第52章 暖かくて柔らかい
第52章 暖かくて柔らかい
キッチンの電子レンジの前で身構えるエヒメ。
あいつは、電子レンジでアルミ容器の鍋焼きうどんを調理して、火を噴かした前科がある。
俺の心配をよそに、ほんの十秒ほどで、彼女の調理は終わったようだ。
皿に乗って出てきたのは、レーズン入りネオバターロールだった。
見た目はただ温められただけのパンだ。
「紡、我はついに極めたぞ!心して食せ」
「……ああ、ありがとう」
半信半疑で口に運んだそれは、俺の想像を遥かに超えた出来だった。
外側はふんわり、中のマーガリンは絶妙に溶け出し、レーズンの甘みが引き立っている。
「……確かに美味いな」
「そうじゃろ、ここまで攻略するのに苦労したわ」
エヒメは自慢げに胸を張り、満面の笑みを俺に見せた。
「アナハのたこ焼きより上じゃろ?」
「織恵にも負けておらんじゃろ?」
「エヒメ、もしかして……気にしてたのか?」
彼女はふいと視線を逸らした。耳の付け根がほんのり赤い。
……冗談で言ったつもりだったが、図星だったようだ。
「まあ、これぐらいはしてやってもよいぞ」
「ありがとう、本当に美味かったよ」
エヒメの気持ちが嬉しかった。
……しかし、温める秒数は教えてくれなかった。
その時、背中に刺さる視線を感じ俺は振り向いた。
アナハはどこか虚ろな目で俺をじっと見つめ、そして、いつもより声をワントーン低くして言った。
「……主様、何をしてもらったのです……」
「……何が美味しかったのですか」
「パンだよ、パンの話だよ」
「……おかしいですね、先ほど、夕食を食べたばかりなのに……別の『美味しいもの』を、姉様に味わわせてもらったのですか……?」
「本当にパンだけだよ、エヒメ助けろよ」
さっきまで、隣に居たエヒメの姿はなかった。
パソコンの前でヘッドセットを頭に装着して、完全にこちらを無視していた。
——この状態のアナハを押し付けたな……。
混乱する頭で言葉を探した。
「お、お前もほら、障害があるほど燃えるって言ってただろ?」
口に出してから……これは違う、と後悔した。
エヒメの元に走り寄り、エヒメのヘッドセットを無理やり外そうとした。
「いやじゃ、いやじゃ、自分でなんとかせい!」
「半分はお前の責任だろ、何とか言ってくれ!」
エヒメは俺の手を振り払いながら、叫んだ。
「暖かくて柔らかかったじゃろう!」
「おい、いらない情報を口走るなよ!」
部屋の温度が数度下がった気がした。
アナハは下を向き、前髪の隙間から、濁った視線だけを真っ直ぐ俺に向ける。
「……柔らかくて……暖かくて……手に吸い付くような……揉みごたえ」
「アナハ、勝手に色々足すなよ!」
「……もう、二度と目を離しませんわ」
アナハのその言葉に、背筋に冷たいものが走った。
——俺は一体どうなってしまうのだろう。
それからは、宣言通りアナハは目を離さなかった。
浴室のドアを内側から押さえながら、風呂に入り、トイレのドアを引っ張り合い用を足す。
身も心も疲れ果て、ようやくベッドに横たわった瞬間、ふわりと心地よい感覚があった。
そこにあったはずの枕は、いつの間にかアナハの膝枕に代わっていた。
「主様、アナハも暖かくて柔らかいですわよ」
「……パンの話だって」
もう、俺にプライベートはないのだろうか。
会社にまで付いてこられては困る。
なんとか明日中にアナハの機嫌を直さなければ。
……もっとも、その時の俺はまだ知らなかった。
アナハが想像以上に本気だったことを。




