束が似合いそう」
「そ、そうだな……間違ってはいないと思う……」
曖昧に視線を彷徨わせる俺に、茅春は楽しそうに笑いながら、身を乗り出してきた。
「それでね、紡。今週の休日って何か予定ある? もし空いてたらさ……」
「今週か?ええと、特に予定はなかったと思うけど……」
俺は確認のために、ポケットからスケジュール帳を取り出し、カレンダーのページを開いた。
俺の休日の欄。
その全てのマス目に、『予約済』の文字。
指でなぞるとそれは糸だった。
これ以上ないほど鮮やかな赤い糸で繊細な刺繍が並んでいた。
——紙に刺繍って……神技なのか?……紙技?。
もう、俺には正確にどうツッコめばいいのか、分からなくなっていた。




