第35話 オトの神御衣(かんみそ)
第35話 オトの神御衣
「……紡、……紡」
「その声は……オトか?」
そこは、波打った光が降り注ぐ紺色の世界だった。
奥行きが無いような、無限に続く空間。
足元は暗く、俺の足には地面の感覚がなかった。
「……紡、あなたに……」
声のする方へ視線を上げた。
そこには、身体の線をかたどる深紅の衣の上に、白く透き通るような、風を孕んだような衣を羽織った女性の姿があった。
袖や襟から伸びる組紐は重量を失ったように、宙を舞っていた。
流れるような刺繍の入った深紅のドレスの深いスリットから覗く足は、俺の視線より高い位置にあった。
「……これが、私の神御衣」
その声は、直接心に届くような声だった。
「……最後に、あなたに見て欲しかった」
「……最後ってなんだよ、まるでもう……」
言葉を止める。それを言葉にしてしまえば、本当にそうなりそうだったからだ。
それでも、彼女は俺の言葉を繋げた。
「消えてなくなる訳ではありませんわ。ただ、もう……」
「違う!」
俺は首を振った。
「それは……同じだよ……オト」
「紡、わたしとあなたの時間は、同じではありません」
「君にとってはそうかも知れない……でも俺は……」
「……そうです、わたしにとっての『この時間』は……紡との時間は……」
「分かっている!ずっと一緒に居られないことは。でも……」
「……ありがとう、紡。……わたしを見てくれて」
「……オト」
彼女との距離が近づいた。今なら抱きしめられそうな距離だった。
だが、神々しい彼女に、俺はそうすることはできなかった。
彼女の手が差し出され、俺の頬を触る。
感覚はないが、温かい熱が伝わった。
「オト、綺麗だな……」
視界が歪む中で彼女の顔を見る。
いつもの妖艶な笑みだったが、それは慈悲に満ちた微笑みだった。
そのまま、俺は淡い光に包まれた。
その光が、窓から射す朝光だと気づく。
「……夢か」
しかし、腕にはいつもの重みが無かった。
「オト!」
飛び起きて、周りを見渡す。
ハンガー掛けに彼女の着ていたフォーマルなスーツが掛かっていた。
そして枕元には、オトに取られた俺の黒のカーディガンが綺麗に畳まれて置かれていた。
「見てやったか?」
呆然としていた俺に、エヒメが声をかけた。
「ああ、……綺麗だった」
そう言ってベッドから立ち上がる俺に、エヒメが抱きついた。
「……そうか、紡よ。よくやった、……すまなかった」
「エヒメ、謝るなよ。お前らしくないぞ?」
「あやつは大馬鹿物じゃ……でも最高の衣縫部じゃった」
「……そうだな」
俺のワイシャツの胸のあたりが温かく湿った。
「……エヒメ、鼻水つけるなよ」
「うるさいわ、シミになったら仕立て直してやるわ」
そう言って、俺たちは泣きながら笑った。
「エヒメ……お前は消えるなよ」
「……神饌次第じゃな」
「おまえは『食い意地の神』か?」
「ゲームの世界では皆、我を『神』と呼んでおるわ」
「おまえってやつは……」
平日なら出勤の時間になっていた。
「エヒメ、朝だぞ。もう寝ろ」
「紡、おぬしも寝ておらぬじゃろ?」
あれは、夢だったのか現実だったのか、分らなかった。
だが、少し眠く体も頭も重かった。
「今日は特別じゃ、我が添い寝してやろうぞ」
「ありがとな、エヒメ」
俺たちはそのまま昼まで寝た。枕元に畳まれたカーディガンと共に。
それは温かい体温を失った布の塊でしかないはずなのに、俺の胸には確かに、彼女との布の感触が残っていた。




