第55話 水面に映る織女
第55話 水面に映る織女
プラネタリウムを出ると、通路の照明すら眩しく感じられた。
俺たちは施設に隣接するカフェへと入った。
注文したアイスコーヒーのグラスに結露が浮かび上がるのを眺めながら、俺は先ほどからずっと喉に引っかかっていた疑問を口にする。
「なあアナハ。さっきの天の川の話……『少し違う』って言ったの、どういう意味なんだ?」
ストローをくわえて冷たいココアを飲んでいたアナハは、ふっと動きを止め、グラスを置いた。
「……アナハの知る本物の織女の物語は、もう少し寂しいものですの」
「本物の、物語?」
「ええ。離れ離れになってしまった織女を想い、悲しみに暮れていた貴公子は彼女に一目会いたいと願ったのよ」
「神聖な境内に流れる『天の川』。その清流で、自らの身を清める禊を行いましたの」
「すると、澄んだ水面にだけ、優しく微笑む織女の美しい姿がありありと映し出された……」
「……水面に、映っただけ?」
「そうですわ。年に一度、抱き合うなんて、そんな奇跡は起きませんのよ」
「貴公子はその後、生涯独り身のまま、神に仕える身となりましたの。二人が現世で交わることは、二度となかったのですわ」
どこか遠い時代を見つめるようなアナハの寂しげな語り口に、俺は思わず言葉を失う。
「……そうなんだな。切ないっていうか、厳しい話だ」
「ふふ、お気の毒に思われます? ……ねえ主様。主様も、会いたい誰かに会うために、禊をなさいます?」
アナハはいつの間にかいつもの妖艶な笑みに戻り、テーブル越しに身を乗り出して俺の顔を覗き込んできた。
「俺は貴公子じゃないし、牛を飼ってるわけでもない。普通の会社員だよ」
アナハはクスリと小さく、鈴の鳴るような声で笑った。
「そのわりには、ずいぶんと多くの『神』を集めておられますけれど?」
「集めてるんじゃないよ! お前らが勝手に集まってくるんだよ!」
俺の心からの叫びに、アナハは今度は声を上げて楽しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、今朝までの険悪な空気は、いつの間にか綺麗に消え去っていることに気づいた。
カフェを出た俺たちは、ショッピングモールの中を当てもなく歩いた。
アナハがふと、大きなフラワーショップの前で足を止めた。
店内には色鮮やかな季節の花々や、瑞々しい緑を湛えた大小さまざまな観葉植物が所狭しと並んでいる。
アナハは並べられた花に近づき、その花弁の重なりや、葉の複雑な葉脈を熱心に見つめ始めた。
「花の形や葉の形が、そんなに珍しいか?」
「ええ。こういう自然の造形は、綾や錦の文様の、参考になりますの」
そういえば、今のアナハが着ている黒のニットワンピースにも、左右で異なる模様が施されていた。
一見すると左右で不揃いな柄なのに、不思議なほど全体の調和が取れていた。
自然と体のラインをなぞり、そこから伸びるしなやかで白い手足に、思わず目が移ってしまうような不思議な感覚があった。
「その服もお前が作ったのか?」
「主様は、アナハの『服の方』にもご興味があるのですか?」
「いや、さっきからずっと服の話だからな」
「わたしは自分で仕立てたものしか着ませんわ」
アナハは当然のようにそう言ったが、羽織るカーディガンはオトのものだった。
それが、彼女とオトとの関係の深さを感じさせた。
「わたしの神御衣にも、こうした植物を模した刺繍や文様が、施してありますのよ」
誇らしげに胸を張ったアナハは、俺の顔を覗き込んできた。
「……主様。アナハの神御衣姿、見たいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、強い衝撃が走った。
オトとの、夢の世界での別れ。
最後に俺の前から消え去るその瞬間、身に纏っていた息をのむほどに美しく神聖な衣。
あれが神としての本来の姿であり、そしてそれは、俺にとっての『別れ』の象徴だった。
そんな俺の、明らかに強張った表情を、アナハは黙って見つめていた。
アナハはそっと俺の袖口を掴み、いつになく穏やかな声で言った。
「主様。わたしは、まだ消えることはありませんわ」
「……そうか」
見上げる彼女の瞳には、真っ直ぐな慈愛の色が灯っていた。
俺は小さく息を吐き出し、それだけを返すのが精一杯だった。




