第4章 ベランダから獲るわ
第4章 ベランダから獲るわ
「つむぎ……紡、起きて……」
耳元で囁かれる優しい女性の声。
窓から差し込む、柔らかな光。
——ああ、これだ。一人暮らしを始めてから、ずっと夢に見ていた理想の朝がここにある。
「……ああ、分かったよ」
「早く起きるのじゃ! 一大事じゃ!」
頭を揺さぶる乱暴な手に、俺は現実に引き戻された。
「なんだ、エヒメ、お前かよ!」
「朝ごはんがないのじゃ、このままじゃ腹が減って寝られん」
「どこのニートだよ!」
渋々、コンビニへ買いに行くことになった。
「今日はチョコチップの入っているほうじゃぞ」
そう言って、玄関から送り出された。
敷地内の祠の前に、佐藤さんの姿があった。
「……おはよう、佐藤さん」
「川崎さん、まだあの方いるの?」
「オールでネトゲしてたよ」
「……これ見て」
祠の扉の奥に視線を移した。
『八幡大神 / 呉服守護』と書かれた札があった。
「あいつ、昨日『呉服問屋の屋敷神』って言ってたな……」
「そうよ、調べてみたら昔々、ここには大きな呉服問屋があったの。やっぱり本物の神様なんだわ!」
「あいつ、マジで何者なんだ……」
「わたしは信じるわ!」
佐藤さんの目は輝いていた。
それは彼女がエヒメの本当の姿を見ていないからだ。
俺にはニートかネトゲ廃人にしか見えない。
「じゃあね、今晩もお邪魔するね!」
佐藤さんは当たり前のようにそう言い残し、手を振って学校へと向かっていった。
彼女とまた以前のように笑顔で話せるようになったことだけは、純粋に嬉しかった。
チョコチップ入りのパンを手にコンビニから戻り、部屋に入るとエヒメの姿はなかった。
机の上に置かれたヘッドセット。
テーブルの上の空の乳酸菌飲料の容器。
そして、床に脱ぎ散らかされた俺のTシャツ。
それから……黒いレースの下着。
「……おい、エヒメ」
「なんじゃ?」
——いるのかよ……。
「シャンプーが切れておるぞ」
「先週買ったばかりだぞ。何プッシュしたらそうなるんだよ」
「我は髪が長いからのう。十プッシュほどじゃ。あれは、なかなか良い」
「使いすぎだろ、あれオーガニックの高いやつだぞ」
「……って、風呂入ってたのか?」
見ると、エヒメは俺のお気に入りのパーカーを羽織り、俺のトランクスを穿いて、買ってきたばかりのチョコチップパンの袋を早くも開けていた。
足元は、昨日とは左右逆の色の靴下だった。
「あの娘に、替えの衣を持ってこさせろ」
「……ああ、今夜来るって。その時に自分で頼めよ」
どんどん侵食されている実感が湧いてきた。
「よいよい、面倒じゃ。ベランダから獲るわ」
「……お願いだから、やめてください」
これ以上、隣の佐藤さんに変質者扱いされたら、俺の社会的な命がベランダから墜落する。
「お前な、神様ならもうちょっとこう、手のひらに新しい服を出現させるとかできないのか?」
「人のパーカーとトランクスでチョコチップパンを貪り食う神様がどこにいるんだよ」
「ふん、供物を食うて何が悪い」
「それに、ゲームの世界では皆、我を『神』と認めておるぞ」
「いや、そういう意味じゃないから……」
うなだれて、視線を落とした。
パーカーの折り上げられた袖からのぞく、華奢で白い手首。
俺のトランクスの裾からすらりと伸びる、しなやかな脚。
無造作な格好のはずなのに、すべて計算された着こなしに見えてしまい、男として妙に視線のやり場に困った。
「……男の部屋でそんな無防備な格好するな。とにかく、俺は仕事に行くからな」
「留守中、絶対にベランダから他人の服をハントするなよ。あと、ガチャも回すな」
「分かっておるわ。紡、稼いできて、また我に美味いものを供えるがよい」
ひらひらと片手を振るエヒメに後ろ髪を引かれつつ、俺は重い足取りで会社へと向かった。
その日の仕事は、まったく集中できなかった。
頭に浮かぶのは俺の部屋の惨状ばかりだった。
エクセルの数字が全部、ガチャコインの数に見えてきた。
今頃あのニート神は、俺のベッドで漫画を散らかしているのか。
それとも俺のキャラを動かして、ネトゲのギルドメンバーを怯えさせているのか。
気が気ではなかった。




