第56章 居付きの神様
第56章 居付きの神様
フラワーショップを後にした俺たちは、同じフロアにある大きなペットショップへと足を向けた。
ガラス越しのケージの中で、小さな子犬たちが、短い尻尾をちぎれんばかりに振ってじゃれ合っている。
「小さくて、かわいいな」
アナハが珍しく、目を輝かせてガラスを覗き込んだ。
その様子に気づいた店員が、笑顔でケージからゴールデンレトリバーの子犬を取り出した。
「抱っこしてみますか?」
店員はアナハの腕の中へと、そっと子犬を預けた。
「とても元気な男の子なんですよ。今はこんなに小さいですが、すぐに大きくなりますからね」
「主様、主様も抱いてみてください」
アナハに促され、俺も恐る恐るその小さな体を腕に受け止めてみる。
「……本当だ。フワフワの毛が柔らかくて、すごく温かいな」
手のひらから伝わってくる、生きた命の確かな熱。
その背中をそっと撫でながら、俺はふと現実に戻って小さく息を吐いた。
「でも……うちのマンション、ペット禁止だから飼えないんだよな」
「あら、そうなのですか? では……エヒメ姉様は良いのですの?」
アナハが不思議そうに首を小さく傾げ、前髪の奥の片目で俺を見上げてくる。
言われてみれば、我が家のワンルームには、すでに立派な『珍獣』が居座っている。
「……あれは飼ってるんじゃない。ただの居付きの神様だ」
子犬をケージに戻しながら、俺は昨夜や今朝のことを思い出した。
無責任な言葉だけ残して爆睡したエヒメ。
ペット以下の扱いにしてやれたことに、少しだけ仕返しができた気分になり、思わず笑ってしまった。
デートを終えた帰りの電車の車内。
運悪く前を走る電車の安全確認の影響とかち合ってしまい、休日夕方の車内は、隙間もないほどの混雑に見舞われていた。
おまけに、駅でもない線路の途中で、電車が完全に非常停止して閉じ込められてしまう。
「アナハ、大丈夫か?」
周囲からの圧力に押され、俺とアナハの身体は完全に密着する形になった。
アナハは俺の胸元にすっぽりと収まるようにして身を寄せている。
彼女の柔らかさと体温が胸に伝わってきた。
あまりの距離の近さに、どこを見ていいのか分からず、俺は天井の路線図を見つめていた。
数分後、ようやく『ガコン』と重い音を立てて電車が再び動き出した。
「……あっ」
その瞬間の強い揺れに耐えかねたように、アナハが小さく声を漏らし、俺の腰のあたりに両腕を回してぎゅっと抱きついてきた。
——まあ、満員電車だし、ヒールも履いてるからな。
これは不可抗力だ。仕方ない。
俺はそう自分に言い聞かせ、彼女が転ばないように、抱きつかれたままの姿勢でその小さな身体をそっと支え続けた。
アナハは俺の胸に顔を埋めたまま、心なしか嬉しそうに身体の力を抜いていた。
ようやく最寄り駅にたどり着き、改札を出るとすっかり夕暮れの匂いがしていた。
賑わう駅前の商店街を歩きながら、俺たちは留守番をしている居付きの神様へのお土産を探した。
肉の蒸し上がる白い湯気と、甘辛い醤油のいい香りに誘われるようにして、老舗の中華惣菜店の前に立ち止まる。
「エヒメのやつ、そろそろお腹を空かせている頃だしな」
俺たちは、ふっくらとした白い生地にとろとろの豚肉が挟まれた『角煮まん』を買い、その温かい紙袋を手に、我が家へと向かった。
マンションの前、見慣れた姿を見つける。
紙袋を持った、茅春だった。
「あっ、紡。アナハちゃんと買い物に行ってたの?」
彼女が俺の紙袋を覗き込む。
「あら、紡。……もしかして『角煮まん』ダブっちゃったかも」
「俺も匂いにつられて買ったんだ。でもうちは余ることがないから大丈夫だよ、茅春」
そう言って、部屋に帰った。
「おう、紡よ。アナハの機嫌はなおったか?それに茅春ではないか」
相変わらず無責任な発言をするエヒメ。
俺と茅春の持つ紙袋からのいい匂いに、いち早く気づいた。




