第3章 擦り切れた神様
第3章 擦り切れた神様
隣人の佐藤さんは震えながら部屋へと帰っていった。
——佐藤さんは一体、何をされたんだ。
——あの女は、本当に何者なんだ……。
押し寄せてきた疲労感に、崩れるようにベッドの縁へ腰を落とした。
「紡、お前は帰らぬのか?」
背後から声がした。
振り向くと、彼女はベッドに寝そべり、俺の部屋の棚から勝手に持ち出した漫画五十巻セットの三十八巻を読んでいた。
「俺の部屋だから! って、なんで俺の名前まで」
「分からぬ奴じゃな。我の地に、お前の名前が書かれた荷物が送られてくるから、嫌でも覚えるわ」
「お前の地みたいに言うなよ! ……じゃなくて、今までどこにいたんだよ。いた場所に早く戻ってくれよ」
「ずっと前から、この部屋のここにおるわ」
彼女は買い置きの紙パックジュースのストローをくわえ、俺を見た。
「……賞味期限の古いやつから飲んでくれ……じゃなくて、今までいなかっただろう」
「姿を消しておっただけじゃ」
漫画を閉じた彼女は、それを本棚の空きスペースへ雑に突っ込んだ。
「順番に揃えてくれ」
「お前、小姑か!」
エヒメはどこからか、なくしたはずのテレビのリモコンを取り出して電源を入れた。
すかさず俺は、なくしたと思って買い直したリモコンを向け、テレビの電源を落とした。
点ける、消す。点ける、消す。
そんな不毛な応酬を数度繰り返した。
「電気の無駄遣いじゃ! 電源を入れた瞬間に一番電気を食うのじゃぞ!」
「その電気代を毎月払ってるのは俺なんだよ!」
言い返すと、彼女はベッドの上で背を向け、丸くなってしまった。
「……そんな冷たい言い方しなくてもいいじゃろ。我だって、いろいろと困っておるのじゃ」
背中を向けたまま、鼻をすする音が聞こえてきた。
「……悪かったよ、言い過ぎた」
——少しだけ、本気で悪いことをしてしまったと思った。
一人暮らしの俺の部屋に突然現れたとはいえ、女の子を泣かせるような真似は寝覚めが悪い。
ゆっくりと振り返った彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。
「……お前」
その手には、数日前になくしたはずの目薬がしっかりと握られていた。
「……」
「エヒメでよいぞ。明日も仕事じゃろ、そろそろ寝るがよい。今日のレイドボスは我に任せておけ」
そう言ってパソコンの前へ移動し、慣れた手つきでヘッドセットを着け、キーボードを叩き始めた。
——そうか、こいつが俺の知らない間にレベル上げやアイテム集めを……。
というか、神様のくせに他人のアカウントでネトゲのレイド戦を荒らすな。
「ちなみに、お前が貯めておったコインでガチャを二十連回したが、見事に爆死したがのう」
俺が死に物狂いで貯めたガチャコイン。
……絶句した。今すぐ出ていってほしかった。
「おい、エヒメ。ガチャの件は後でじっくり聞くとして、さっき『我だって困っておる』って言ったのは何なんだよ」
キーボードを叩くエヒメの細い指先が、ぴたりと止まった。
彼女はヘッドセットを首にかけ直すと、椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を見上げた。
その横顔は、ゲームをしているニートのそれなのに、どこか遠い昔を惜しむような、寂しげな影が差していた。
「我は『衣』の神。人間が自分の手で糸を紡ぎ、布を織り、一針一針に願いを込めて服を作っていた時代は、我の力も満ちておった」
エヒメは、自分が着ている俺のTシャツの裾を摘まみ上げた。
「だが現代はどうじゃ。機械が吐き出したペラペラの安物を買い、破れれば平気でゴミ箱へ放る」
摘まんだ指を離した。
「……そんな世界で、我の神格はすっかり擦り切れておったのじゃ」
「だから、姿を消して、この部屋の隅でじっと耐えておったのじゃがな」
彼女は苦笑を浮かべた。
「それがなぜ、急に現れたんだよ」
「あの隣の娘と紡、お前たち二人のせいじゃな」
「お前たちが、我を引っ張り出したのじゃ」
「じゃあ、隣に行けよ。佐藤さんはお前のこと気に入ってたみたいだぞ」
「……無理じゃ」
エヒメは視線を落とし、少し寂しそうな顔をした。
「……行けない理由があるのか?」
「そうじゃ、あっちの部屋にはゲームもないし、冷蔵庫に旨いものが入っておらん!」
「……結局、物欲全開じゃねえか!」
ともあれ、彼女が姿を現した詳しい理由は分からないままだった。
ただ、この地には俺たちの知らない意味があるらしい。
マンションの敷地内にある祠が気になっていた。




